第26話


 日が傾き始めた夕暮れ時。

 窓から入る外光量が少なくなるにつれ、次第に暗くなってきた長い廊下を歩くシエナは、少しだけ不服そうな目を溜め息混じりに伏せる。

 というのも、自身の身の回りに置く人材確保のため、ここ数日遠くから観察していたメイドの姿が今日は見当たらなかったのだ。


 昨日までと同様に、今日もただひたすら隠れて観察するだけが目的なのであれば見当たらなくても構わないが、薬草や薬液などの観察には寝食を忘れて没頭してしまうシエナも、仕事の隙間時間を使い程々に行っていた人間の観察には、たったの五度目で飽きてしまい面倒になっていた。

 そのため翌日にくだんのメイドを探し出した際には、直接雇用の話を持ちかけ雇用契約書にサインをもらおうと決めたのだった。


 昨夕に一度そう思い立つと、実際は先程と何ら状況変化もないのに、使用人問題がスッキリと解決したような錯覚を覚えた。

 気掛かりがひとつなくなり、もう考えなくても良いことに気分を良くした事で、二週に一度の頻度で夜から明け方に集中して手掛ける国王の常備薬の製薬作業も滞りなくスムーズに進んだ。

 製薬開始の数時間前に、国王直属の騎士が依頼書と共に持ってくる薬草から最適と思う束を選定するのだが、宮廷の完全管理下で育った特殊な薬草は、普段使う草とは違い薬効の濃くある箇所と全く無い箇所、そして軽微な毒を含む箇所がある。

 毒の溜まる箇所と薬効の溜まる箇所は、一本一本の個体で異なるせいで、選定作業には細心の注意を払うため毎回相当な時間を取られてしまう。

 しかし、今回は草の選定も難航せず精製液の温度調整までが普段よりトントン拍子に進み、その速さは驚く程だった。

 それから幾つかの行程を経て、夜明け前には薬品が完成した。


 小鍋の中で湯気を立てている液体を陶器に注ぎ入れ、ここからは成分と魔力が馴染み安定するのを待つのみ。

 完全に冷めたら、手のひらサイズの美しい小瓶へと小分けにするのだが、それまで数時間もある。目を付けたメイドに快くサインをしてもらえるよう、幾つかの魅力的と思える勤務条件を頭に浮かべてみた。


 休日や勤務時間等は、本人から聞いて後から書き込めるよう不明な箇所は空欄にしつつ、細かな内容の雇用契約書を複数パターン作成した。

 雇用契約書を作り終えても、まだまだ時間に余裕があり更に気分を良くしたシエナは、何日か前に薬師棟から届いていたものの、ざっと目を通してから後回しにしていた書類を持ってきた。

 作業台全面に散らばる様々な薬草の切れっぱしを手で払い、ぽっかり空いた空間に書類を置くと、再び丸椅子に腰掛けながら常に首から下げている鎖の先に繋がった金色の印章を、衣服の間から引っ張り出す。


 代理を立て薬師棟から転居してきたとはいえ、全ての書類仕事を筆頭代理が務められるわけではない。

 代理に託した銅の印章とシエナの持つ金の印章は、紙に押した印自体は同じに見えるが実際の仕様は異なるので、魔導紙に記された重要書類の一部は代理印章では対応出来ない作りになっている。

 届いた書類は目を逸らしたい程の厚みだけれど、本来シエナが捌かなくてはいけない書類仕事の約八割を、現在は筆頭代理が率先して処理してくれているため、感謝こそすれ文句などない。


 もちろん筆頭代理として、人生で一番の多忙を極めているであろうデレクは、その仕事の対価として多くの恩恵を受けているので、シエナの方も後ろめたさの様なものは全く感じていなかった。

 デレク・クーパーが長年に渡り、喉から手が出るほど欲しがっていたらしい高位貴族と一部の者だけが立ち入りを許されている夜会や様々な集まりへの参加資格。それに併せ筆頭代理としての決して安くはない報酬。

 金銭の移行に関してはデレク本人も想定外だったようで、シエナが書いた承認申請書類の内容を初めて目にした時は、驚きの表情をみせていた。

 とはいえ、書面に視線を落とすデレクの表情変化は本当に一瞬の些細なもので、すぐさま普段通りの何でもない風を装う取り澄ました顔に戻った。


 かなりの額といえる報酬は、シエナからの感謝の意などではない。シエナとしてはデレクが面倒を丸ごと受け負ってくれる形が理想だったので、目に見える年俸という報酬も厄介事の一部としてデレクに押し付けたに過ぎない。

 シエナに渡る予定である翌年度の筆頭報酬の大部分を、デレクに移行すると共に、多くの権限も任せる旨を明記した書類をデレクを通じ提出すると、何と三日と待たずに上からの承認が得られた。

 この手続きさえクリアすれば、大部分の仕事がシエナに回って来ることはなくなる。

 承認が下りたという知らせを受け取った時は、簡単で簡潔過ぎるのではないかと若干の不安さえ感じた。

 当初考えていた一月ひとつき強より遥かに短い日数でスムーズに物事が滞りなく進んだのは、デレク・クーパーが奔走したお陰に違いない。

 勿論それを見越したからこそ、誰よりも先にデレクへと話を持ちかけはしたが、塔から出るのを決意して数日程度で許可が下りるとは思ってもみなかった。

 承認申請に関してのデレクによる人脈の使い方といい、神殿に向かう前にネヴィアが方々に手を回していた事といい、事前に裏で動く必要さを改めて感じる機会となった。


 あの時、もし自分が一人で率先して動き真正面から代理を立てたいと言い出していたなら、国王の否の一声で再度代理の案など発言しないよう言い渡されていたに違いない。

 ネヴィアが神殿で眠りについている今、国王の常備薬を作れるのはシエナだけ。目の届く範囲に繋ぎ止めて置きたいのは当然といえよう。

 薬草についての助言が欲しかった隣国の皇子への接触も、国王を通さず他の誰かを頼れば書簡のヘンジクライナラ受け取れるくらいの結果には至っていたのだろうか?今さら考えたところで意味はない。

 どこまでも幼く世間知らずで、師匠を始めとした大人に守られ、ぬくぬく生きてきた自分に嫌気がさした当時を思い出して溜め息が出る。



 好ましくない過去の記憶を端に追いやるように、書面の隅々まで目を通す、サインを記す、印章を押すを繰り返した。

 一心不乱に続け、ようやく最後の書類が片付いたタイミングで、国王の騎士が到着したと知らせる執事の声を扉越しに聞き、玄関ホールへと急いだ。

 依頼品を直接手渡してから、報酬の入った革袋を受けとり、サインを済ませると、全てをやりきったような清々しい気分になった。


 この丸二日は不眠不休で何かしら動いていたのと、製薬後の急激な魔力低下も重なったシエナは、捺印済み書類が置かれている場所は無意識に避けた結果、草の破片が散らかったままの作業台に突っ伏すように意識を手放し泥のように眠ってしまった。


 そんなこんなで、あっという間に数時間が経ち、再び開らいたシエナの目に映った時計の針は、最後に時間を確認してから四時間以上も進んでいた。


 (少し腰掛けるつもりが……)


 当初の予定では、一時間前には風呂から出て身支度を済ませ、今頃はシエナ自信作である雇用契約書を持って、目当てのメイドを探し始めているはずの時間だった。

 あまりの驚きに大きく目を開いて即座に立ち上がり、棚に並ぶ保存瓶の中から白く小さな石をひとつ鷲掴みすると、大慌てで浴室を目指して走る。

 寝室に入ると、ベッドがある位置とは反対の奥にある扉を抜けて、広々とした浴室に足を踏み入れたシエナは、手前の目隠しの衝立ついたてを通り過ぎ、歩く毎に室内履きの靴や身に纏っている布を一枚ずつ脱ぎ散らかしながら、裸足で大理石で出来た浴槽へと近付いて行く。

 普段から入浴の時間が早朝だったり、真っ昼間だったりと不規則な生活を送っているシエナの要望で、浴槽内には常に湯が張られている。

 そこに手を入れてみると、午前に熱めで溜めたであろう湯は、想像以上にぬるくなったため、研究室を出る時に持ってきた半透明で乳白色のゴツゴツとした塊と一緒に、浴槽の脇に常備してある水温を上げる魔導具を浴槽内へ無造作に放り込んだ。


 ドプンッ!と低い音を立て湯に投げ込まれた乳白色の石は、シュワシュワと細かな気泡の尾を出しながら底に沈むだけで、無色透明なままの湯に変化らしい変化は全く見られない。

 靴や衣類を全て脱いだシエナは、まだぬるいであろう湯に入り肩まで浸かると、背中に垂れていた三つ編みをほどき凭れて目を閉じ静かに息を吐いた。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 今現在、シエナ周辺に側仕え候補の三人が居ることには居るものの、シエナと彼女等三人の求めるものと嗜好や思考といった全てが驚くほどに異なっていた。

 そのため、互いのやることなすことの多くが噛み合っていない状態が続いている。

 その事に関して戸惑うことや落胆などは感じないし、単純に個人としての性質や区分が違うのだろうと片付けてしまうのは、薬師棟で過ごしていた幼少の頃から同じような場面に散々出会でくわした経験があるからだろう。

 いや覚えてはいないが、もしかしたら領地にいた九歳以前からその片鱗はあったのかもしれない。

 微かにある幼い頃の記憶を手繰り寄せても、両親や周囲の使用人達は、どこか一歩引いたような顔色と態度だったり、時には憐憫を含んだ目で見られているようにも感じていた事から、きっと自分の本質は変わらないのだろう。


 実際三人の側仕え候補達は、シエナの実母や実妹とは大変相性が良いらしく、遠くから見る限りでは主従関係も円滑のようだ。

 他者との交流とすらいえない軽い挨拶程度の接触ですら、シエナと対面する人間は、一部を除き最終的に愛想笑いを浮かべ気まずそうに目を泳がす事が多い。

 そんな反応を多々見てきたせいか、どうやら自分自身に何かしらの原因があるらしいのも理解した上で、現在は客観的に捉えている。

 他から見れば社交下手な貴族など問題なのだろうが、一般的な令嬢のような社交やお茶会といった貴族令嬢らしい人付き合いなどの経験を持ち合わせていないシエナは、これらの事を問題と捉えておらず、自身の在り方を変える気もなかった……というより、変えるとの考えがはなから頭になかった。

 シエナがこうなってしまったのは、その日常が研究や製薬に満たされていたのと、常に共に過ごしていた師匠のネヴィアが厄介な人付き合いを蹴散らしていたせいだ。

 ネヴィアは大陸上位の天才と言われているものの、基本的に自身の感じる好き嫌いが様々な行動の判断基準で、過去には腹を立てたネヴィアが国王の常備薬の納品すら遅らせた事もあったらしい。

 これに関してはシエナが弟子入りする前の出来事のようで、流石に一度きりの事だろうが、こういった経緯からネヴィアは魔導薬関連の会合や集まり以外、自ら足を運ぶ機会が圧倒的に少なかったのだ。

 となると、シエナに届く招待状の数も少なくなるというもので、結果として現在の社交に疎い貴族令嬢シエナ・クラークが出来上がってしまった。



 側仕え候補者三人を紹介された当初、やたらとシエナを取り囲んでは餌を求め一日中囀さえずる小鳥のような様子で接してきた彼女らに、シエナは五日と持たず限界を感じた。

 シエナが右に動けば共に右へ、左に動けば共に左へ着いてくる三人に、何故こうも纏わりついてくるのか意味が分からず困惑し、逃げるように研究室へと籠った。


 王宮からの依頼品を作る研究室には、当然ながら立ち入り制限が設けられており、シエナが居を移す際の改装工事には王宮から魔導師達が派遣され、壁に幾つもの魔導具を埋め込んでから張ったという警備は強固なもので、シエナが許可した者以外入れない。

 ここなら落ち着けると思ったのも束の間。側仕え候補の三人は、入れ替わり立ち替わりといった具合に扉の前に陣取って、朝から晩まで何かにつけて茶を飲ませようと、研究室の扉を叩き口々にシエナの名を呼んだ。

 研究室このへやは、魔導具によって中の音を遮断してはいるが、良くも悪くも外からの音は通常通り良く聞こえるため三人の若い賑やかな声は研究室に響いた。


 (母や妹はそんなに、朝から晩までお茶ばかり飲んでいるのだろうか?)


 それなりに厚い板一枚を隔てているにも関わらず、シエナの頭に刺さるような甲高い猫なで声から意識を逸らすように、そんなしょううもない事を考えてしまう。

 彼女等の付きまとい行動が、製薬や実験の邪魔になっているのも相まって、元より無表情と言われるシエナの顔は更に凍りつき、放つ雰囲気も氷点下まで冷えきっていった。


 心の疲労度が増していく中で、わざわざここに越してきたのは、多くの煩わしい事柄から距離を置き、瘴気の研究に集中するためなのに、これでは薬師棟にいた方が良かったのでは?との考えすら頭を掠める。

 勿論今さら棟に戻る気は更々なかったシエナが、我慢よりも排除と快適な空間作りを選ぶのは至極当然の事で。


 (父や使用人を総括している者に言っても、次に手配される人材が私の求める条件に合うとは到底思えない)


 現在自宅に引っ込んでいるとはいえ、シエナはれっきとした王宮に名を連ねている役職持ちだ。

 今いる側仕え候補を外しても、多分すぐにシエナ…いや筆頭役職の者と縁を繋げたい貴族血筋から、腰掛け侍女見習い希望の若い娘を見つけてきそうな事くらいは想像に容易い。

 筆頭職は王宮で行われる様々な催しの招待枠を多く持っており、華やかな社交を繰り広げたい人間にとって有用な存在なのだろう。


 実際に着任した当初は、知らない家門からお茶会の招待状や面会要請の手紙等も大袈裟ではなく山のように連日届いていたが、多忙なシエナがそれらに目を通す事はおろか、手に取る事もなく仕事に没頭し平和に過ごせたのは、当時まだ棟に出入りしていたアメリがシエナの邪魔にならないよう処理をしてくれていたお陰だった。


 しかし、あれから年月が経った現在アメリとは連絡は取れない。いや正確には商会に言伝てをすれば返事は来るのだろうが、アメリが棟から離れ二年が過ぎていて、重要な事柄もないのに態々わざわざこちらから手紙を出すのも気が引ける。


 シエナがまだ十四、五歳だった頃と現在では、お互いの生活状況がどう変化しているのかすら詳しくは知らない。

 元来研究以外の事を長くごちゃごちゃ考えたり迷うのが苦手な性分のシエナは、顔を上げて椅子から立ち上がると今だ聞こえてくる三人の方へ歩き扉を開け声を掛けた。


 「ねえ、貴女達…」



 ◇ ◇ ◇ ◇




 必要な仕事を済ませ余った時間があれば、以前のように三階へ行き妹の身の回りの世話をしてはどうか?と提案した途端、三人の少女は実に嬉しそうに目を輝かせシエナの言葉を受け入れた。

 相当ここでの仕事が地味で期待外れだったのだろう。

 まさかの素早さとでもいうべきか、素直と取るべきか……言われた直後から代わる代わる元々勤めていた三階へ足を運び始めたため、その日の午後からは少女達の声に悩まされる事も無くなり、喜ばしい限りだった。


 この提案を告げたのはシエナがこの屋敷に引っ越してきてから二十日と経っていなかったと思う、初めの数日くらいは、ある程度リネンや日用品の用意を三人の内の誰かしらが済ませてから三階へ向かっていたようだが、きっとそれも長く続かなかったのだろう。


 ある日を境にシエナの寝室へ置かれるリネン類や衣類が、以前に比べ丁寧に畳まれていたり、注意を払い重ねられているのに気付き、それが連日続いた事から、自身の身の回りの物を用意をする使用人がまるっきり別の者に変わったのだと理解した。

 もちろん以前が乱れていたわけではなく、ただ新しい使用人の手で整えられた衣類やリネンは、几帳面過ぎる程きっちりと置かれている上に、使う人間の動線なども配慮してあり心地が良かったのだ。

 暫く静観していたものの、それから二ヶ月弱が過ぎても『西側』と呼ばれるこちらに、側仕え候補三人が足を踏み入れた形跡はなく、顔を見る事も声を耳にする事もなかった。

 それらは殆どの時間自室の奥に作られた研究室へ籠っているシエナでも簡単に分かる程にあからさまになっていった。


 三人からすれば、下の者に仕事の指示はしており二ヶ月が経ってもシエナから何の苦情もないのだから、問題ないと思っているのだろう。

 深く考えているわけでもなく、悪意すらない結果がこれなのだと分かるが、王宮に仕えている立場のシエナには機密事項が多くあり、そのシエナの近くにいる者として、そんな安易な思考の者達を容認するわけにはいかなった。

 それに、いつまた何かの切っ掛けで、三人がここに戻って来るか分からない不安定な現状では安心して研究室に籠ってもいられない。

 となれば、早急にシエナと直接の雇用契約を結べる専属の使用人を探さねば。

 多分外から新たに探す選択肢もあるのだろうが、外部に委託した結果が、今回みたいな適材適所の真逆を行く人材が来ないとも限らないし、もとより安心して求人を委託できるような外部との繋がりも思い付かない。

 実際どう動くべきか考えながら屋敷の廊下を歩いている時、窓越しに見かけた忙しそうに走る使用人の女性に、良い意味で引っ掛かる何かを感じたシエナは、その足で執事長室に行き使用人リストを見せてもらうと、時には建物の物陰から時には自室二階の窓を開け見下ろしながらルーシー・ハワスの観察を始めた。


 その結果、翌々日には現在シエナの部屋の管理をしているのが、この女性ルーシー・ハワスだと判明し更に観察を続けるのだが、 シエナによる観察の仕方は、研究中の薬液と変わらぬ執拗さ?しつこさ?を伴う熱心なものだったため、人間に対しては五日で飽きてしまって数日後には自ら雇用を持ちかける事になる。



 

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