第25話


 三階から聞こえてくる微かな雑多音、そして速く打つ自分の鼓動音がやけに大きく感じる中、身体も頭も働かないぼんやりとした目を上げた先には、全く見覚えのない女性が立っていた。


 古風やクラシカルといえば聞こえはいいが、年配のお堅い家庭教師が着ていそうな、首から足首までを覆い隠す広がりの少ないスタイルのロングドレスは、この薄暗い場所と距離では断定出来ないけれど濃紺か濃い灰色だろう。

 本当に幽霊などの類いなら、喪服を連想させる黒い服も有り得ない話ではない。

 身を固くし震えていたルーシーが恐る恐る片方だけを開き確認をしていた目は、謎の人物の顔をきちんと直視した途端、まるで雷にでも打たれたかのように両目とも大きく見開き、口も緩んでしまっっていた。


 それというのも、僅かな灯りしかない廊下であっても……いや暗いからこその相乗効果なのだろうか?

 ルーシーが見つめる先には、ひどく現実離れした等身大の人形だと言っても過言ではない造形の女性がいて、おまけにその女性は他の誰でもないルーシーの名を呼ぶという、いつもの日常とは掛け離れ過ぎた異質な光景に、思考も追い付けないままポカンとする。


 二十三年生きてきて人間や生き物に対し視線を奪われたり、目が離せなくなる経験などなかったルーシーは女性を見続けていたが、女性が更に距離を詰めて来た事によりバチっと目が合ってしまった。

 上階の灯りが降り注ぐ範囲に入ってきた女性の後ろでひとつに纏められた髪は、初めて見るホワイトブロンド。

 そしてその瞳は宝石を連想させる薄紫でーーー。


 (っ……薄い紫?!…や、やってしまった…この方、侯爵家の人間だわ……)


 曖昧に働いていた脳がを認識するやいなや、今までぼんやりとしていた焦点が急に合い咄嗟に顔を伏せたが、時既に遅しでルーシーの顔は見る見るうちに白へと近い色に変わっていった。

 クロスの中にインク溜まりを見つけてしまった直後から無意識に小さく震えていた指先は、それとは全く比にならないガタガタと身体全体を震え上がらせるものになった。




 この屋敷に雇われる時に口酸っぱく言われた事で、今も度々耳にする注意事項は幾つかあったが、その中でも絶対守らなければいけない事がある。


 【侯爵家の方々の視界に極力入らないようにする】

 【視界に入った際には顔を伏せ速やかに立ち去る】

 【絶対に自ら声を掛けてはならない】



 三階を所属としている使用人や全体管理をする主要使用人以外は、これらを破った時点で即刻解雇になる。

 解雇になれば即時屋敷から放り出されるだけでなく、それまで働いた当月の分の賃金すら払われないらしい、らしいというのは使用人の間で噂されている事だが多分間違いないだろう。

 ルーシーが面談を受けた日、解雇になった元使用人と思わしき人物が裏門の番をしている男にメイド頭を呼んでくれと訴える声を、使用人勝手口の前で待機するよう指示されていたルーシーは塀越しに耳にしていた。

 その時は初めての貴族家の面談前とあって、緊張から深く考えてもいなかったが、後々思い返せばこの元使用人の解雇により空いてしまった穴の補充でルーシーが雇われたのは容易に想像出来る。


 そして今、ルーシーが手にしている汚れてしまった高価な布の弁償と、不躾にジロジロと見てしまった侯爵家令嬢への不敬という罪で、負債を背負った上で解雇され放り出されるのすら、それと同じように簡単に想像出来てしまうのだ。


 放り出されるだけでは済まない。クロスの金額次第では劣悪と噂される他家に売り渡される可能性もある。

 愕然がくぜんとし涙すら出ず、ただ布を握るしか出来ないルーシーに再び女性から声が掛かるものの、呆然自失で我を失うルーシーには届かない。



 「?………………」



 反応の見られないルーシーの顔を怪訝そうに見つめ、そのまま観察するように膝に乗っている布へ視線を移した女性、もといシエナがルーシーの抱える布の中に大量のインクが溢れているのに気付き、インクが入っていたらしい小瓶の存在を把握すると、音もなく踵を返し立ち去った。



 それから時間を置かず、すぐに戻ってきたシエナは再度ルーシーに声を掛ける。


 「ルーシー・ハワス、はこの中に入れなさい。そのまま立ち上がってインクがこぼれると、後の始末が面倒になるわ」


 女性らしい鈴の音のような軽やかさのある声でありながら、その質とは真逆の静かで抑揚のない命令口調の後、呆けているルーシーの返事など元より期待していないとばかりに、自室から持ってきたらしい大きなおけをルーシーの足元にぐいぐいと押し付けた。

 やっている事は手荒く見えるが、見た目と違い強さもなく急かすというよりは促すに近いシエナの行動に驚いて、諦めを湛えた目で顔を上げたルーシーは、今度は意識をしてシエナと目が合う事になる。

 離れていても目が奪われてしまったというのに、次は息を飲む程の至近距離だった。


 「早く桶に移しなさい」


 突然現れたシエナは、ルーシーの視線など一切気にする様子も顔色ひとつ変える様子もないまま、言い慣れたように指示を出す。ルーシーも言われるがままに、急いで大桶おおおけの中へクロスと小瓶を移しはしたが、侯爵家の令嬢であるシエナの考えや意図が全く読めず戸惑うルーシーがいた。


 目の前のシエナは、そんなルーシーの戸惑いなどよそに人形のような顔で、自ら大桶を抱え立ち去ろうとするのだ。

 そんな違和感しかない行動を見せたシエナに、ルーシーは戸惑いなど大きく凌駕する焦りを感じ、思わず大桶のふちに手を掛けてしまった。




 自室方向へ戻ろうと一本踏み出すのを?クン!と止められてしまったシエナは、桶の端を掴むルーシーの指に気付き顔を向ける。


 「立てるの?」

 「あ…、は…はい!」

 「持って着いてきなさい」

 「は…、はい!!」


 言い放つと同時に絨毯の上へと桶を置き、スタスタ歩き始めたシエナと、脱力していた足に何とか力を込め立ち上がり両手で大きな桶を抱え、その背中を追ったルーシー。


 この翌日、まさか自分が目の前の令嬢に直接の雇用を持ちかけられるなどとは、微塵も思ってもいなかったルーシーと、無表情に見えるが再びルーシーを探す手間が減った事に内心とても満足していたシエナによる、二人の初めての出会いと初めて交わした言葉はこんなものだった。





 ◇ ◇ ◇ ◇





 あの後、急ぎ屋敷を後にしてから一目散に馬車の停車場へと走ったお陰で発車直前の馬車にどうにか間に合い、空いていた座席に腰掛ける事が出来たルーシーは、発車し始めた馬車内で胸を撫で下ろす。


 息を切らし駆け込んだ乗合馬車は普段同様込んでおらず、細長い板が置いてあるだけの固い座席で揺られるルーシーは、たったの一日とは思えない疲労感がどっと両肩に乗ってきたのを感じる。

 重い身体を休めるように伏せた際、薄い上着から覗いたメイド服の綻びと呼ぶには大きな裂けが目に入り、溜め息が溢れ落ちた。



 (寝る前に塞がなきゃいけないね……)



 幾人もの使用人が何年も着用し、草臥くたびれたメイド服は見た目以上に生地自体が痩せて、その裏側は補強用の布が当てがわれていたり、磨り減り弱りきった生地により開いた穴を、どうにかこうにか糸でかがり塞いだ凹凸だらけで着心地は最悪だ。


 クラーク侯爵家に雇われている住み込みのメイドは、その多くが田舎の農村部や辺境の子爵家や男爵家、準男爵家等の裕福ではない下位貴族出身だったり侍女の縁戚や紹介ある。

 侯爵一家の周囲にはべる侍女は使用人のお仕着せなど着る事はないし、側付きのメイド達も実家は曲がりなりにも貴族家とあって働き始めの際に各々体型に合わせた新品のメイド服が作られ着用しているようだが、通いの平民である自分は倉庫に押し込められた多くの布や衣類の中から、まだ着られそうなメイド服をどうにか二着掘り出した後に自宅で繕い着回しているのだった。


 「………」


 乗合馬車の車輪音と乗客達の話し声の中、膝に置いた荷物に腕を回し目を閉じる。

 家に着いたら母が下拵えを済ませてくれている夕食の仕上げを仕手、病気の母や子供達が食事を終え片付けを終えたら、子供達を寝かしつけて納期の迫る内職を今日中に終わらせたい。それに加えてさっき廊下で転んだ時に破れたであろうメイド服の繕いという厄介な作業も増えた。

 あと一着ある予備のメイド服は、昨日まで着用していて汚れ落としのため今は水に浸け置き中だ。どう足掻いても明日着るのには間に合わない。

 そんな心身共に疲れきったルーシーの脳裏に、鈴の音のような声が浮かび聞こえる。



 『このクロスは私が預かるわ。明日出勤したら直ぐここに来なさい』



 部屋を後にする前に言われた言葉は、布を抱え震えていた恐怖感とは異なる緊張を生んだが、短時間で様々な非現実的な体験したせいか、不思議と不安の度合いはそう多くなかった。

 もしかしたら、まな板の上の鯉の気分といった諦めの感情なのかもしれないが、それ以上考えるのをやめたルーシーは、馬車が走る短い時間の中でうつらうつらとした眠りに落ちていく。




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