第24話
シエナ専任メイド:ルーシー・ハワスの場合
物干しから何度も往復を繰り返し取り込んだ洗濯物の山を、終業の十五分前に全て整え畳んでから、各階各所へと仕舞い終える事が出来たルーシーは、この侯爵家で働き出してから初めて就業時間ちょうどに帰宅準備が出来るかもしれない期待感に、誰も居ない静かで薄暗い二階の廊下を気分良く一人歩いていた。
「ちょっと、そこの!」
そんな上機嫌なルーシーに向かって、不意に響いた耳に刺さる甲高い声は、ルーシーと真逆のすこぶる虫の居所が悪そうなイライラ感が漂っていた。
「……は、はい何でし…「これ、今すぐ綺麗にしてきなさい」」
バサッ!!
声のする頭上に向け返事をしながら顔を上げると、三階へ続く階段の踊場に立って此方を見下ろす二人の女性の姿が一瞬目に入ったが、三階から降り注ぐ強い照明の加減で、やや逆光気味になり認識出来たのは全体な輪郭と衣服くらいだった。
ルーシーに声を掛けたであろう人物は十代半ばの女性が好みそうな色や形のドレスを着用しており、側に居るメイドの手元をさすように顎をしゃくり上げた仕草で指示を出し、直ぐ様サッとドレスの裾を払ってから降りてきた来たばかりの階段を再び引き返す。
その若い女性の行動に気を取られているらしいメイドは、指示とほぼ同じタイミングで、持っていた布を階下へと無造作に
瞬く間の出来事とは正にこういう事をいうのかもしれない。
顔を上げた直後での想定していなかった
バランスが取れずにぐらついた足に、自身の体重と布の重さが加わり床へと強く打ち付けられたルーシーは、声すら出せない程の打撲痛を感じ思わず一瞬息が止まってしまう。
上の階では侯爵家一家の夕食準備のためだろう、活気に溢れた使用人達の行き交う雑多な音が聞こえてくるが、今現在ルーシーの横たわっている二階は
一階の厨房から三階へ食事を運んだり準備をする使用人は、基本的に厨房や洗濯場との行き来に便利な使用人専用の階段と通路を使う事が多く、この時間帯にわざわざ玄関へ続く中央階段を通る事は滅多にないのだ。
布を抱え数秒間、微動だにせず目を閉じ息を整える。
(あーあ、二階西のリネン室に置く洗濯物は最後じゃなくて最初に運んでいれば良かったな……って今考えても仕方ないか)
自嘲気味に今回の反省点を考えながら皮肉った笑みを浮かべては、あちこちに感じる痛みを逃がすように深い呼吸を何度も繰り返す。
背中と右肩は特にジンジンと痛むものの、それ以上の違和感は無さそうだと自己判断してゆっくり目を開いた。
(……うん大丈夫そうだ、動けない程じゃないね。投げた後の布状態や使用人の事なんか視界に入れる価値がないどころか、考えるという選択すら持ち合わせてすらいないんだろうな。あっという間の事で顔もはっきり見えなかったけど、若い娘用のドレスを着た使用人って事は末のお嬢様の侍女と、その取り巻きの三階専属メイドで間違いないかな)
終業時間直前に厄介なのに呼び止められたな……と考えながら、身を起こし腹の上に乗っている重い布の束を
幾重にも畳まれている重厚な分厚い布の上部二、三枚を持ち上げる指先に違和感を感じて手を止めた。
どこを触っても引っ掛かることのない滑らかな質感と僅かな灯りでも感じられる美しい光沢と厚みは、これが高級な織りのテーブルクロスで、洗いもベテラン且つ一部の信用されている使用人だけに任されている物なのだという事が分かる。
こんな手触りの良い織物に触れるのは人生初だが、何の予備知識も無い下っ端の自分でも、これがあり得ない程高価なのは容易に理解出来る程の品。
しかし、そんな貴重な物を自分に投げ寄越した理由が全く思い当たらず、訝しげな顔で更に布を捲り続けるルーシーの手が分厚い布越しでも分かる硬い何かに行き当たった。
その異物を探り一枚また一枚と恐る恐る布を開いていくと、隠すように折り畳まれたクロスの中央付近に蓋の外れた小ぶりのインク瓶が転がっており、赤黒い色のインク溜まりとインクの汚れが広がっているのに気付いたと同時に、今しがた聞いた侍女の声が脳内で再生され全身の血の気がサーッと引いていく気がした。
『これ、今すぐ綺麗にしてきなさい』
間違いなくそう言っていたけれど、こんなインク汚れ専門の職人でも落とせるわけがない。多分その事は侍女と取り巻きメイドも承知の上で、隠蔽か何かをしようと時間的に
絶望的な気分で三階から降り注ぐ灯りに照らされた、薄いピンクの生地を改めて見つめる。
白い光沢を放つ刺繍の糸は絹だ。その白い絹糸をふんだんに使い施された細やかな刺繍は見れば見る程に見事で、このテーブルクロスの持ち主が侯爵家で大層可愛がられているらしい末のお嬢様なのは確定だ。
侍女と一部の住み込みメイドの管轄である三階は、使用人通路すら通った事もないが、末のお嬢様の部屋がピンクを基調とした華やかな少女趣味である事は、ベテラン使用人達の会話から聞き知っているし、侯爵夫妻の子供達への溺愛や甘やかしぶりは屋敷に関わる全ての者が知っている。
(もしこれを汚したのが私だと思われたら……)
弁償を言い渡されようものなら、解雇どころの騒ぎではないのは想像がついて目眩がする程だ。
多分この布一枚の価値は自分が侯爵家で五、六年休まず働いて、どうにかこうにか用意できる金額の品に違いないし、もしかしたらそれ以上になる可能性だって十分ありえる。
即金目当てに、万年使用人不足の貴族家に売られる可能性だってないわけではない。そういう貴族家や商家は大抵が使用人への鞭打ち等が当たり前に行われていて、その事が平民にもバレているせいで人が集まらないのだ。
走馬灯のように最悪な想像が次から次へ頭を過ると、布を持つ指先はどんどん冷たくなり、腰から下は力が入らず立ち上がる事も出来ないまま座り込んでいた。
腰が抜け考えも纏まらず、幼い子供達や病弱な実母の心配から普段の気丈さは鳴りを潜め顔面蒼白で
「ねえ……」
そこへ不意打ちの如く掛けられた小さな声は鈴が鳴ったような、透明感を感じる微かなもので、脱け殻状態のルーシーを驚かすには十分の雰囲気を持っていた。
「ッ!!ヒッ、ヒイィィィッ!!」
心臓が口から飛び出すかと思うほど驚き出しまった悲鳴は旗から見ると、か細く調子外れなすっとんきょうさだが、上階からの微かな灯りに照らされているルーシー本人は至って真面目に、固まって動けない身体のまま、ギュッと目を閉じ神にでも祈るようなポーズをとって震えている。
そこに追い討ちの如く声が掛けられた。
「ねえ、貴女……もしかして…ルーシー・ハワス?」
ほんの数分の間に重なり起きた、想像もしなかった出来事のせいで、本領ともいえる冷静さを欠いていたルーシーは、自分の名を呼んだ幽霊か人間なのかわからない人物が一歩また一歩と近付いてくる気配を感じ、観念するように祈るポーズのまま片方の目を薄っすらと開く。
すると自分の右方向に、現在の二階廊下の暗さに溶け込んでしまいそうな暗い色のロングスカートの裾がぼんやりと目に入り、その視線を徐々に上へ上へと辿っていった。
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