第23話 小屋からの帰宅
陽気とも
この邸宅で何よりも最優先すべき侯爵夫妻の乗った馬車が敷地を離れた事で、執事の意識が自身へと向けられる気配を感じたシエナは制止の声掛けをする。
「私の事はいいから、それよりも馬を休ませて頂戴」
シエナの為に玄関扉を開けようと身を返した直後の背後への呼び止めにも関わらず、シャンとした体勢を保ち控えた執事は一歩後退り短い返事をして頭を下げた。
読み取れる程の表情変化も無く近付き手綱を渡しながら『宜しくね』と告げ、目の前を通り過ぎるシエナの声には抑揚度合いが薄く大声でもないものの、不思議と威圧を感じさせる。
シエナとの接点が多くない使用人にとって、この得体の知れない不思議な圧は、他の侯爵家一家の貴族に多く見られる圧とはまた違った緊張感を覚えるようだ。
よく喋り何を所望しているのかが分かりやすい両親や弟妹と違い、言葉数が少ないのも威圧の一因かもしれない。
しかし当人の自覚は全くない上、よく聞けば声自体は母や妹と似通った部分はある。
それでも家族である侯爵一家とは全く異なる響きや性質を漂わせているのは、長らく宮廷で育ったせいなのか実験や製薬で四六時中一緒に居た自由人師匠ネヴィアの影響なのか……。
成長してしまった今となっては知りようもない事だが、誰の目にも実家で過ごし育っていても、家族のようにはなってはいなかった。
手綱を受け取った執事は、大人しく引かれてきた馬の側に歩み寄り、手慣れた所作で大きな馬体を上手く促しながら、庭木の影が落ちたせいで夕闇が濃く広がる小道へと歩き出す。
ゆったりとした蹄の音と共に、愛馬の尻尾が徐々に暗がりへ消えるのを歩きながら見届けると、シエナ自身も邸宅の中へ足早に入って行く。
◇ ◇ ◇ ◇
重厚な造りの玄関扉を
前方を見て早足で歩くシエナは気付かないが、メイドの方はシエナの背中に軽く頭を下げた姿勢から、一切無駄のない素早い動きで使用人専用通路に続く小さな扉の向こうへと姿を隠した。
誰も居なくなり完全な一人になった事で、衣擦れの微かな音すら聞こえない玄関ホールは、いつもならそう感じない無機質さが際立って映る。
けれどもシエナ自身どうして無機質さを感じたのかは解らず、意識しないまま確認するように周囲を見回したのと同時に脳裏を過ったのは、今日の昼頃まで滞在していた小屋での数日間やエイダとアメリの様々な表情だった。
(ああ……日中は暖かく感じるけれど夕方にもなれば冷えるもの。初秋の寒くなり始めた気候も相まって出入口であるホールの印象が通常より冷たく思えたのかもしれない)
自宅玄関の薄ら寒さとは真逆ともいえる、ある種の暑苦しさや熱気のあった小屋での情景が無意識に浮かんだが、それに対して感情的な意味を見いだす事もなく『外部からの季節的な影響を受けているんだ』と多少強引にそう結論付け、気持ちを切り替えるように目の前に延びる階段へ目を向ける。
階段手前に差し掛かり一旦足を止めたシエナは、左肩に掛けていた荷物を右肩に持ち替えると、微かではあるものの
この小さな違和感は、時間が経過する毎にじわじわと上へと広がり、真夜中になると歩くのも困難に感じる重痛さに変わっていくのを分かっているシエナは、どうやっても避けられない事態に溜め息が出そうになるのをグッと飲み込んで唇を固く結ぶ。
(昨日より随分早い……悠長に考えている時間はないみたい)
沈んだ気分を打ち消すかのように再びさっと顔を上げ、磨かれた階段の手摺に添えた指先に力を込めてから、目の前に延びる階段を見据え急いで自室に着く事に意識を集中させた。
多分端から見ればそう素早い動きでもないのだろうが、一度こうなってしまえば、どう足掻こうとも夜明けを迎えるまで重さや痛みは増し続けのは止められない。
その前に安心安全な自分のテリトリーといえる私室に移動して籠ってしまうのが唯一の対処法だろう。
刻一刻と感覚が鈍くなり使い物にならなくなっていく足先には早々と見切りをつけ、代わりに足裏全体と左腕や指先に体重を乗せながら一段一段着実にのぼっていく。
転げ落ちることもなく無事に二階の床へと両足が着いた途端、強張っていた肩の力は抜けて自然と安堵の溜息が零れる。
こうなって初めて普段なら感じない足の指の有り難みに気付いたな…等と考えつつ気分を切り替え顔を上げた。
(部屋までもう少し。先に砂埃や汗を流して着替えたら研究の続きと……あと今回は小屋での精製結果も多くあるから、別視点からの資料の読み返しもした方がいいわね)
脱力した左手を階段手摺に乗せたまま、進行方向である西棟へ延びる廊下側に視線を向けると、それなりに距離のあるシエナの私室辺りから白いキャップを被ったメイドが出てくるのに気付く。
この屋敷でメイドキャップを被っているのは、シエナが直接雇用した三人だけだ。
侯爵家と契約しているメイドは皆カチューシャを着用しているため、シエナの居住区である西棟管轄のメイドなのは遠くからでも分かるものの、三人のメイドは年齢も背丈も大差ない上に、キャップから僅かに覗く髪色も平民に多くいる茶色寄りの同系色なのだ。
そんな似通った容姿のメイド達が、同じお仕着せに身を包みメイドキャップまで被っているとあっては、遠目なのも踏まえて三人の内の誰かなど判別がつかなくても仕方ない。
そもそも三人には十日間の休暇を与えているはずで、今日は八日目。
あと二日は彼女達が
(何か行き違いでもあったのかしら?それとも伝え方を間違えた?)
要因を考えながら止まっていた足をそろりそろりと緩やかに動かし始める。
自室方面へと向かう足を止めないまま、その視線だけは遠くにいる人物を捉え凝視し続けていると、雇い主の姿に気付いたらしいメイドが、シエナに向かって小走りで駆けて来た。
「シエナ様おかえりなさいませ!」
折り畳まれた白い布の束を腕に抱え、明朗な笑顔を見せ寄ってきたメイドは、シエナがルーシーに続いて直接雇用の契約をしたイブだったが、その彼女が当然といった顔で仕事をしている様子に、訳が分からず無言のままじっと凝視している。
「…………」
「?……あ!ああっ!!大丈夫です!私達が頂いた休暇は確かに明後日までですから」
感情の読みにくいシエナの無に近い表情は、美しいが作り物のようで人によっては圧を感じるらしいし、場合によっては静かに憤慨しているようにも見えなくもない。
それにも関わらず自分を見続けるシエナの行動から、何を考えているのか何となく思い当たったメイドは萎縮する様子もなく答えた。
「なら何故……?」
内心で思った事が意識しないまま口から
そう今まさにそんな癖が出てしまっているのだが、側に付きそれなりの時間が経過しつい最近その事に気が付いたメイドは、補足するよう説明をしだす。
「昨日そろそろシエナ様もお戻りになられる頃だろうという話になって、今日から短い時間ですが手分けして簡単な清掃と寝具や夜着の準備をしていたんです。それに……」
「イブ!!やっぱり寝具は冬仕様に替えちゃった方が良いか…も……って………シエナ様!?」
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