第14話
湯気を上げ沸き立った熱湯へ柔らかい草の束をゆっくり沈め終えると、手早く火を消し鍋に蓋を被せる。それと差もなく遠くから徐々に近付いてくる音は、周辺に民家のない小高い丘にポツンとある小屋への来客を知らせるには十分過ぎる程けたたましかった為、室内に居ても容易に耳に届いた。
予定時刻よりは早いが早過ぎるという事もない。とうとう待ちに待った人物との初対面に、シエナは顔を上げ玄関へと足を向け歩く。
◇ ◇ ◇ ◇
「宮廷の筆頭魔導薬師!?そんなお偉いさんが棺桶に片足を突っ込んだような
呆れた表情を浮かべてはいるものの、顔や体は鍋に向けたまま繊細にかき混ぜる手を休めることなく喋り続ける老いた女性の語り口は軽快で研ぎ澄まされており、依頼内容を告げた商会員の若者は気圧され小動物のようにタジタジといった様子で立ち尽くしてしまっている。
それでも仕事で来ているのだからと自身を奮い立たせて、伝えなければいけない必要な事だけは再度伝える。
「さ、先程も申し上げたように後日商会の上の者が正式な内容を書面に纏めて参りますので、何卒ご了承下さい…」
やはり小動物感の漂う若者に視線だけ向けた女性は、自身の孫よりも幾らか年若く見える、青年と呼ぶには幼さの残る姿に渋々といった口調で答えた。
「まったく承知しないと帰らないつもりかい?いつまでも周りをウロチョロされて
「で、でも…りょ、了承を得て帰るのが僕の仕事なので……」
「なんだって!?年寄りにはもっと大きな声で言ってもらわないと聞こえないねぇ」
「で、ですから!近い内に商会の者が来ますので、その時はお話を聞いて下さい!お願いします!!」
わざとらしい煽りに乗せられた若者はぎゅっと目を閉じ、力一杯に普段は出し慣れぬ大声で告げる。それを可笑しそうにふふっと笑いを堪えながら『はいはい分かったよ』と返事を返して振り返り、近くの
「ほら持ってお帰り。あー、あと商会の人間には今度来る時は寝酒に最適な酒なんかあるとエイダ婆さんが喜ぶって伝えときな!」
落とされた飴を考えるより先に出した両手で受け止めた商会員は、丁寧にひとつずつ包装された飴に一瞬興味を惹かれたが、慌てて先触れの返答を貰えたことに対しての礼を言う。
「有難う御座います。それから…お仕事中に話を聞いて下さり感謝します。あ、あとこの飴も…「いいから早く戻って上質の酒でも用意させなって!」
「はっ、はいいぃ!!」
急き立てられるように追い出された商会員の後ろ姿をチラリと見てから、とっくに作り終えて随分前に火も消されていた薬液の入った鍋から離れ、いつもの定位置である椅子へ腰掛けると馬の蹄の音が遠ざかって行くのが分かった。
(あれは、つい最近貴族の家門を出て平民になったばかりといった所だろうね。隙の無い商会主とは随分色の違う子だこと……。しかし面会要請の相手が宮廷薬師とは荷が重いったらありゃしない。ここは丁重にお断りの方向しかないね)
◇ ◇ ◇ ◇
「………さて、どうしてこんな事になっちまったのかね」
海風の吹く海岸沿いを離れ、北へと長く続く街道を何泊も宿泊しながら休み休み馬車で揺れる事どれくらいの日数が経ったのか、王都のひとつ手前の領地へと入る検問所を潜りながらエイダは独り
「エイダさん、ここまで来てやっぱり無しなんて駄目ですからね」
正面に座るアメリが窓から入るの朝の陽に艶を帯びる真っ赤な髪を輝かせながら厳しい目を向ける。
「あーあ、こんな狭い場所じゃ独り言も言えやしない。だいたい宮廷の薬師様に会うとは言ったが、それ以上の事は着いてから考えるって条件だろう?」
「ええ勿論です。契約書通り彼女に会って十分話し合いを重ねてからお考え下さいね」
美しい顔でニコニコと人の良さそうな表情を作り受け答えをするアメリ。
「はあ……あんたら
「うふふ、人生の大先輩からの誉め言葉として有り難く受け止めますね」
この綺麗な顔をした娘と良く似た兄ルーイがエイダの元を訪れたのが数ヵ月前。娼館からの仲介によって対面した後、一度目は小瓶に入った催淫剤を売り渡したが、次は海草から抽出した原液が欲しいと言われ、人生で初めて言われた原液の受注に警戒を覚え幾度かのやり取りの末に原液を売り渡す約束を交わした。
それから定期的に商会の配達人に原液を手渡していたが、先触れの者が訪ねてきた数日後、顔を見せたのが現在目の前に座るアメリだった。
あの日先触れをした若い商会員が軽く告げた通りの内容を、細かく紙に
娼館へ渡す催淫剤の納期もあり初めは依頼を受ける気は更々無かったエイダに、跡を継ぐ予定である孫娘からの『気晴らしの旅行だと思ってゆっくり出掛けてよ』という後押し、それと依頼主である現魔導薬師筆頭の名前を聞き興味が湧いてしまったエイダは、結局この案件を受ける事にした。
検問所を抜けると、それまでずっと走っていた舗装済みの大きな街道を逸れ馬車一台がやっとという様な小道に入ってからは、三十分も掛からず目的地とおぼしき小屋の前で馬車が停まった。
御者が外から扉を開き、先んじて降りたアメリの後を追うようにゆっくりステップを一段降り顔を上げる。御者の差し出す手を取って周囲に目を遣りながら一歩ずつ足を踏み地面へ着地した。
(貴族の官職持ちの使う場所にしては随分と
思いながら見回したその視線は、やがて馬車の停まる位置から二十メートル程離れた先にある小屋の出入口前に佇む人物にぶつかった。
「シエナもう来ていたのね、お連れしたわ。
促すようなアメリの言葉と視線に続く形で自己紹介をしたシエナの顔を、無言のまま食い入るように見つめるエイダの様子に首を傾げるシエナ。
「エイダさん?どうしたの?」
「え?……あ、ああ悪い悪い。初対面でじろじろ見るなんて不躾すぎたね。エイダだよ宜しく」
「いえ構いません。エイダ様、長い馬車移動でお疲れでしょう。お菓子とお茶を用意しましたので中へどうぞ」
室内へと客人を案内するシエナの姿にアメリは驚きを覚えた。
(表情の変化が見られないのは相変わらずだけど、自分から進んで持て成しが出来るようになったのね。しかもお菓子まで自ら用意するなんて普通の人に見えるわ…)
目の前にいるシエナだけに限った事ではなく、友人のネヴィアや近しい所だと魔法師の筆頭などの一部の人物も社交との相性が良くない上に、人付き合いに長けていなくても過ごしてこれる環境下にいた。
貴族の生まれから客人へのお茶や茶菓子の準備も自身で行う必要は皆無で、幼少期に宮廷の研究職に就いたお陰(せいで)もあり社交の代わりに研究や製薬に没頭、研鑽する事が国への一番の貢献だった。
着飾り社交に神経を磨り減らすのに根っから向いてないネヴィアとシエナ。魔導薬師になったからこうなのか、こうだからこそ、幼い頃に魔導薬師になれたのかは今となっては解きようのない謎だ。
(お茶の用意をしてから商会支部へ戻ろうかと思ったけど、心配いらないみたい)
口許を綻ばせたアメリが軽く声掛けする。
「シエナ、一旦支部へ行って仕事を片付けてから午後にでも戻ってくるから、エイダさんの事お願いね」
「ああ…、海草が届くのは午後だったかしら?アメリの分のお菓子も買ってきたのだけど…食べていかない?」
シエナにしては珍しい引き留めるような言い方に、アメリはふふっと笑う。
「ありがとう、後で海草を持ってくる時に頂くからちゃんと取っておいてね!シエナもエイダさんに聞きたい事が沢山あるんでしょう?私も仕事を終わらせてくるわ」
きっと今回の依頼に対して依頼料とは別に感謝を表したのが、外で買い物などし慣れていないシエナ自らが買い、用意した菓子なんだろう。
煌びやかな反面、重苦しい出来事も多い宮廷で育った影響もあり達観したような印象を与える薄紫の瞳と、宮廷では度々人形と揶揄されていた表情の変化が窺えない顔。
しかし、その見た目とは掛け離れた子供のような擦れていない感覚も併せ持っているのを知っているアメリは、シエナを慈愛を込めた視線で見つめ『じゃあ後でね』と言うと、馬車まで小走りで向かい素早く乗り込んだ。
「やれやれ何とも忙しない娘だね」
背後から聞こえてきたエイダの声に、玄関先で馬車が去るのを見つめていたシエナは我に返り振り静かに向いた。
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