第3話



 「大急ぎで頼みたい案件があるの」



 本格的な商談が始まる気配を感じたメイド達は、主が言葉にせずとも自発的に軽く頭を下げ部屋から立ち去り、三人だけの空間でシエナが手にしていた封筒を対面のルーイへと手渡すと、書類を取り出す兄の手元を覗き込んだアメリが呟く。



 「これ……神殿の治癒患者の記録書類?」



 神殿は秘匿主義といっても良い程に些細な情報すら漏らす事なく、外から見て分かること以外のほとんどの情報が公開されず、ヴェールに覆われている存在だ。

 そんな神殿から漏れることの無いはずの物が目の前に束になっている事に驚いた様子で確認するアメリ。


 「そう、全員南の海岸沿いの成人男性なんだけど全員のここ十年は無理でも最低三年程の生活習慣や口にしていたものが知りたくて」


 「……海岸沿いの男の生活習慣、ね」


 不思議そうな顔でゆっくり次々とカルテを捲り目を通すルーイとアメリ。


 「そのカルテの患者は、全員七年前の海岸沿いで最後に起きた翼竜獣の瘴気被害に遭った人達なんだけど、今年の神殿治癒に来ていたようなの」

 「…っ!生きてるのか!?」


 ルーイの言いようは酷く直接的だが、瘴気被害を知る者としての反応なら正しく、大多数が同じ反応と発言をするだろう。その言葉にシエナが頷くと、兄妹は食い入るように紙を見つめる。


 「海岸沿いの瘴気被害間隔は大陸でも極端に頻度が少ないよね?四十年から五十年に一度くらい?」

 「だな、それくらいだと思うが……流石に海岸沿いはカバーしていなかった。北の店に余分に配置してある人員と帝都の店の人員の数を最小限にして、全員海岸沿いの情報収集に充てるか。まずは南部地域で買い取れそうな個人商店があるか探すのが先だな」

 「召集かけてから揃うまでのロスが勿体ないから、本部から二、三人見繕って初期行動を済ませたいわ。今夜には発てると最良ね、それと…」



 依頼人であるはずのシエナの目の前の兄妹の会話は止まることなく進められる。ここが貴族の屋敷ではなく、商会の事務室にでも変わったような表情と交わされる慣れすぎたやり取りに、この二人も城で起きた瘴気被害の日から絶えず情報を集め奔走していたのが容易たやすうかがえた。


 しかしシエナの知る二人は、いつも愉しげにゆったりと話して常に余裕を纏っている大人の様子のイメージだった為、今は口を挟む隙間すらない緊張感を漂わす空気感と、会話や展開の早さに頼もしさを感じた。その反面で、唯一と言っても良い親しい二人なのに知らない他人を眺めているような不思議な心地にもなる。


 「……それで進行してくれ。あ、あとー……初期隊か、まあそれは俺が行く。王都でボーッと他のやつらの情報を今か今かと待っている余裕なんかねえよ、な?シエニー?」


 対面での成り行きを邪魔しないように、ぼうっと眺めていたシエナへ向け話しながら、テーブルの上から一口サイズのサンドイッチを手にすると、それまで険しい表情だったルーイは悪戯でも計画してるようにニッと笑みを向けた後、それをポイっと口へと放り込んで立ち上がった。


 ちなみにシエニーというのは、この兄妹がシエナが子供の頃に呼んでいた愛称だが、シエナの筆頭への就任からは口にすることはなかったように思う。

 急な愛称呼びに不思議な気持ちになったが、多分シエナ自身でも説明の付かない他人を見るような、物悲しさが顔や瞳に表れていたのだろう。ルーイの後に続くように立ち上がったアメリも、兄と同じ気遣わしげな困ったような笑顔でシエナを見ていた。


 「サンドイッチとお茶ありがとうな。楽しいおしゃべりはまた今度だ」


 まだ腰掛けたままのシエナの頭の上でポンポンとあやすように手を弾ませたルーイが扉に向け歩くと、アメリがシエナの手を取り立たせ抱き締める。


 「少しでも早く有益な情報を集めてくるから待っていてね」


 抱き締める手は羽のように優しいのに、アメリのその声には強い意思を感じさせられ頼もしさを感じ、小さくコクンと頷いたシエナは消え入りそうな声で『ありがとう』と呟いた。

 大きな声を出してしまうと言葉と一緒に感情が溢れそうで小声が精一杯だったから。


 二人に再会する少し前まで…いや昨日神殿からの包みが届くまでは、何故か一人で戦っている気分でいたが、そうではないのを思い出す事が出来た。

 駆けつけてくれるフューシャ商会の兄妹も、根気強く情報を精査し送り続けてくれる大神官も自身の出来る精一杯で進んでいるのだと。


 その後は二人を玄関先で見送り、自室に戻ると到底一人では食べきれないテーブルいっぱいに広げられた手付かずの軽食と菓子を目の当たりにし、片付けてもらうため呼んだメイド達へ食べるか持ち帰るかするよう言うと『うちの子供達が喜びます』と思い掛けない感謝の言葉を笑顔で返された。


 (そうかみんな子供いるんだ……)


 自身の部屋とその周辺への配属変更のために自らスカウトしたというのに、他の使用人より短い勤務時間になんら疑問も持たず、ましてや聞き出すこともなかったので約一年という期間、一番身近にいたであろう存在の初めて知った情報に、この三人にも個人の生活があるという当たり前の背景を思い描いた。


 侯爵タウンハウスに移り住んでから……もしかしたらその前から既にモノクロに等しく色のなかった世界が色を取り戻し、鈍く止まり掛けていた秒針もしっかりと時を刻み始めた気分だ。


 フューシャ商会の兄妹と一年半振りに再会したこの日は、侯爵邸に移ってきて初めて思い出した感情がシエナの中を様々と巡った。そんな感情の起伏に心地よい疲労を感じた結果、ここ数年寝付きも悪く寝続ける時間も極端に短かったのが嘘のように、日が落ちる時刻には寝落ちて翌朝まで夢も見ることなくグッスリと眠りにつけたのだった。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 クラーク侯爵邸のシエナ宛にフューシャ商会の刻印が入った封書が届いたのは、仕事を依頼した日から一週間が経った夕方の事だった。


 最短でも数ヵ月は要すると考えていた事から、あまりに早い知らせに封筒を見るまで何かの不備や良くない知らせが書かれているのではないか…と不安を感じかけた。

 しかし、声を掛けた後に入ってきたメイドが手にしている包みのその厚さから、何かしらの情報であることは疑いようもなく胸を撫で下ろす。

 見た目以上に重量のある紙の包みを受け取ると、逸る気持ちを抑えながら、封書というには厚すぎるそれにレターナイフを滑らせて開き作業台の上に一気に中身を出した。


 端から見ると出したというより、ぶちまけたという表現が合うような豪快な所作は止まらず、座るのも億劫な様子で立った姿勢のまま何十枚にも重なっている書類と、その上に添えられている簡潔に書かれた報告書に目を通し始める。

 一枚ずつ軽く読んでは、引っ掛かった情報と今は引っ掛からない内容の紙、どちらか迷う内容の三仕分けに区分し引っ掛かった紙を作業台に残すと残りの紙を二つの木箱に分けて入れ、いつでも取り出せるよう足元の床に置くと、いくつか混入していた不要な紙は手で丸めて潰し床へ投げ捨てた。


 目の前が集中すべき情報のみになった事で、ようやく木の丸椅子へと腰掛けゆっくりじっくりと精査に取り掛かるが、報告書というには余りにも乱雑な紙の束と『取り敢えず各地から集まった一回目の情報だ次が集まり次第また直ぐに送る』と別紙に書き記されているルーイの文字を見て考える。

 これからも届くだろう多くの情報から、シエナが早い段階で引っ掛かる情報を商会側に知らせ、特に詳しく知りたい事柄に焦点を当てて情報収集してもらおうと考えた。


 収集する情報の範囲を伝えた方が向こうも仕事に焦点を定め取り掛かりやすく、こちらも次の作業に移行しやすい。

 もちろん思わぬ場所からの思わぬ情報が足掛かりになることも理解しているが、今はそんな悠長なことをしているほど時間もない。一旦照準を絞れる材料を見極めるべく、朝までに紙に記されている情報を精査するべく没入していく。

 もたらされた資料には、海岸沿いの賑やかな港町で起こった翼竜獣による瘴気被害の大まかな流れや様子が書かれたものもあった。


 それによると七年前の当時、その年の夏の海岸沿いは異常気象が多く快晴からの急な突風への変化や、例年より予測の困難な竜巻や暴風などが起こり、それぞれの発生時間自体は短かかったらしいが陸海両方に異常が頻発し、天気が読めないせいで船の運行にも多くの影響が出ていた。

 そんななか、死期を迎える寸前の弱った魔獣が遥か上空の気流に飛ばされたのか、はたまた竜巻に巻き込まれたが抗う力も残っていなかったのか知りようもないが、早朝の港町に空の遥か彼方から真っ直ぐ落ちてきたという。


 通常は自身の意思で場所を選び、降り立つという事が殆どの死に際の翼竜獣が『大した抵抗もなく落下してきた』という目撃情報は、高台に建つ灯台といくつか点在する見張り台で、悪天候によって警戒し通常より多く詰めていた複数の見張り人に聞き取ったものと記されている。


 早朝の港付近の落下場所に当時いた二十人余りの人々のうち、上空からの辺りを揺るがす哭声こくせいにいち早く気付き、早々に建物内に走り込み避難した二、三人は瘴気を受けなかったとある。

 それ以外で瘴気被害に遭った二十数名の者では、神殿のカルテに記されていた男性八人以外は現在生存していないとの事だった。


 (専用の特殊装備も無しに瘴気を浴びれば通常一ヶ月も延命出来れば長い方、酷い浴び方なら即日に息絶えてもおかしくない。この詳しい記録が残っているだけでも貴重なくらいね…)


 日の昇り始めた時間帯や場所から、表通りに立ち並ぶ酒場は殆ど店の営業を済ませており、わずかに営業を続けていた二軒の酒場内に入りきらなかった多くの客が、酒場の出入り口の外に急ぎしらえで置かれた木箱をテーブル代わりに酒盛りをしていたとある。


 晴れてはいたものの波は高く荒れていたと記されている事から、他の地域から入港し足止めをくらい時間潰しに酒盛りしていた停泊船の船員や、すぐ裏の通りにある公認娼館街から帰るために歩いていた男達が殆どだったようだ。


 明け方に差し掛かる船の出入港のない港の周辺、女性や子供や老齢の者の姿はなく、年齢層と性別や当時の健康状態も似たり寄ったりで、大半の者が深酒し動きも鈍い事この上ない時間である。

 浴びた瘴気の量も大差ないものだろうに、何故早々に亡くなった者と七年という長い時間が経過してなお生き、瘴気の影響で多少の身体の痛みは残っていたらしいが通常の生活を過ごせている者とで道が分かれたのだろう。


 箇条書きにされた過去の被害状況等を思い浮かべて首をかしげながらも、次に手に取ったのはシエナがルーイとアメリに渡したカルテの複製を手懸かりに、商会側で八人を掘り下げ調べた書類の束。

 元のカルテは文字が紙切れの半分にもなかった簡潔なものだったが、たったの一週間で集められた情報は一人の情報が三、四枚の紙を埋め尽くすものになっていた。


 八人共に海岸沿いから住まいを移した事はなく被害当時三十歳から上の男性で、身分は入り交じっており貴族もいれば平民もいたが、共通して皆がこの地域でも上位の富裕層に位置する家門や職についている人物で、これにも何かしらの手懸かりがあるのかもしれない。

 対象者の情報が書かれたものにざっと目を通しながら共通項を紙に書き移していくと、八人各々の情報のまとめ方や文字の癖まで全てがまるで違っているのに気付く。

 多分八つの収集部隊を編成し一週間で各部隊が別々に動き、ルーイの元に集まったものを取り敢えず全て封筒に入れて送ってきたのだろう。

 豪胆というか大雑把というのか、商会側で多くの情報を取り急ぎ集め送るので、中身の精査はシエナ自身に丸投げするという意図がありありと伝わり、現地の者は情報収集のみに特化し動かしているだろう事が透けて見える。


 (一日でも早く情報が手に入る方が綺麗に纏められた報告書を受け取るより、こちらとしても気が楽だから正解といえば正解だけど、こんなに乱雑で混沌とした贈り物は初めて受け取ったわね…)


 先程の立ったまま行った大まかな仕分け時に、明らかに書き損じの紙切れから、ゴミにしか見えない千切れた紙片まで混入しているのを目にしては、ぐしゃぐしゃと丸めその辺に投げ捨てたのが幾つも足元に転がっている。

 室内や作業台上の乱雑さは酷いものだが、本格的に手懸かりを探す作業を前にして高揚感に心が沸き立つ。



 (ここから何か手懸かりが見つけてみせる)



 心の栄養を得たことで楽しい不眠不休の日々に突入するだろうシエナに反して、仕えるメイド達の『主に食事と睡眠を確保させる』という警戒度数は徐々に上昇していった。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 調査対象の住んでいる各地に複数の調査隊が組まれ動いているおかげで、最初の報告書が届いてから三日と開く事なく、商会からは様々な情報が集まっていた。


 収集のために商会内部の情報収集とは関わりのない部署の人材も動いているようで、大陸南東を縁取るように横に細長く広がる海岸沿いの各地から来た多種多様な知らせの中には、地域の観光広報か旅行記かと見紛う物も混ざっており、他の報告との温度差に苦笑いが出てしまうこともあった。


 しかし鬱屈しないよう気晴らしの意味も込め食事の時にそれらを読む限り、おそらく他の地域ほど栄えていなく土地自体も狭い地方に派遣されたせいで、探る情報も尽きた苦肉の策が観光名所だったり、美味しい郷土料理を書き記すに至ったと思える。

 そう遠くない未来に迷走中のこの調査部隊が、他の人員不足の場所へ移動がされ安堵してもらうのを願うばかりだ。


 まあ、このような事はイレギュラーであり有益な報告も多くもたらされていた。カルテに記載されていた生存している八人は全員被害のあった当日は仕事等の所用で港を訪れ、その後の息抜きや付き合いであの辺りに来ていたという事から、実際港町付近に住んでいたのは二人だけだった。

 他は海岸沿いではあるが各々離れた地域に居住している事から、港町以外で生存者全員それぞれが住む五つの地域の情報を集めてもらっている。

 次々に届くそれらを読んでは、疑問に感じたことや深掘りして知りたい事を手紙に認め送り、再び返ってきた報告書を受けとる……という作業を、自身の仕事である製薬や公務の傍らで何度も何度もやり取りを繰り返し、ふた月近くの時間が過ぎていた。


 そんな文書の応酬が日常になってきた頃、数通の封筒の中から真っ先に開封したのは、最近では珍しいルーイ本人が直接書いた手紙だった。

 何気なく開いた報告以外は余計な文の一切ない、見慣れた短めの殴り書きの手紙だが、読み始めると紙から視線が外せず穴が空くほどに凝視したままでいる。

 そこには少し前にシエナが『複数の報告に商談や地方の貴族会議の度に港付近にある馴染みの公認娼館へ通っていた男性が三人いる。娼館で頻繁に出される飲食物やお香等でこちらでは目にしないものは無いか調べてもらいたい』と要望した事への返答だった。




 海岸沿いの地方だけで飲まれている精力剤のような

 催淫剤のような類いの液体を見つけた。

 店先で商品として売られている物ではなく

 平民の口伝で伝わる独自の民間療法の類いらしく

 一回の使用量は酒や飲み物に一滴ほどだ。

 三人が通う二ヵ所の娼館は海岸沿い含む

 南の地域全体でも最高級クラスの館だった。

 そこでも特に金を持つ最上位の常連だけに出されている

 高価で日持ちもしない液体だが

 三人は普段から常飲している可能性が高い




 取り急ぎ書かれた乱雑な文字に『おそらく【これ】だ』と確信めいたものを感じ、棒立ちのまま手紙の端を持つ手に知らず力が込められる。

 短く少ないがこの上なく興味をそそる内容に、居ても立ってもいられず紙を手に右に左に忙しなく歩く。

 実際に海岸沿いに行きその現物が見てみたい……。どんな匂いなのだろう?どんな色味か?何からどのように作っているのか?民間の口伝の薬なら魔導薬ではない可能性が高いのに、一般の薬品がそこまで高価な意味とは何だろうか?

 次々と疑問が浮かぶごとに師匠がこの場にいたら、きっと二人で様々な事を言い合い、自身の意見こそが至高と言わんばかりの愉快な争いが出来ただろう……と頭に過り、顔を出してきそうな答えのない苦い感情を見ないように頭を振った。



 ”この液体の件に関しては引き続き、他の五人にも調査範囲を拡げているので集まった情報はすぐに届ける”



 そう結ばれたルーイの言葉を信じ待つしかない。筆頭魔導薬師と王専属の筆頭医師は、王の許可を得なければ王都から出る事が出来ないのだ。

 薬草調達のため赴く事が頻繁にある王都に隣接するいくつかの領地だけは許可申請は不要と言われているが、海岸沿いは寝ずに休まず馬を走らせても片道三日は要する。

 馬車だと五、六日は掛かるだろう。往復一週間近いとなると、王への常備薬を定期的に納めているシエナに遠出の許可が出ないのは当然といえるものだ。 



 「筆頭…降りてしまおうか……」



 誰に言うわけもなく俯き呟かれた言葉を打ち消すように目を閉じ、小さく息を吸って先程の言葉を打ち消すように、今日も王宮の筆頭薬師としての仕事に取り掛かるべく手を動かす。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 有益な殴り書きが届いてから十日程が経過したクラーク邸二階にあるシエナの私室には、前回対面したときより精悍?……と言って良いのか、少し痩せ苦労が垣間見えるルーイの姿があった。

 シエナとルーイの周囲には、以前と同じように働く使用人達がいるにも関わらず、そんな事を気に掛ける様子もないまま着席早々に大変リラックスした顔と仕草でソファーへと身体を預けた。


 「何の知らせもなく来たから驚いたわ」


 表の通りで偶々騎乗姿のルーイに出くわした出勤途中のメイド達が機転を利かせ門番へシエナの客だと伝えた事で、クラーク家の一家にも知らされず、すんなりと邸内に通されたルーイは玄関先でも待たされる事なく、道端で会ったメイドのうちの一人に案内されシエナの部屋の前へと着く事が出来た。


 しかし、早朝から研究室にこもっていたシエナは『商会主様が廊下の扉前で待っている』と聞かされた時点で当たり前のように部屋着姿で、来客を迎え入れる準備など何も出来ていない状況だった。

 とりあえず目の前の私服姿のメイドへ仕事着に着替えてくる事と、ルーイの対応への礼を伝え『商会主は私が対応するから着替えは急がなくてもいいわ』といつも通りの無機質な声と表情で締め括り、その後ろ姿を見送る。

 自身も丸椅子から立ち上がり衣類の裾をパンッ!とひと叩きし廊下側に向かって歩き扉を開くと、そこには腕を組み壁にもたれているルーイの姿が目に入ってきた。



 世間から見ると、瞬く間に成り上がった有名すぎる王候貴族御用達である商会の主ルーイ。

 その信条として『表面上取り繕えるものは取り繕い、評判が上がりそうなことは全力で取り入れる』の権化みたいな人間だというのに、シエナ以外の家族の耳に入りそうな邸宅で、貴族の礼儀を無視した訪問の仕方は大変珍しい行動に映り首をかしげた。


 「すまん、先触れを出そうかとも考えたんだが、どう考えても俺の方が早く着いてしまうから止めたんだ」


 前回の訪問とは真逆の声色や態度で、初っぱなから上半身をダラリとソファーの背に預けて『外にメイドちゃん達がいて助かったー』と一息つくように言うルーイは、自身の脇に置いていた革の鞄をテーブルに置き、自身の開いた両膝に腕を乗せて前に屈むようにして話す。

 誰がどう見ても疲労困憊だ。


 「いや、流石に海岸の街から王都は遠いな。これ三日しか持たないらしいから後一日は使えるはずだ。二日間寝ずの騎乗はこたえたから少し横になるわ…」


 分厚い布をぐるぐるに巻き付けてある『何か』をシエナに差し出しながら言うと、限界らしいルーイはシエナが言葉を発する間もない素早さでソファーへと倒れるように横たわり寝息を立て始めた。

 渡された布の塊とルーイの寝顔を交互に見てから、布の中身が持った感じ手の中にあるのが、ガラスか何かの固い物のようだと判断して静かにテーブルに置き、幾重にも巻かれた布を丁寧にめくっていった。



 「これ………」



 そこにあったのは手のひらに収まる細長い小瓶と、それよりかは大きな茶色い薬瓶だった。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 受け取った物に興味を掻き立てられはするものの、流石に目の前で寝落ちてしまったルーイをこのまま放っておく事など出来るはずもなく、淹れたてのお茶と横たわるルーイを見比べてから次の指示を待つメイド達を見上げた。


 「…何か掛ける物を持ってきてもらえる?それと私はしばらく研究室に入ってしまうから、貴女達には商会主のこと頼むわね」


 申し付けられたメイドの内一人が対応するため速やかに動き出し、ブランケットを手に小走りでシエナのもとに戻って来るとルーイの身体を覆うように柔らかそうなブランケットを掛けた。


 「この様子だと暫くは目覚めそうにないけど、今日は他の作業は適度で良いから商会主…お客様を気に掛ける方を優先して。遠くから貴重な品を寝ずに運んで来てくれて疲れているから」

 「手足やお顔を拭って差し上げた方が良いかと思いますが、如何致しましょう?」

 「あー……そう、ね。……多分ちょっとやそっとじゃ起きそうもないし頼めるかしら?」

 「かしこまりました。お湯の用意を致します」

 「ええ…あ、それから湯の用意が出来たら私に声を声を掛けて」

 「「「はい」」」


 返事をしたメイド達は準備のため、それぞれ部屋を後にした。シエナも寝ているルーイに『ありがとう』と小さく呟き研究室へと向かうと静かに扉を閉じ、手に持った二つの瓶をゆっくり作業台にコツンと置きながら椅子に腰掛ける。


 それから液体の入った方の小瓶をつまみ上げてしげしげと見ながら傾けてみた。


 「催淫剤の原料がまさか海草だなんて……」


 港町の娼館で発見した海岸沿い特有といえる催淫薬のような、得体の知れない物の知らせがシエラの元に寄せられてから、二日後に再びルーイからたった二行という今までに無い短さと、見慣れた安定の殴り書きが届いた。



 ”原材料は海草。採取後三日で枯れ催淫剤に加工後も

 三日程しか使用できない。また追って知らせる”



 そんな報告の紙を手にしてから一週間程度しか経っていない中での来訪。どんな働き方、どんな無茶をしたらこんな短期間で耳した事も無く、使用期限の極めて短い材料の現物を持って王都にまで現れられるというのか…。

 これが国をまたぎ、多くの王公貴族の間で重宝がられる商会の創立者かと感嘆せざるをえない。



 (少しだけ粘度がある……瓶が茶色いから色はわからないけど透明度は低く濃そうね)



 液体の方を台に戻すと続いて隣の中瓶に手を伸ばす。こちらには水が瓶のふたまで満たすように入っており、中には海草がこれでもかと詰められ浮いていた。



 (初めて見る草…というか海草なんて王都にいると縁がない代物だわ)



 ルーイがくれた布の中には瓶二つの他に紙切れが二枚入っていた。どうやら、この海草からの液体の抽出方法と液体の注意点らしいが、抽出の初めの手順である加熱温度もハッキリと明記されておらず、そこからの圧力を用いるらしい抽出方法も必須なのは主に根気くらいしか書かれていない。


 (どういうこと?外に加工方法が漏れるのを警戒しているのかしら?)


 二枚ある紙の片方は見慣れたルーイの字だ。記されている内容によると、以前の報告で娼館で客に提供されていた用量の『酒に一滴』とは、稀少で高価ゆえ出し渋っているのではなく、これ以上だと毒になるという。

 一度に多量を摂取すると最悪即死してしまう事態にもなるということで、催淫の役割りを果たすにはこの量が適切らしい。

 ちなみに以前の報告には男性の服用しかなかったが、女性にも有効らしく、娼館で客の分のみ用意されるのは摂取した直後の客との接吻で女性にも効果が発揮されるからだという。

 それだけ強い薬効なのだろうと考えながら再び小瓶の液体を摘まみ揺らし見る。


 (使用期限も短い、いつまでも眺めていないで始めよう。瘴気に侵された体液と混ぜてみるとして…体液と同量の薬液を混ぜたものと、体液に極少量を混ぜたものとで比べて……)


 工程を考えながら立ち上がったシエナは、作業台の上にある二つの瓶以外を全て本棚の空いているスペースへと大雑把に次々移動させると、広くなった作業台の上にガラスや金属の実験道具を手早く並べ始めた。

 一通り必要だと思える器具が揃ったところで、並べた中から薄く手のひらに収まる革製の小袋を手にし、中から柄から刃まで全てが透明に透けたナイフらしき道具を滑らす要領で取り出す。


 (薬液の量も然程さほどないから必要な血液量もそんなには要らないわね)


 工芸品か美術品のように美しい造形の見た目で、全く実用性の感じられない大人の親指程度の大きさの刃物を右手で掴みながら、器用に反対の腕の袖を肘まで捲り上げると、晒された自身の左腕の中央へおもむろに刃を刺し食い込ませる。

 白い腕からポタポタと滴る血液を受け止めるボール型のガラス器具を見つめ、今回で結果を出さねばと考えると同時に、思い出したくもない四年前の出来事が脳裏に浮かんできた。





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