第2話


 大神官からの白い封書に入っていた手紙には、荷の説明と共に短い報告が書かれている紙が入っていた。




 シエナ・クラーク魔導薬師様




 先日海岸沿い各所の治癒奉仕から戻ってきた神殿所属治癒師達の


 報告書に気になる点が見受けられたため何かの役に立てばと思い


 急ぎ書き写し同封致します。


 カルテにも記されている通り治癒の場所も治癒を行った治癒師も


 異なっています。


 また新たに何か見つけた際にはご連絡します。


 ネヴィア様は本日も変わらず安らかなお顔で眠りについて


 おります。


 今朝は朝の祈祷の際にクラーク薬師に送って頂いた本の中から


 姫と王子の恋物語の絵本を選び読んで差し上げたのですが


 読み終えた後にネヴィア様が目を覚まされて


 この本を選択したことを覚えていらしたら


 私は大層お叱りを受けるのではないかと気付き


 今から戦々恐々とした心地でおります。


 近頃は日中の暑さに比べ夜は肌寒くなってきたように感じます故


 薬師様も無理をしすぎないようお過ごしください。




 ノア・バーンズ





 常に気掛かりな師匠の様子が認められた、短く簡潔ながらも温かい大神官様との日常が記された手紙を読むうちに、自然と師匠の顔が浮かんで思わず口元が緩んだのを認識し、同時に最後に笑ったのはいつだったか思い出せないとも気付く。


 読み終えた手紙を仕舞おうと椅子から立ち上がったタイミングで、ノックの音が響き扉の向こうから先程のメイドが顔を出し、居間のテーブルに茶の用意が出来たと知らせてきた。


 「昨晩も今朝もお昼も召し上がっていないようでしたので、片手で召し上がれる軽食もご用意致しました」

 「そう、ありがとう下がって良いわ。後は自分でやるから」


 表情筋が機能しているのか疑問に思えるほど、表情のレパートリーに乏しいシエナの無表情と無機質な物言いを気に留める素振りなく、頭を下げたメイドは退室していった。


 小さな顎に大きなアーモンドの形をした薄紫の瞳に影を作る睫毛、然程高くないが整った鼻と繊細に配置された唇、それらを更に引き立てる豪華なホワイトブロンドの緩やかに波打つ長髪と発光するかのようにキメ細かな肌は、乏しい表情の相乗効果で化粧を施せば高級なビスクドールのようであろう。


 いや、素顔のままいたとしても着飾った他の貴族令嬢と並び立てば、見劣る事ない美貌を持つシエナ。その真顔から放たれる抑揚と言葉数の少ない物言いは受け取る者によっては、ある種の威圧を感じる。


 先程立ち去った二十代半ばから後半に見えるメイドは、今から一年弱前にシエナの過ごす二階フロアの専属担当として移動になった通いの使用人である。

 元はこの侯爵家の女性二人の身の回りの世話の為、住み込んでいる侍女等の手が回らない雑務や補佐をする名目で、昼から夕方までの時間のみという勤務形態でシエナがこの邸宅に移り住む前年から雇われた新人下女だったらしい。


 その彼女等を見かけたシエナが直接、自身の生活空間への移動を提案し正式にメイドとしての移動となった。下女の方も働く時間帯は今までと同じで、という希望以外は特に要望もなくすんなりと移動してきた。

 下女からメイドとなり移動してきた三人の女性の方はというと…作業内容は簡潔、侍女達の癇癪込みで作業増えたり無理難題があった以前と違いスムーズに仕事が進む上に、賃金倍にも増えたとあって当初は戸惑う事も多かった。



 そもそもシエナがこの屋敷へ越してきた当初は、いかにも貴族令嬢に仕えて差し支えなさそうな、富裕層出の同年代の若い少女三人がシエナの身の回りの世話候補として、様子見も兼ね仮配置された。

 しかし持って生まれた見た目の華やかさと相反し、着飾る事も湯浴みの世話や化粧を施す事も、ましてやお喋り相手など必要としていないシエナとは完全なるミスマッチだった。


 この三人は元々、妹サマーが専属侍女の他に好んで周囲に置いて自身の世話やお喋りに付き合わせていたせいか、意思の疎通や交流の仕方がシエナ向きではなく、最初の二ヶ月弱で双方ともに様々な違和感と過ごしづらさに直面し、結果として少女達は元の持ち場に戻る事になった。

 再びサマー周囲の配置へ戻されると分かった時の彼女達の安堵と喜びの表情を見て『貴族の側にいる者がこんな手に取るように考えている事が分かっても良いものなのね』と王宮と自宅との違いに、自分の知らない様々な在りようが各所にあるのだと、悟られぬよう観察しながら納得した。


 この侍女候補との違和感の時期、邸宅内にいる人材で自身の生活に必要以上に入り込んでこなそうで、いくらか年上の使用人を遠目に数人見繕っていたシエナは、先程の使用人本人達と直接交渉を行い、承諾を得てから父親である侯爵へと話を通した。

 その際、シエナが屋敷内で選んだ使用人三人についてはシエナ個人との雇用契約へと変更し、その費用も自身で負担すると告げて各持ち場で不足した分の使用人は侯爵家で新たに雇い入れてもらいたい旨も伝えた。


 あの時期の紆余曲折を経たお陰で、現在シエナを取り巻く周囲には、過度に配慮したり顔色を窺おうと必死になるタイプの人材はいない。

 時間内の仕事はきちんとこなし、作業や仕事に集中すると睡眠や食事が蔑ろになるシエナの気質のせいで、雇い主であるシエナの生活が良くない方に傾く前に察知し、ある程度のところでメイド達の自己判断でシエナの生活を時に注意し時に修正してくれる。


 不要と告げたはずなのに、居間のテーブルに用意された軽食とお茶や換気のために開かれた居間の窓などがそれだろう。

 午前中はピッタリと閉じていたカーテンも、全て開けられ日差しが室内を明るくし、いつの間にか清掃もされていたようで家具にもホコリひとつない。

 一食や二食抜いた程度では踏み込む行動は起こさないが、流石に三食目はメイドの目から見るとアウトラインらしい。メイド達は夕方には帰宅する為に屋敷を後にするので、多分今を逃したら丸二日は食べない事が容易に想像ついたとも言える。


 約一年前、研究室に何日も籠り書物片手にサンドイッチとお茶を胃に流し込んでいるのを見たメイドのひとりから「このように草の匂いしかしない場所でのお食事はお控えください。次からお飲物やお食事はあちらの部屋へ運ぶことに致します」と苦言を呈された過去が思い浮かぶ。

 先程のメイドもお茶の用意で向かった厨房の料理人によって、シエナがまた食事時間を蔑ろにしているのに気付いたのだろう。

 仕方なくソファーに腰掛け、お茶と作業の傍ら食しやすいよう小さめにカットされたサンドイッチを口に運びながら、先程受け取った包みに入っていた手紙以外の十数枚の紙へと意識を向ける。


 (南の海岸沿い地域での治癒記録なんて初めてだけど、大神官様の事だから何かしらの意味があるのだろう)


 四年前、シエナ達に瘴気を放った魔獣は、体自体の大きさは人間と大差なく二メートル程だが、背中から生えた翼は広げると軽く本体の四、五倍はあり生息数も極めて少ない部類のものだった。

 北に位置する極寒の山の山頂付近だけに生息しており、死期を迎える頃に何故か人間の多く集まる場所へと降り立ち、体内の瘴気を撒き散らし絶命する習性がある。

 年中吹雪に覆われた岩山の頂にいる魔獣の生態の多くは、現在も解明されていないため、死に際に人間の密集する地域に飛来する理由も解らない。

 これだけだと迷惑極まりないのだが、瘴気を出し尽くした骸からは、他では手に入らない最高級の様々な素材が採取出来る。そして必ず採れる高価な素材とは別に、心臓近くから国宝級の宝石が数十年から百年に一度の頻度で見つかる事もあるが、まあ宝石に関してはレア中のレアな夢のような事例だ。


 とにかく死に際の体力も残っていない中、北の地から人々の多くいる場所に降り立つのに、わざわざ人口が一番多い首都やそれ以外の土地を越え、南の海岸まで行き着く事はまず有り得ない。

 それこそ皆無と表現してもおかしくない異例さで、瘴気による被害者の数は圧倒的に少ない。

 そんな海岸地域に前回異例の『魔獣飛来』があったのは、確か七年前だと記憶している。シエナの頭の中には繰り返し読み漁った、直近三十年の瘴気に関する情報が入っているので間違いないだろう…その三十年の中でも南部や海岸沿いへの飛来はこの件のみだったはずだ。



 「!?」



 藁にも縋る思いも抱えながらも、けして過度な期待はせずに目を通した紙の上には思いがけず、新しい手掛かりになりうる幾つかの情報が散りばめられていたーーー。



 「………!?」



 大神官からの紙包みの中には、八人の成人男性のカルテを書き写したものと、それらを補足する書類が入っていた。

 カルテ自体には個人のシンプルな情報しか書かれていなかったが、大神官の字で書かれた補足書類は読み進めるほどに初めて目にする内容ばかりで興奮しすぎたせいか、一読ではすんなりと頭に入ってこない程であった。

 心の混乱を鎮めるように深呼吸をして、改めて時間をかけ紙のすみからすみまで、何度も何度も同じ紙を隈無く見ては自分の中に取り込む作業をする。



 (これは……師匠の根回しが実ったのかもしれない……)



 手にしていた紙を胸に抱き、思わず頭を垂れた。まだ不確かながら、この数年かき集め読んできた膨大な書物や他者からの伝聞とも異なる初めての情報に、居ても立ってもいられずソワソワと浮き足だす感覚を覚える。



 『師匠の根回し』



 今回に限らず、定期的に大神官から何かしらの情報がシエナの元に届くのは、師匠ネヴィアが眠りにつく前シエナにも知らせぬまま進めていた計画のお陰だった。


 そもそも大神殿の敷地内にある【祈りの塔】で眠りにつけないかと言い出したのはシエナだ。ネヴィアの症状が悪化していくのを一番近くで見ていた弟子の、戯れ言にも近い提案を初めは軽く聞き流していたネヴィアだったが、どの様な心情の変化かある日突然ネヴィア自ら大神殿へ打診の手紙を出したと聞かされた。


 祈りの塔とはシエナ達の住むラジアド王国の大神殿敷地内で、一番濃い神聖力が溜まり集まっている場所に建つ二つの塔の名称である。

 奥に高く太い塔、手前にその半分ほど低い塔が前後縦に並び建ち、奥の高い塔の地下空間は歴代王族の霊廟れいびょうになっており手前の低い塔の最上階三階にネヴィアがいる。

 これら二つの塔を包むように狭い範囲へドーム状に施された神聖力を閉じ込める結界は幾重にも掛けられ厳重で、塔に立ち入れるのは就任時に最内側の結界展開をする当代の大神官のみ。


 このように神聖かつ仰々しい施設での滞在許可が難無く下りるわけないのは考えなくても分かりきった事実で、そもそも塔で眠ろうなどの考えが浮かぶ事の方が異常なのだ。

 申請当時に何度も開かれた会議では、過去に王族以外がこの塔で過ごした例も無いという歴史的事実と、何よりこの国の神殿上層部の半数近い神官が滞在期間も不明な者を受け入れることに難色を示した。

 昔の王族でさえ戦争での負傷による大怪我を治すのに、他国の治癒師を待つ期間の精々一ヶ月滞在したという記録の一例だけ。


 日々異論を唱え沸き立つ一部の上層部の神官達、それを黙らせたのはネヴィアとシエナに多少の後ろめたさを感じている王の後押しと、国王の発言以上に力を発揮したのは、未だかつてない莫大な額の寄付を提案したネヴィア当人によるものだった。


 ネヴィアが眠りについた当日朝に大神官長から外に向け大々的に発表されたのは、今回の寄付によって発足するネヴィアと内々に交わされた様々な計画内容だった。

 前夜ネヴィアを見送り帰る際、手渡された大神官からの密書ともいえる手紙からは、ネヴィアが塔に入る決断をしたのは自身の延命のためというより、神殿を利用して瘴気の特効薬や近しい何かが生まれる未来への出費の名目付けに、塔での眠りを選択したように思えた。


 あの日大神官が発表した『ネヴィア基金』これは寄付金の一部によって、神殿の治癒師を育成し見習い治癒師の修行の一環で各地への派遣、無償での治癒を行うものだった。


 新人治癒師の育成には、手間もお金も掛かる名誉のある職である事から、貴族から年に一、二人の受け入れだった。

 しかし翌年からネヴィア達ての願いで『十倍の人数を平民から受け入れる』という試みが行われる事が知らされ、同時に募集と選考内容も発表された。


 しかし短期間で練り上げた策でもあったため、これから子息を神殿入りさせる予定のある貴族からの反発があるだろうと、平民と貴族の修行内容の線引きの一つとして、数年を掛け地方を巡る奉仕活動は、平民から受け入れた者の修行ということにして、その位も神殿治癒師と巡礼治癒師と名付け区切る事で一応の折り合いをつけた。


 実際に地方で施される治癒もやみくもに行うわけでなく『現地の医療や治療で治らない神聖力での治療を必要とする者』『瘴気の被害者』のみが対象で、身分に関しては貴族から平民まで垣根はない。

 その代わり治癒を受ける前に、神殿保管用となるカルテを作るための細かな聞き取りが必須条件となっており、治癒現場でそれを書き記す専門の見習い書記官も平民から雇い入れ教育したのち同行していた。


 寄付金以外ではないお金も眠りに就く前のネヴィアから、数人の神官や幾人かの有力貴族家当主へ表の名目は『人材育成の協力要請の資金』という名の賄賂で直接手渡されている。


 金を受けとる以外何もしていないが、余計な口出しをしないという【協力】のお陰で様々なことが最短ルートでトントン拍子に進み、神殿での半年に渡る集中的な詰め込み修行を終わらせ各地を巡る派遣に移行することが可能になった。

 不足分の学習は実践で習得しろというところだろうか。他所の弟子や見習いにもスパルタ実践を強いるのがネヴィアスタイルのようだ。


 また実際に修行のため、僻地を中心に各地を巡る治癒師や書記官を目にした地方民からの大神殿への評判上昇と、治癒を受けた者の家族や友人といった平民から、お布施額やお布施の頻度が上がるという効果もみられた。

 神殿に協力的ととられた貴族家や巡り巡って王家の印象すら、慈悲深いと良くなったため、時間が経つに連れ更に神殿内や多数の貴族達から反対意見が出る事もなく安定した日々が続いている。


 ただ初年度人材育成は初めて尽くしの短期間詰め込みだったため、知識や技術の不足している部分が多くみられた。その対策として現在は巡礼の修行の際『滞在する地方の神殿では老齢により引退した元神官支部長やそれに準ずる者に教えを乞う』という形を大神官長自らが提案し、どうやら円滑に行われているようだ。

 移動する先毎に教える人物が変わるのも、若い修行中の治癒師には刺激ある経験となる事も期待した。


 これらの平民からも多く神殿へ人材を取り込む枠組みを作り、その裏で各地からの薬効のある植物と、瘴気や似ている病の有益な情報をシエラの元へ届ける…という約束をネヴィアと大神官が個人的にしていたというのを知ったのは、初めてシエラの元にカルテの写しや大量の資料が送られてきた時だった。



 作業が出来ない身体になった後も、常に近くで厳しい眼差しを向けていた師が研究室に居ない事実に、当時作業の手を止めることなく働き続けるシエナは、人生で初めて味わう得体の知れない虚無感に戸惑っていた。

 そんな時期に受け取った包みは、自身のやるべき事を再認識するものになった。



 そして今日、暗中模索で再び身も心も疲弊しかけているこの日々に届いた知らせは、当時と同じく師匠から入れられた喝のようでシエナの中の何かが息を吹き返すような感覚を覚えた。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 幼い時期から自ら選び魔導薬師の仕事に従事しているのだから、元来がコツコツ地道に進める作業に苦痛を感じるタイプではなく、むしろ夢中になる気質なのは誰が見ても明白。


 しかし師匠の後ろに控える形で随行していた公務以外、他人と積極的に関わる事なく生活してきた当時十五歳になったばかりのシエナが、王宮筆頭魔導薬師という多くの大人と向き合う要職と並行し、道標のない作業をたった一人で現在十七の終わりになるまで続けるには莫大な心労があった。


 近頃は研究の行き詰まりのせいか、特に精神的な何かが磨り減っていくのを見ない振りして走り続けてきた。

 今回新たな情報を届けてくれた大神官には感謝しかない。


 師を救う薬を作り出せると疑うことなかった当時の気持ちを再確認し、違う側面からの研究を見いだせるかもしれない安堵と、今すぐ動きたくて自分自身を急き立てる衝動を抑えつつ、早急にしなくてはいけない事柄を順序だて思い浮かべると、メイドにある業者を手配するよう指示を出し、懇意にしている商会宛への短いメモの入った封筒を手渡した。




 (早ければ数日中には来るだろうか?)

 (上の人間じゃなければ二、三日中には来れるかもしれない)




 手配した商会の面々や、訪問時に依頼したい事を思い浮かべながら、先程これでもかという程目を通した八枚のカルテを手に取り、目の前のカップや皿を端に退けて空いたスペースへと紙を並べる。

 並べたカルテの上に、同じ大きさの無地の紙をそれぞれに一枚ずつ重ねると、手の中に収まるサイズの魔道具をスライドしながらかざしていく。

 翳された魔道具が真上を通ると無地だった紙がぼんやり光り、下に敷いたカルテと寸分違わぬ文字が無地の面に浮かび上がり、数秒でカルテと同じ物が出来上がった。


 この小さな魔道具と無地の紙は複写のための品で、普通の紙では複写は成立しない仕様の物である。限られた職人だけが作る事のできる最上級品、数もなく尚且つ隣の帝国製であるため巷でも王宮内でさえ出回っていない代物だ。


 恐らく王国内で所有しているのは大神官と、大神官へと贈った当人のシエナ二人だけだろう。三年近く前に初めて送られてきた大量の資料と共に、本来なら神殿からの漏洩厳禁であるカルテの手書きによる写しの膨大さを目にし、多忙である大神官の時間と手の疲労を心配をしたシエナが直ぐ様贈ったのが、複写の魔道具と大量の魔道具専用紙だった。


 ちなみに紙の方は魔道具の効果が発揮しやすく開発されたもので、各国で一般的に流通している品なので手に入れるのは容易く、様々な魔道具に使えるものである。




 『運良く二つ手に入ったけど二つ共要る?』




 当時、大神官の時間と健康を守る何か良い品物は無いか?…との打診に、驚くほど短い日数でこの魔道具を持ってきた商会主の言いようは軽く、まるでそこいらで手に入る掘り出し物の日用品を勧めるような言い回しだった。

 複写の作動試しを済ませ、二台の購入快諾した後に提示された金額を確認した直後、その金額に面喰らったのを思い出す。




 『太っ腹な嬢ちゃんのお陰でうちで雇っている商会員みんなの一年分の給金を支払っても余りまくりだ!まいど♡』




 代金を受け取った商会主の喜色満面の顔が脳裏に再生され、無意識に右手で振り払った。




 (今回は品物じゃないから現実的な金額よね……)







 ◇ ◇ ◇ ◇






 翌朝、気分の高揚で明け方にようやっと眠りについたシエナを目覚めさせるノックの音に続き、執事長の声が聞こえた。



 「お嬢様、フューシャ商会から急ぎの便りが届きました」



 ノックの時点では寝ぼけ眼で、朦朧もうろうとしていた意識が執事長の言葉でハッキリと目覚め、同時に滅多に出さない大声で返事をした。




 「テーブルに置いておいて!着替えてから目を通すから!」


 「承知致しました」




 着替えるとは言ったものの、実際は寝る直前まで手に持っていたカルテや資料の紙の散らかるベッドから身を起こしたは良いが、周りを紙が埋めて足の踏み場もない惨状に立ち上がれずにいた。


 仕方なしといった様子で、それらを破らないように手早く一纏めに集めると、一目散にリビングのテーブルへと裸足で駆けていく。手にした紙には昼前にはこちらへ到着予定との簡潔な文言があった。




 「や…った…わ」




 昨日午後に出した招請しょうせいのメモには『依頼したい用件がある。先触れ不要なので急ぎ商会の人間を送ってほしい』という短い用件のみ書いた。


 懇意にしている『フューシャ商会』とは、多忙な業務量と規模に比べ従業員の少ない商会で、まさかこんなに早い来訪になると思わなかったシエナは、先触れの紙を握り噛み締めるように小さく喜びの声を洩らす。

 そしで、そのまま流れるように昨夕メイドが帰宅前に閉じておいた分厚いカーテンを次々引き開けていく。ついでに幾つかの窓も開けておいた。


 それが終わると、時計の針がまだ八時を過ぎたばかりなのを確認し自身の身支度に取り掛かる事にする。準備が整ったら来客時にお茶と軽食を出せるよう伝えなくてはと思いながら、いつもより少しだけ明るめの色味の衣類を選び着用した。


 誰かに会うことを心待ちにする事の皆無な…いや研究中や仕事中はどちらかというと煩わしく思いがちなシエナが、執事長に来客へのもてなし対応を自ら進んで指示したのは、タウンハウスに住み出して初めての事とあって執事長は内心驚いていたが、職業柄それを表情に出す事はなかった。


 あれから三時間ほど経ち通いのメイド達も揃い始める正午前、昨日と同じような時間帯に同じ玄関先で来客を迎えようとしているシエナの姿がある。

 しかし昨日とは違い、来訪を告げられる随分早い時間から玄関ホールを落ち着かない様子で、行ったり来たり繰り返していた。


 そして屋敷の前に馬車が着き、心待ちにしていた人物の訪れた現在の玄関ホールでは、貴族令嬢としては地味で来客向けではないが、昨日よりは多少マシといえる、やはりドレス未満の足首までのワンピースといった装いで訪問客を迎い入れていた。




 ◇ ◇ ◇ ◇




 「ありがとう、急な呼び出しにまさか商会トップの二人が揃って訪問してくれるとは思わなかったわ」

 「こちらこそ最近は依頼書の紙しか送られて来ないので、もうその美しいお顔を拝する事が叶わないのではないか…と、妹と共に心の中でやきもきする日々を過ごしておりました。昨夜受け取ったお呼び出しが嬉しくて、全ての業務を留めて馳せ参じた次第です」



 玄関ホールではシエナとその後ろに控える出勤して間もないメイドが一人。迎えた客は濃いベルベットのような赤い髪の二人の人物で、超が付く程に有名な美貌とその商いの手腕の高さで、各国高位貴族が御用達にしている商人兄妹だ。


 一人を目にすることも困難な事で、二人揃っていることは幻のように囁かれているのは貴族にとどまらず平民の中でも常識になっているため、来客人物の前情報の無いまま迎え入れた側のメイドの頭の中は真っ白であった。


 あと二人、シエナの居間や厨房で現在大急ぎで来客用の準備をしているメイド達も、前情報が無いのは似たようなもので、客については人数すら聞かされないままセッティングを進めている最中である。

 しかしシエナ自身も、王宮にいた時ならいざ知らずこの侯爵邸に多忙を極める兄妹が招請から半日も置かず揃って来るとは思いもよらなかったので、伝えようがなかったのだから仕方ない。


 普段、浮き足立つ事のないシエナ付きのメイドも現実味のない光景のせいで、目の前で交わされている会話のほとんどが頭に入ってこなかった。

 それでも、かろうじて雇い主の後ろで無礼にならないよう体裁だけは整え控えていると、目の前の人物達が赤い髪を揺らしシエナの自室へ向かうべく動き出した。





 ◇ ◇ ◇ ◇





 「軽く食べられるものを用意したの。口に合うと良いけど」


 「シエナお嬢様が私共めに食事を御用意下さったなんて!なんと光栄至ご……「からかわないで、いつも通り普通に話してよ」」


 対面に座る商会主の言葉を遮るように、わずかにムスっとした言いようでシエナが発した。


 「この部屋にいる三人は外部に貴方達の事を言い触らす心配はないわ」


 テーブルの側でお茶を淹れている最中のメイド達を指し示す発言に、商会主がチラリと目線だけを移したが、シエナの自身らを指す言葉にも聞こえていないかのように作業の手を止めることなく仕事を続けるメイド達の姿をじっと見たあと、長い息を吐くと貴族の鑑のように優雅に伸ばしていた背筋、凛としつつも商人としての人当たりの良い柔らかい声色等が、瞬時に様相を変えた。


 揃えていた長い足を組み、ソファーの背もたれに深く掛け直すと先程までの爽やかさは一転して顔つきも危うさを帯びたものに変化する。


 「お嬢ちゃん、一年以上も備品と薬草の発注書しかくれないのはどうよ?王宮を出てから音信不通と変わらないとかさ。俺はお嬢ちゃんの兄といっても過言ではないと自負しているんだ。発注書の片隅に『お兄ちゃん元気?私は元気』の文字くらいあるんじゃないかと毎回発注書の隅から隅まで目を通していたのに、書かれているのは味気ない草の名前や数字だけ」

 「発注書って本来そういうものではないの?」

 「そういうことを言ってんじゃなくって「それにルーイは兄というより父の方がしっくりくるわ。今の発言を師匠が聞いたら『兄だなんて烏滸おこがましい』って一蹴されると思う」な、この美貌の商会主になんて事を……」




 実際見た目は二十代半ば位にしか見えないのだから、シエナに『ルーイ』と呼ばれた商会主とシエナが共に居れば他人の目には兄弟の差にしか映らないだろう。

 その実、二人の年齢差は十六歳。初対面がシエナが九歳の終わりだったせいか互いの無意識下に相手を子供と大人といった位置が固定され払拭されないでいる。多分この感情は永久に変わらないだろうとの共通認識も当たり前に持ったままだ。


 そんな久し振りに会った親子喧嘩のような小競り合いを、兄の隣で微笑ましく見ていたルーイそっくりの妹アメリが見兼ねた様子で口を開く。


 「元気そうで良かった。ずっと心配していたけど、思っていたより顔色も良くて安心したわ。シエナもヴィアも放っておくと寝ないし食べないじゃない?似た者師弟だから倒れているんじゃないかって時々堪らなく心配な時があったの…」


 久方ぶりに聞くアメリの柔らかい声に、心からの思いやりと心労を感じ取りアメリとルーイの顔を交互に見ると、その目や表情からは、離れたところに居ても気遣いながら声が掛かるのを待っていたんだろうという事が容易に読み取れた。

 師匠ネヴィアの幼馴染みである二人とは年の差はあれど、それくらい察知できる程には長く付き合ってきたのだと感じ、心配を掛けていた申し訳なさと面映ゆい気分に苦笑いした。


 「手紙くらい書けば良かったわね。心配掛けて…ごめんなさい…」

 「謝ることなんかないだろ、俺達が勝手に心配してただけなんだから。それより!今回は発注書じゃなく呼び出したって事は、欲しい物が草じゃないって認識でいいんだよな?お客様!!」


 シュンと暗くなり掛けたシエナの言葉と湿った空気を一刀両断するように言い放ち、ソファーの背にもたれ掛かっていた上半身を起こして襟を正すと、商魂逞しい美しさを意識した笑顔をシエナと出迎えの時からシエナが小脇に抱えたままでいる書類の入った封筒へ向けた。


 瞬時の変わり身の早さと、その笑顔の破壊力に流石のメイド達も一斉に息を飲んだのが分かり、隣に座る呆れ顔のアメリと同じく呆れたシエナの目線がぶつかった。

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