筆頭魔導薬師令嬢と薬神皇子の甘く秘める実験部屋では

莉冬

プロローグと第1話



 中央大陸東南部に位置するラジアド王国の騎士団訓練場施設の一画いっかく



 窓のない石造りの堅牢な壁、その壁に等間隔で付けられた実用性だけが見てとれる、無骨で飾り気を排除した照明の灯りが揺れるひんやりとした室内。

 数年に一度、ごくまれに臨時の物置等に使われる事はあるものの、武器等の保管部屋からも離れ廊下の突き当たりに奥まった作りは、使い勝手の悪さから普段は何もない伽藍がらんとした空間があるばかりの石の部屋。

 今日はそんな数年に一度の稀有な日なのか、部屋の中央からやや出入り口寄りには、王宮施設内としては異質な雰囲気を放つはがねの檻が鎮座している。

 檻の直ぐ前には、この場所にも檻にも似つかわしくない二人の少女の姿があり、二人の数歩後ろで鉄扉が開いたままになっている出入り口付近では、何人かの高位貴族や使用人、近衛等の大人が息を殺す以外は何も出来ないといった様子で少女達を見つめていた。


 その大人達の一番前には、たった今駆け付けた様子で肩で息をしている厚く長いローブを羽織った妙齢女性が、扉に手を添え部屋に入るタイミングをうかがっているようだ。


 檻の前にいる二人のうち、年齢が下に見える方の少女は怯えた表情で腰を抜かし震えている。満遍なく手入れの行き届いたストロベリーブロンドの髪と身を包むドレスも華やかな身なり、十歳くらいに見える少女。

 その完全にへたり込んでしまった少女の半身前で檻を見据え、仁王立ちでいるもう一人の少女の方は、輝く薄金の髪をただ一つに雑にひっつめ、衣類もシンプルな日常使いのものに宮廷魔導薬師専用のローブが掛かるのみの簡素な姿。


 纏うものも有りようも対照的な二人の目に映る鉄の格子がキ、キィィ…とかすかな音を立てゆっくり開くと、その動きに連動し、既に解錠され引っ掛かっているだけの錠前が力なく揺れた。


 低い呻き声と共に、その躯体を引きずりながら這い出ようとしているのは、死にかけ視力も失っている様子の魔獣。

 フシュー…フシュー……と吐き出される低く大きな呼吸音を繰り返す異様な存在。檻からたった数歩の距離だが、更に縮めるように這う魔獣から目を離さないよう睨んではいるものの、拭いきれない恐怖心によって強張こわばる足…。

 それを何とか無理矢理動かし、目の前の獣を刺激しないよう一歩…また一歩と確実に後ずさる事だけに集中する薄金髪の少女。



 ーーーしかし



 「姫様!こちらへ!!」



 少女が細心の注意を払い維持していた静寂を、無意味なものに変えてしまう無配慮な、絶叫にも等しい衛兵の大声に思わず身をよじり後方を見る。

 その視界に映ったのは、先程まで直ぐ側で震え座り込んでいた少女の腹を背後から抱え込む近衛の姿と、抱えられた体勢のままの少女の小さな手から石床へと滑り落ちる無骨な作りの、檻と良く似た鋼製の鍵ーーー。


 続いて予期せぬ急な浮遊感に驚いた顔の『姫』と呼ばれた少女が沢山の手によって、廊下にいる大人達の向こう側へ消えていく様子。時間にして数秒程度の瞬く間の出来事だったが、薄金髪の少女にはこの一連の動きが、まるでスローモーションのようにながく感じられた。


 しかし、その錯覚は直ぐに覚める。少女を現実に引き戻したのは、廊下に続く唯一の重い両開き扉を力任せに素早く閉じる衝撃音と間髪いれず施錠する鈍い音だったーーーー。


 反射的に『ああ、この部屋に閉じ込められたのね……』と現状を理解するのと寸分違わず、目の前には先程の近衛の大声と耳をつんざく程の音を立て閉じた扉の衝撃に刺激された魔獣が、最後の力を振り絞るように身を起こして、扉の方向…すなわち少女へと襲いかかる体勢で大きく翼を広げた。




 「…っシエナ!」




 少女の左後方から出てきた女性が、自身の着ていた分厚いローブを少女に覆い被せ、抱き込むように石床に伏せると、苦しげに開かれている魔獣の口へ対魔獣用の麻酔銃を二発打ち込み『私が良いと言うまで顔を出さないように』と厳しい口調で命じた。




 「師匠!!でも!「うるさい話すんじゃない。…………効いたか?」」



 シエナと呼ばれた薄金髪の少女の言葉を遮り、その視界もローブで遮蔽しゃへいすると、檻の前で横たわり微動だにしない魔獣に視線だけを向け、なんの事はない確認作業とばかりに薬銃の効き目を小声で無機質に言い放った黒髪の『師匠』と呼ばれる女性。


 外から施錠され明かり取りの窓さえ無い部屋の中央には、あれから程無く絶命した魔獣の屍、そこから一番離れた壁際に距離を取る形で移動した二人がいる。


 先程シエナと呼ばれていた当時十四歳になる少女、そして師と呼ぶには不釣り合いに若く見える二十代であろう女性。女性は自身の着ていた分厚いローブで互いを包み込むようにして巻き付けていた。


 檻の中にいた時から既に死にかけだった魔獣の体から僅かに発していた瘴気は、屍になったのを境にその瘴気量を増やし続け、今では室内を満たす勢いで増し漂う。

 明かりの入らない場所でどれだけの時間が経過したのか、あとどれだけ経てば再び扉が開くのか。何一つ見通しも立たないまま、身を寄せるようにローブにくるまり息を潜める二人ーーー。



 固く閉ざされた扉が開いたのは、閉じ込められた夕刻から約半日が経過した翌朝の事だった。






 ◇ ◇ ◇ ◇





 四年後ーーー



 中堅国であるラジアド王国と隣り合う巨大大国グリフィス帝国の境、広大な森の奥深くにある帝室直轄区域にひっそりと佇む邸宅の二階では、時間が経つのも忘れ積んだ書物を読み耽っていた男が、夕刻もとうに過ぎて冷たくなった空気に気付き顔を上げた所であった。

 日中から開け放していた窓を閉じようと手を伸ばした瞬間、窓の向こう…そう遠くはない位置から馬の高いいななきと同時に、日が沈み暗闇だけが広がる森に一瞬何かの光が半円を描くようによぎって見えた。


 今のところは見過ごし、明るくなってから確認するか…とも思ったが、多少気掛かりに感じ身をひるがえすと、室内をスタスタと足早に大股で進み階下に向かいながら、森を歩くための外履きや丈夫な外套、手持ちの灯りに縄……と次々手にしては、素早く身に付けたり肩から掛けたりしながら、身支度を調え外への扉を押し開いた。


 先程居た自室の窓から真っ直ぐ南に見えた光の位置を、頭の中で何となく思い描くと一息吐ひといきはき、乱雑に伸び放題の枝葉や草が脛や膝や腰に当たるのも気にとめることなく、道の無いルートを切り開くように力強く歩く。


 正確には分からないが、早足で歩き続けて体感で十分にも満たない内に、木々の隙間から先程目にしたであろう灯りが徐々に漏れ見えてきた。

 それに向け音を立てないよう配慮しながらも足早に歩みを進めると、その方向からは微かに何か生き物の息遣いも感じられたが、これも邸宅で耳に届いたいなないていた馬であることは想像に容易く戸惑うことはなかった。


 実際に灯りの位置を特定した事で僅かに警戒心を強め、目標に近づくにつれ歩く速度は意識せずとも徐々にゆっくりになり、次第にに目元も警戒によって細められ注意深く観察するように変わる。


 光源であるランプはどうやら地面に転がっているようで、こちらに尾を向けている馬を下から照らしているのが見えた。

 馬の向こう側の様子を窺うべく、直進ではなく少し回り込む形で移動してみると、腰ほどの高さの低樹木が生い茂るその上に、馬の乗り手が横たわっているようだった。


 地面に落ちたランプでは、角度的にその人物まで光りが届かないため外套らしき布の端しか見えないが大方、森へと迷い込んだ末に道もない悪路による予期せぬアクシデントで、高い馬上からこの樹木にふるい落とされたのだろう……と予想し少しだけ警戒心を緩め、まずは落ちているランプに向かい拾い上げることにした。


 背後の気配に気付いた馬が飼い主を気遣うためか、こちらを向き盾になるように体勢を変えた。


 「大丈夫、危害を加える気はない。これは……お前の鞍に付いていたのかな?」


 手にしたランプを持つ手と反対側の手を上げ無抵抗のポーズをとると、テンポ良く移動しながら愛想を振りまくような形で、馬の持ち主を確認するため横歩きで馬から一歩ほどの位置に身を滑り込ませた。


 こんな時間にこのような場所で気を失った男の顔を拝むべく、拾い上げたランプを掲げる。


 「……!?え…じょ、女…性……?」


 移動手段と時間帯に道無き悪路、そして何よりこの帝室直轄地という特異な場所の性質上、勝手に男の迷い人だろうと想像していたが、垣根の如く群生した低い樹木の上へと仰向けに横たわっていたのは、まだ年若い女性だった。


 驚きの余り再度確認するかのように右手に持ったままのランプを更に近づけると、目の前の女性の呼吸が回数も多く浅い上に照らされた顔も辛そうに歪んでいることに気付く。


 女性であるという予想外の事と、その女性が気を失っているという不測の事態に思考が一瞬停止していると、自分と女性のと間へ割り込むような形で馬が頭を入れてきた事で我に返った。


 「どうやら、おまえが振り落としたわけじゃなさそうだ。おまえの主は体調が優れないようだが、一体何故こんな所にいるのか……」


 手に持っていたランプを、元々付けられていたであろう鞍の金具に固定すると、未だ意識を失い硬い木々に身を投げ出している女性に向き合う。木のベッドにも見えるが、落ちた拍子になぎ倒され折れた木々の上は鋭く尖っていてもおかしくはない。

 それに、この状況だ。さすがに見過ごせるわけもなく保護するため馬の背にうつ伏せに乗せ、その後に落下しないようロープで括ろうと考え抱き上げる。


 その際に目に入った外套からのびる首もとの紐と、それに繋がるランプの光を反射させるブローチの意匠の既視感から、流れるように波打つ金髪の女性の顔を食い入るよう見つめること数秒、合点がいくかの如く男の口から声が溢れ出た。


 「……シエナ…クラー…ク嬢…?」


 呼び掛けと言うには頼りない、かすれた呟き声にわずかに反応し、薄く目を開けた女性が目の前の人物を認識したように目をみはると、ゆっくり自身のみぞおち辺りに手を当てて、力無く『殿……下、これ…を…』と何かを言いかけたが、それも一瞬のことで再びその意識を手放し再び目を閉じた。





 第一話



 じきに太陽も真上に位置するであろう時刻。


 クラーク侯爵家タウンハウスの玄関ホールでは、濃紺単色で飾り気の一切なく足首までを覆い隠す、ワンピースとも簡素なロングドレスとも形容できそうな衣服をまとった美しい女性が来客の対応をしていた。


 メイド服の方がまだ飾り気がありそうな、修道女とも見紛う地味な佇まいの中で唯一豪華さを放つホワイトブロンドにも近しい薄金の長髪は、大層手入れが行き届いているようで痛みなど見当たらず滑らかで、修道女との明確な相違点だろう。

 しかし美しいその髪すら、無造作に緩く一纏まとめに編んで背中から腰まで真っ直ぐに垂れ下げているだけ。


 そんな女性が両手で抱えきれる程度の木箱を対面している男性へと差し出す。受け取る男性の見た目は金髪女性と相反し、豪奢な金銀の刺繍と小さめの宝石等が散りばめられ彩られた、近衛騎士服に身を包んでいる。

 近衛の中でも数少ない王の側に仕える者達の騎士服だ。



 「ではこちらは今回の代金です。お確かめの上ご署名を」



 女性と騎士は慣れた様子で木箱と皮袋を交換するように物品の受け渡しを行い、続く流れ作業のように紙切れを差し出す近衛騎士。女性の方もこれまた手慣れた仕草で皮袋の中をさっと改め、紙きれに右手をかざす。

 その動作だけで目の前の紙の上には一瞬で署名が記された。



 「確かに…ではまた二週間後に伺います」



 署名に目を通し終えた騎士は、特段感情も見えない儀礼上の上品な笑みを張り付け、それにならうかのように女性の方も表情はないものの軽く頭を下げた。

 この家に仕える執事が控え開いた玄関扉へ向かう騎士のピンと伸びた後ろ姿が扉の向こうに消えたのを見届けると、肩の凝る役目を終えた安堵感に溜め息をき、自室へ向かうため身を翻して階段へと歩みを進める。


 階段に一歩足を乗せたタイミングで、徐々にこちらに近付いてくる複数の賑やかな声と足音が耳に入ってきた。これから階段をのぼろうとする女性と、階下へ移動するべく楽しげな軽い足取りで姿を現した人物達。

 知らぬ者が見ても両親とその娘だろう…と容易く判断できる容貌の三人だが、そのうちの外行き用のフリルたっぷりの華やかなドレスを着た少女が階下の女性に気付くと、階段を駆け降りその前で立ち止まった。


 「ごきげんようお姉様!今日はお城の騎士様が来る日だったのね!まだお外にいらっしゃるかしら?」


 玄関ホールに居た女性を姉と呼び、無邪気な笑顔を見せる鮮やかな濃い蜂蜜色の髪を持つ少女は、高く結い上げたツインテールを揺らし胸の前で祈るように指を組んで首をかしげながら、姉と玄関を交互に見て尋ねる。

 その瞳は身分も容姿も優れた者で構成される【近衛騎士】という響きに憧れる、同じ年頃の少女達と変わらぬ輝きだ。



 「サマー階段を走って降りるなんて、再来週には十二歳になるのにお転婆すぎるわ。怪我でもしたら大変よ」

 「お母様!だってこの間も騎士様にお会いできなかったのよ」

 「あの日は、あなたが新しい日傘が欲しいって言うから朝から出掛ける事になったのでしょう?日傘ならドレスに合わせて購入したものが沢山あるというのに、この子ったら…」

 「あーあ今日はあと少しでお会いできたのに…残念」

 「二週間なんてすぐだよ。それより急がないとイーサンを待たせてしまう」



 ゆっくりと階段を降りながら少女をいさめる壮年の女性は、サマーと呼ばれた少女と同じ蜂蜜色の髪を結い上げている。その隣に寄り添う夫らしき少々恰幅の良い男性も、妻の言葉に付け足すよう少女に話しながらゆっくりと玄関ホールに降りてきた。


 男性の方は先に玄関ホールに居た紺のドレスの女性とよく似た髪色をしており、その妻の口元も紺のドレスの女性に似ているため、この場にいる四人が血の繋がった家族である事は容易に窺える。

 しかしパーツこそ似ている点はあるが、装いや表情と醸し出す雰囲気は、階段を降りてきた三人と階下にいた女性では不思議なほどに全く異なるものだった。



 「そうね!お兄様が早くお店に着いて待ちぼうけになっているかもしれないし、お腹を空かせていたらお気の毒だもの、お父様急ぎましょう!」



 紺のドレスの女性が一言も発することもない短い時間で、サマーと呼ばれた少女は目まぐるしく表情を変え話題を変え、生き生きとした様子を伺わせる。

 その親子の一連のやり取りを、まるで違う場所から垣間見ているように立っているだけだった女性に妹サマーが再び話しかける。



 「今からお兄様のいる寄宿舎の近くまでお食事をしに行くの。いつかお姉様もご一緒しましょうね!」



 ニコニコと屈託無い笑顔で姉を見上げるサマーの後方に両親が歩みより、父がその肩に手を置く。



 「サマー、シエナを困らせるんじゃない。外出などして倒れてしまったらどうするんだ」

 「それは…もちろん私も悲しいわ。だからお姉様が良くなるまで我慢するのよ」

 「偉いわねサマー。まだ幼いのに、こんなに優しい娘に育ってくれてお母様も嬉しいわ」



 さも物憂げに微笑む娘の髪を、愛おしそうに撫でる母親の顔は慈愛に満ちており、端から見ると完璧で幸せな家族の見本のようだろう。



 「では行ってくるよ。シエナ無理だけはしないように身体を休めるんだよ。お前が元気でいる事が、私達にとって何より幸せなことなんだから」

 「そうよ。イーサンも心配しているでしょうから何事もなく過ごしているって伝えておくわ」



 そう口々に告げながら留守をする方の娘シエナを父と母が一方的に抱き締め、慌ただしい親子三人は馬車の待機する扉の外へと出ていった。


 


 (一言も発さなくても会話って成り立つものなのね。数日振りに会ったのに挨拶をする間さえなかったけど……良かったのかしら…?)



 静寂の戻った玄関ホールの真ん中、家主を見送り終えた執事によって閉じられる扉を見ながら他人事のような感想をもったが、そんな疑問への興味は直ぐに消えて再び上の階へと意識を向けると、軽く手摺に触れ一段ずつゆっくりと上り始めた。


 向かうのはこの邸宅の家族全員の部屋が並ぶ西棟三階ではなく、このクラーク侯爵家長女であるシエナのために、一年半ほど前に特別に設えられた二階東側の自室である。

 長い廊下を歩いた先で目当ての扉の前で足を止め、よく磨かれた金のドアノブに手を掛け中へ入ると薬草や薬剤の複雑に合わさった匂いが漂い、一歩踏み込むたびにかすかに髪や身体へ纏わり付くかのようだ。

 大抵の女性は薬効重視の草の匂いより華やかな香水などの香りを好むだろうが、シエナには職業柄か草の匂いの方に長年慣れ親しんだ心地好さを感じる。



 このクラーク侯爵家のタウンハウスである、その名の通り王都に建つ邸宅、そして新しく改装された部屋にシエナが居を移してから一年と少し経ったが、今だ仮住まいのような気分で慣れないでいる。

 そんな感覚を落ち着かせてくれるのは、部屋に溢れる薬草達の匂い。


 廊下側から自室の扉を開いてすぐ目に入るのは、昨夕からカーテンが引かれたままの薄暗い居間。その中央で豪奢に存在感を放っている、自発的には使うことのないテーブルそして揃いのソファーを通り過ぎると、突き当たりの壁にふたつある扉の比較的地味な作りの右の扉へと吸い込まれるように入った。


 ノブを引いた途端に鼻につく薬草臭は、先程の居間で感じた薬草や薬品の香りなど、それなりに薄まったものだと容易に認識出来るくらい濃厚な薬草と薬品臭が広くもない空間を満たしている。


 いつもは居間と変わらない程度の匂いだが、先程近衛騎士に手渡した薬の製薬作業を明け方に行ったせいで、締め切っていた室内は通常より薬草の匂いが濃かった。そのせいで居間へも普段より濃いめの薬品等の匂いが溢れていた。

 四方の壁を武骨なレンガで埋め尽くした部屋は、よもや貴族令嬢の私室の一角とは到底思えないものだ。壁に備え付けられている強度だけを重視しただろう大きな棚といい、どちらかといえば下町の職人の工房といったおもむきで、そんな部屋の中央にドンと置かれた木製の作業台も、先程の居間にあった美しいテーブルとは異なる存在感を放っていた。


 成人男性ひとり程度なら難無く横たわる事が出来そうな広さの天板と頑丈そうな厚みの台の上には、新旧様々な書物と紙の束が所狭しと広げられたままだ。作業台と同じ木材で作られた背もたれのない丸椅子を軽く引くと腰を下ろし、昨夜遅くまで読み耽っていた紙の束を手に取り目を通し始める。


 同じような内容の読み物と同じような文字を方々から集めては読み漁り、それらを手掛かりに、これまた似たり寄ったりな手順の研究を繰り返してきて間もなく三年をゆうに越える月日が経過しようとしている。

 当初は師匠と共に始めたこの作業も、師匠が居なくなってからはシエナひとりだけのものになっていた。


 三年前……いや、あと三ヶ月もすれば四年になってしまう自分と魔導薬の師であるネヴィアが約半日以上にも渡り、密室で瘴気に曝され続けたあの日。


 一人分の大きさしかない、瘴気避け効果が付与されているローブの大部分をシエナを守るために使い、身を挺して瘴気から弟子を守ったネヴィアは、この国最高峰の治療を施しても日に日に体内を瘴気に蝕まれ、自身と弟子シエナとで模索する治療薬の開発も難航しいたずらに時間だけが過ぎる結果になった。


 最終的に師であるネヴィアは寝所から起き上がる事が困難になる直前、これ以上の病の進行を阻止すべく大神殿への莫大な寄付と引き換えに、大神殿の敷地にある塔内で体の時間を遅らせシエナが治療薬を作る日まで眠りに就く選択を選んだ。


 当時、王宮の筆頭魔導薬師であったネヴィアが大神殿入りの前に行った後継指名により、唯一の弟子で当時十五歳を迎えたばかりのシエナが後を継ぐ形で筆頭となってから年数が経つが、指名された直後や受け継いだ当初は『無理だ』と、顔にはださずとも内心で大きな不安を抱えていた。


 しかし『私が筆頭に指名されたのは十二の時だ。それにお前なら問題なかろう』という師匠の言葉と、自分のせいでここまで酷い症状になってしまっただろう痩せ細った姿に『完璧な治療薬を完成させ師匠ネヴィアを復活させるまで弱音は口に出さない』と決め、通例半年から一年掛けて徐々に移行されるものを、五日という異例の短い引き継ぎ期間で就任するに至った。


 ネヴィアが去った後も弟子時代と変わらず王宮に住み、弟子時代と変わらぬ調薬や製薬作業を続ける日々。変わったのは二人が瘴気を浴びた後からネヴィアと共に始めた体内に巣食う瘴気を消し去る薬の研究だった。

 外気に漂う瘴気を弾く薬品と、その薬品を用いて魔導具にした物は幼い頃のネヴィアが当時の師匠であった魔導薬師と共に過去に作り既存していた。

 そのため当時の細かい資料はネヴィアが個人で所持しており、二人はその資料や些細なメモを引っ張り出しては片っ端から頭に入れ直し、人体内への除去薬として転用すべく試行錯誤しながら寝ずに動き続けた。


 しかし体内に蔓延った瘴気は予想以上の早さでネヴィアの日常を変え、瘴気を浴びてから半年で杖なしの歩行が困難になり、その四ヵ月後の次代筆頭指名を行った頃には車椅子に腰かけての口頭指導すら気を失い息も絶え絶えだった。

 神殿に入るその日まで全身の激痛に耐え、顔に出さないようにしていた師の姿と当時の光景が、昨日の事のようにありありと脳裏に浮かぶ。



 (だめね‥集中が切れると直ぐに師匠の事を思い出してしまう)



 読んでいた紙を置いて両肘を付き、溜め息混じりに顔を覆うシエナの耳にノックの音が聞こえた。



 「どうぞ」



 シエナの部屋に、いや屋敷二階の東側に足を踏み入れるのは滅多にない来客等を伝える執事や少数の決まったシエナ専属メイドのみなので、特に取り繕う必要もなく即座に返事を返す。

 予想を裏切ること無く扉の向こうから顔を見せたのは、麻紐で括られた紙包みを腕に抱えたメイドだった。


 「今しがた神殿から届きました」

 「ありがとう」

 「お食事をお持ち致しましょうか?」


 メイドの問いで時計に目を向けると時刻は正午をとっくに越えて、大抵の貴族令嬢ならティーカップ片手に寛いでいる時間だ。

 昼夜関わらず仕事に没頭する事が多いシエナは、家族内での決められた食事時間ではなく、手の空いた時に食事をとるスタイルをとっており、場所も食堂ではなく自室だったが研究に没頭するあまり食事や睡眠をおろそかにする事も少なくない。

 自室から廊下に出る事も稀、何なら就寝以外この研究室に籠っているといっても過言ではなく、午前中に玄関ホールへ降りていたのも二週に一度の頻度で受けている国王からの依頼薬品を、近衛騎士に直接手渡すという仕事があったから。

 それ以外の部屋の内外で発生する事柄の九割近くは、現在の二階東担当のシエナ専属メイドや、この邸宅の執事長が処理してくれている。


 母や六歳下の妹サマーと違い専属侍女を付けていないシエナの身の回りの世話は、現在二階フロアを受け持つメイド達が清掃の傍ら兼務しているが、シエナがこのタウンハウスに足を踏み入れてからの要望は一貫して『夜の風呂の湯の準備、食事は頼まれた時に部屋へ運ぶ、寝室とリビングの清掃も週に二、三回程度で毎日する必要はなく研究室の清掃は不要』という指示のみ。

 一年と少し前、この邸宅に初めて姿を見せたシエナによる、着替えも風呂の世話も不要等の発言に、身の回りの世話にと新たに配置換えになってた、侍女候補達三人と元から東棟の清掃などの担当をしていた使用人一同は、予想に反する指示の少なさや内容に大変困惑した。


 国内外から天才と称される十六歳の王宮筆頭魔道薬師など、気難しく些細なことで首を切られるのではないか…と気を張りはつ対面の日を迎えたのだ。

 十歳を迎える少し前から十六歳に至るまで、血の繋がる家族との交流も滅多になかった王宮育ちの天才となれば、未だ見ぬ令嬢とはいえ…いや見たことがないからこそ、使用人達の間で要らぬ想像が湧くのは仕方ない事なのかもしれない。

 シエナ本人からしても幼い年齢で王宮に入り、忙しい日々を送る中で余計な事を考える暇など無かった。

 ただシエナ入宮の半年後に、父母と弟妹の四人が長らく済んでいた領地のカントリーハウスを離れ、王都のタウンハウスに本格的に住まいを移した話だけは耳にしてはいたし、暫くして馬車の窓から遠目でこの建物を目にしたこともある。

 しかし実際この邸宅に足を踏み入れたのは王宮から出た十六歳の時が初めてで、使用人の多くがタウンハウス用に新しく雇用された者達なので互いに初めての顔合わせだった。



 「食事は要らないから代わりにお茶をお願い」

 「承知いたしました。直ぐにお持ちいたします」



 いつもなら無駄な言葉も無駄な動きもなく速やかに部屋を後にするメイドだが、今日は室内に匂いがこもっているのが気になるのだろう…返事の後に素早く大きな窓を半開きに開けて、新鮮な空気を取り込み去っていく。

 静かに閉じられた扉を横目に手渡された包みの差出人を確認すると、そこには師匠であるネヴィアが今も神聖力によって眠りについている王国大神殿のトップ、大神官長の名が記されている。

 作業台に包みを置き紐を解いて何重にもなる紙をかき分けると、数十枚の紙の束そしてその上には差出人である大神官長からの封書が添えられていた。



 「……カルテ?」



 最近はもっぱら眠りに就いている師匠ネヴィアの様子が書かれた報告の手紙のみだったため、久々に届けられた紙の束が気になったが、とりあえず一番上にあった手紙に目を通そうとペーパーナイフの置かれている棚の前へ移動した。



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