佐原が空けた、人一人分の距離を、彬が一息で詰めた。そして、その腕が佐原の首にふわりとまきつけられる。

 こんなふうに、彬から触れられたことはなかった。セックスの最中ですら。だから佐原は驚いて、ただ硬直することしかできなかった。

 「セックスしよう。」

 耳元で、彬が囁く。

 まだ、身体を汚したりない。多分、そういうことなのだろう。彼は、自分の心が汚れたと思うレベルまで、身体も汚したいのだ。そうでなくては、心と体のバランスが保てなくて。

 佐原は、誘惑されかけた。いつだって抱きたい相手だった。はじめてその相手に縋られた。素直に誘惑されて、なにが悪い。

 それでも、彬の言葉に応えられなかったのは、彼があまりに痛々しい表情をしていたからだろう。それは、今にも泣きだす寸前の子どもみたいな。その表情を見て、佐原はぎりぎりのところで理性の糸をつないだ。今、抱いたら、本当に自分はただ彬の身体を汚すためだけの存在になる。

 「……セックスもいいけど、なにが残るの。」

 しなやかに痩せた青年の身体を、抱き返すことさえできずに紡いだ言葉。これまで自分が繰り返してきたセックスを思い返した。それは、名前も顔も声も身体も曖昧な女たちとの。彬には、こうなってほしくないと思った。セックスなんて、ただの粘膜接触。そこになんの意味もない。佐原だって、そう思い込んでいた。彬に会うまでは。そして、自分は彬にとって、自分が抱いてきた無数の女たちと同じ。そのことだって、分かっていた。分かりたくは、なかったけれど。

 「なにも。俺、女じゃないし。なにも残らねぇよ。」

 佐原の首を抱いたまま、彬は投げ出すみたいに言った。

 「……それ、相方にも言った?」

 「言った。」

 「そしたら、なんて?」

 「泣いてたよ。」

 どんな会話のはずみで、相方にそんなことを言ったのかは知らないが、泣いたという相方の弱さと強さに、佐原は舌打ちしたくなった。

 そうやって、彬の不安定さを受け入れるほどの強さもないくせに、彬の隣にいることを許されていることが腹立たしい。そして、彬の一言で涙を流せるその健全さは、明らかな強みだ。彬みたいな、自分の中の暗みに飲み込まれがちなタイプにとっては、とくに。

 「いいんだよ。健吾は、普通に幸せになるべきだ。地元に戻って、親の仕事継いで、普通にかわいい女と結婚して、子どもとか作って、幸せになるべきなんだ。」

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