マルチ商法
同じ会社で働いているとはいえ、今まで事務員と話すことは、ほとんどなかった。
しかし、講演会が行われるドームまでの一時間、車内での会話は途切れることなく続いた。
講演会への参加費は高額だったが、経済的な成功を志す多くの人たちが集まっていた。
場内はなぜか薄暗く、不穏な空気が漂っていた。
広い会場には椅子がびっしりと並べられており、隣に
多くの人が集まったというのに、場内はやけに静かだった。
講演は、厳かに始まった。
入口の扉は、いつの間にか閉められていた。
壇上で成功者は、巧みな言葉で希望を語る。
「あなたたちも成功者になれますよ、私でさえ成れたのですから」
穏やかに話す成功者の甘い囁きを、聴衆は無言で聞き入っていた。
「今、変わらなかったら一生変われませんよ」
演説は次第に熱を帯び、やがて群衆を煽り始めた。
「今すぐ、電話をして仲間を一人でも多く募るのです」
その一言が会場に新たな緊張感をもたらした。
「ほら、早くしないと先を越されますよ、隣の人はもう始めています」
その言葉に促されるように、わずかだった電話をする声が、会場全体に響き渡るほどになっていった。
恐らく、サクラがいるのだろう。
僕は周りを見渡しながら、電話をするフリをした。
……末端の説明会とはワケが違う。
本気で洗脳しにきていると感じた。
敵が強大すぎる、相手が悪い。
一緒に行った事務員も、同じことを考えていたのだろう。
帰りの車内は、空気が重く、沈黙が続いた。
「告発するのだ」という強い使命感を抱いて。
だが、返ってきたのは「警察は動きませんよ」というあっさりとした言葉だった。
まだ今は、マルチまがい商法とは断定できない、ということらしい。
僕と事務員は、この件から一切手を引いた。
しかし、ひとつ大きな疑問が生まれた。
……先輩も、騙されていたのだろうか。
僕は、学生時代からの腰痛が悪化し、会社もボクシングも辞めて実家に帰ることにした。
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