引っ越し

自動車製造業を辞めたことを、「もったいない」とよく言われた。

当時は僕もそう思っていたし、その言葉を真に受けて心を痛めていた。


今なら「あんなに苦しんだのだから、辞めて良かったんだ」と言ってあげられるのに。

苦しみを経験した人に対して、安易に否定的な言葉を口にするべきではない。

辞めた安心から感情は薄れていたが、苦しんだ記憶は残っているのだ。

もう二度と自分にあんな思いをさせてはいけない。


仕事を辞めてから1ヶ月も経たないうちに、家を追い出された。

「現実は甘くない」とか、「ダラダラするな」と、よく言われた。

他県のボクシングジムに行き、住み込みで鍛えてもらうことにした。

実家からジムまでは250kmほどあるらしい。

今、グーグルマップで調べたから間違いない。


僕は電車の乗り方も知らなかった。

地元の電車には乗れたが、それは北に行くか南に行くか、それだけのものだったからだ。

そんな僕が、まさか250kmも離れた土地へ電車を乗り継いで行くことになるとは思いもよらなかった。

あの時、助けてくれた皆さま、ありがとうございました。


駅を降りてからは、徒歩でジムに向かった。

当時は知らなかったが、駅からジムまでは4kmもあるそうだ……今ならグーグルマップですぐに分かる。

途中、市役所で道を聞き、なんとかボクシングジムに到着することができた。

知らない土地を歩き回り、汗だくの僕は疲れ果てていた。


忘れもしない、8月10日。

この日から、僕はボクシングを始め、フィリピン人トレーナーと同じ部屋で寝起きを共にする日々が始まった。

朝は5時に起きて走り込み、夜は2時間ほど集中してジムワークに取り組んだ。

それ以外の時間は自由だった。

自由と言えば聞こえが良いが、生活費が無いのだから働くほかない。


僕は仕事の探し方も知らなかった。

スーパーに買い物に行った際に、ある求人誌が目に留まった。

なんと、それは無料だったのだ。

どういう仕組みで成り立っているのかは分からないが、これはありがたい。


今後の人生で幾度となくお世話になる、無料求人誌との出会いだった。

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