第24話 【私の文章】『詫びの十字架』

響子が裳抜けの殻の女性になってから、暫く後に突然自宅が人手に渡る為に売りに出されたことを知った。


再び深海に沈んだ魚のように、帳(とばり)が降りても無音の静寂が漂う隣家を暫し見つめながら、もう再び桜木家の隣人で居られなくなってしまった悲哀と驚きで、目の前を濃霧と強雨が同時に視界を遮ったのではないかというぐらいの衝撃に襲われたのだった。



桜木家のもう一方の隣人だった年配の女性なら何か知っているのではないかと思い、意を決してインターホンを鳴らした。


白髪の隙間から、年季の入った穏やかな笑い皺の眼差しがドアを開けた。



老舗和菓子店の抹茶カステラを手渡すと、代わりに回覧板が渡された。


「あの…突然すみません。

紫野道哉と申します。

ほんの心ばかりで申し訳ありません。

お口に合うか分かりませんが、もし良かったら召し上がって下さい。

実は、隣人の桜木さんの御宅のことで何か御存じではないでしょうか。

何か知っていましたら、教えて下さると幸いです。」


すると、絞り出すような声で、

「実は…響子さんが家を出ていってから、御主人の彰一さんが参ってしまわれて、精神病院(メディカルホスピタル)に入院されてしまったということは聞きました。」



突然ピストルの雷鳴に一撃されたのではないかという程に驚愕の事実を知り、目を見開き硬直したのだった。


「そうですか…そんなことが有ったんですか。

あの…すみません。

彰一さんが入院されている機関のことで、何か聞いていらっしゃいませんか?」



暫くすると、自治会長の夫が不在だから詳細は不明だと言いながらも、病院名と電話番号が記された紙を渡してくれた。


受け取りながら、一礼して帰宅のドアを閉めたのだった。


彰一がメディカルホスピタルに入院している…でも、何故?!


海外出張で、響子を湖の畔に孤独の幽閉で、寂しさの淘汰を流させていた張本人だった筈ではないか。


色濃く浮上した疑問符が、淡く影を潜めたかと思えば、直ぐに浮かびを絶え間なく繰り返していた。


翌日、遠方の親戚だと偽り、病院スタッフと医師の許可を貰い、精神病院(メディカルホスピタル)で面会させてもらえることになった。



しかし、忘却の風に飛ばされたかの如く、最早(もはや)、自分の名前も上空へ昇っていってしまった。


男性看護師と錯覚したのか、突然響子との出逢いの経緯(けいい)を語り始めた。



春の嵐が吹く時期に、缶コーヒーが縁結びをしてくれて真実の恋を知り、恋愛とは殆ど無縁だった自分の最愛で剰りにも深過ぎる寵愛をしていたこと、響子をおざなりにして放置していた訳ではなく、海外出張の時間も心底溺愛していたからこそ、家中の音を器機で盗み聞きしていたこと、そして、道哉との背徳の一時(ひととき)を過ごしていた事実も…。


全ての白日(はくじつ)が彰一から語られた瞬間、謝罪の嗚咽を発しながら眼を真っ赤に腫らし、咽び哭(な)いた。


それは、裁かれても永久に釈放を赦されない囚人の心境そのものだった。


翌々日から、花の香水を振り撒いて女装をして、彰一の病室へ入っていく道哉の姿が有った。


缶コーヒーを2本忍ばせたハンドバッグを携えながら。


花の香りが漂う度に、響子が来てくれたと笑顔を満開の花の如く溢れさせる姿に、最初は怪訝な表情を浮かべて近寄って来なかった看護師達も現在では、綻び集う花に成った。


2人で飲む度に、此方を愛しそうに見つめながら、

「なあ、響子!!

この缶コーヒーが縁結びをしてくれたなあ!!」

と、嬉々として歯を見せる姿に、内心で何度も何度も詫び続けた。



それは、道哉が彰一に対して現在行える、せめてもの懺悔(ざんげ)の贖罪と激援の慰めだった。

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