第23話 【T子の文章】『缶コーヒーの縁(えにし)』

それはとても雨の強い日だった。

朝から強風も吹き荒れ、正に春の嵐。


こんな日は早く帰りたい。

でも、現実は残業で、仕事に追われクタクタ。

気付けば家と職場の往復だけの日々を送っていた。



今夜は嵐のせいで、通勤電車のダイヤも乱れ、疲れに拍車が掛かる。

うんざりしながら、駅の自販機に向かった。

眠気覚ましに、缶コーヒーを買おうと思ったのだ。


自販機の前に若い女性の姿があって、その後ろに並んだ。

彼女の細く綺麗な指先が、缶コーヒーのボタンを押した。

瞬間、『売切』の赤いボタンが点灯する。

無意識に、深いため息が出た。

何故なら、缶コーヒー類はそれで全て売り切れになったからだ。


振り返った彼女が、僕を見つめた。

真後ろでため息を吐かれては、良い気分はしないだろう。


ハッとする程の美人だが、彼女も疲れた顔をしていた。

もう深夜、0時近くだ。

同じように残業だったのだろうか。


彼女は再び自販機に向き直り、緑茶のペットボトルのボタンを押した。

そして無言で僕に缶コーヒーを渡すと、去っていった。

驚きながら、彼女の姿を追った。

不思議な事に、彼女は魔法のように消えていた。

でも、手の中にある温もりが、この出来事を現実だと証明してくれている。


僕は有り難く缶コーヒーを飲んだ。

いつもより、数倍も美味しく感じた。

空き缶を持ち帰って、大切に保管した。


いつか彼女に会えたら、お礼にお茶にでも誘おうか。

そもそも彼女に再び会えるのだろうか。


それからは、彼女に会えるかもしれないという淡い期待で、残業も苦にならなくなった。

仕事ぶりが評価され、僕は順調に昇進した。


1年後。

また、あの日のような春の嵐が起きていた。

僕は何かを期待していた。

何かを待っていた。


駅のホームで、幾つもの電車を見送った。

缶コーヒーを2本、手に持っていた。


「今日は、買えたんですね」

背後から掛けられたその声の主が誰なのか、直ぐに分かった。

僕は振り向かず、

「はい、お陰様で」

そう答えると、彼女が消えていないか不安になりながら、ゆっくりと振り返った。


彼女は笑顔で立っていた。

ふわりと甘く優しい花の匂いが鼻を掠める。

「これ、お返しです」

彼女に缶コーヒーを渡すと、

「ありがとうございます。

丁度、買おうと思ったら売り切れでした」

こぼれるような笑顔で、缶コーヒーを受け取った。


ふたりでホームのベンチに座り、缶コーヒーを飲んだ。

これは運命だと思った。

これまで仕事一筋で、色恋沙汰とはほぼ無縁だった僕が、初めて本気の恋に落ちた。


いや、この1年、僕はずっと彼女に恋をしていた。

缶コーヒーを渡されたあの日から、僕は彼女に恋い焦がれていた。


この美しく優しい女性は、『響子』と名乗った。

僕は盲目的に彼女を愛した。

彼女を自分のものにしたい、僕ひとりだけのものにしたい。

その事ばかりを考えて過ごした。


結婚して新居を構えた時、家中に盗聴器を仕掛ける事に、何の躊躇もなかった。

隠しカメラは、その頃、性能が悪かったので諦めた。


それでも、彼女の声や生活音が聴こえるだけで、僕は欲情した。

彼女の全ては僕の手の中にある。

あの日の缶コーヒーのように。



響子が出ていった日を境に、桜木家からは物音がしなくなった。

やがて家が売りに出された。



彰一は、響子の幻影を見ながら幸せだった。

精神病棟の中庭で、いつまでも幸せな思い出に浸っていた。


「嵐が来ますよ。中に入りましょう」

彰一の担当をしている看護師が、声を掛けにきた。

「嵐ですか。

響子と初めて会ったのは、こんな風の強い日でした。

響子というのは……」

幾度も繰り返されてきた話を、看護師は笑顔で聞き流す。

「ええ、ええ。

そのお話はお部屋に戻ってから、ゆっくり聞きますよ。

さあ、行きましょう」


彰一は頷くと、素直に従った。

口元には、穏やかで幸せそうな笑みが広がっていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る