第25話 井伊家の女たち

 遠江国榛原郡大井川城 一色政孝


 永禄3年11月下旬


 海賊狩りが染屋の傭兵護衛団主体で執り行われ始めて数日が経った今日、とある客人たちが大井川城にやってきていた。

 少し多いくらいの護衛らが数人部屋の後方で控えているわけであるが、重要人物だけで言うと3人のみ。

 1人は身体の大きな男。

 1人は尼僧頭巾というものだったかで頭を隠した女。

 そして最後に明らかに顔色の悪い女である。

 正体から言うと唯一の男が鈴木平三郎重好殿。史実で井伊谷三人衆と称された鈴木三郎大夫重時殿を父に持つ者であるが、今回の騒動では親松平派には傾かず、中立派に残っていたとのことである。

 そのおかげで先日勃発した井伊家の騒動で難を逃れたとのこと。

 そして尼僧がかの有名な井伊直虎であるが、現在は次郎法師という名である。すでに世を去った井伊直盛の唯一の子であり、直盛を殺害した井伊直親殿の元許嫁であり、出家した龍泰寺の尼僧でもある。

 そして最後の者が直親殿の正室であり、井伊家親類衆筆頭であった奥山朝利殿を父に持つひよ殿だ。身体を冷やさぬために着込んではいるが、おそらくその腹には子が宿っていると見ている。どこか腹を庇いながら座るさまを見て、そんな気がした。

 そしてもし仮にそれが事実であれば、そして史実通りに話が進むとすれば、腹の子は井伊の赤鬼こと井伊直政である可能性が高い。


「すでに詳細を耳にしておられることでございましょうが、現状の井伊家に平穏はございません。御屋形様の御命により、井伊家家老小野但馬守を中心に騒動の収束を図っておりますが、未だ安心できるような状況ではないのでございます。あの騒動後、数日間引佐郡内にて様子見をしておりましたが、家中の対立が激しく、とても御方様を井伊谷に留められるような状況ではございませんので、あらかじめ取り交していた通り、一色様には御方様の身を守っていただきたく」

「それはもちろん。しかし彦次郎殿のこと、まこと残念でございました。あの男がいた手前、我らはあまり積極的に交流をもったわけではございませんでしたが、良き関係を築くことが出来るとは確信しておりましたのに」


 しかしこの言い方はあまりよろしくなかったやもしれん。

 次郎法師殿の実父を悪者にするようなものである。この中で、この城の中で井伊直盛を敵として認識しているのは大半だ。

 直親殿の嫡子としての立場を蔑ろにした挙句、平和的解決の道を閉ざした直盛。結果として子が生まれる直前に夫を失ったひよ殿。

 おそらく三遠国境の攻防で良き戦果が得られず、菅沼らが井伊谷に寝返り工作が仕掛けられなかったせいか、史実とは違って松平方に組み込めなかった中立派の鈴木家。

 そして誰も口にはしていないものの、桶狭間で俺の父上どころか義元公すらも見捨てて生き延びた直盛を許すことが出来ない家臣たち。

 井伊直盛はこの場において完全なる敵であるのだ。たとえ目の前に実の娘がいたところで、みなの感情が大きく揺れ動くことはないだろう。

 それに俺にとっても現状において重要なのは次郎法師殿よりもひよ殿である。まさにこの大事にもてなすという行動にこそ意味がある。

 なんせ今回やってきた鈴木家の後ろにいるのは、ひよ殿の父親同様に親類衆に属する中野家であるからだ。先ほど重好殿が口にした家中の対立の筆頭がこの中野と、今川家より命じられた小野なのだ。

 だんだんと状況が見えてくるだろう。小野はこの機会に目の上のたんこぶをすべて取り除いたうえで今川家という圧倒的な後ろ盾を頼りにして井伊谷の掌握に動く。これまでの動きを見ても、間違いなくそうすると思われる。俺がひよ殿をしっかりと保護していれば、井伊谷にいる井伊の親類衆やそちら側に属している者たちが俺に感謝するのだ。さすれば後々、その者たちに接近しやすくなる。


「そういえば井伊の大方様も井伊谷から逃れられたようでございますが」

「今は新野様に匿っていただいております。大方様はお立場上、さらに危険なものでございましたので、騒動が起こる数日前には適当な理由をつけて城を出ておられました。最後まで衝突を回避するために奔走しておられましたが、まこと無念であると」


 大方様、つまり直盛の正室は新野家現当主である親矩殿の妹にあたるゆえの逃亡先であったのであろう。

 しかし井伊家は無茶苦茶な騒動に発展した割には、それなりに被害を抑えるために努力していたのだと思わされた。まぁ騒動を期待していた俺が言うのもなんだが。


「そう、か。平三郎殿」

「なんでございましょうか」

「私は当初の約束通り、井伊谷に平穏が戻るまで間違いなくひよ殿をお守りするつもりでございます」

「我が主様もきっと喜んでおられます」

「ゆえに1つだけ。これはそちらから新野家にも伝えていただきたいのですが、小野但馬守だけは何があっても気を許してはなりません。あの男の主は井伊家でありながら、その心はそこにありませんので」

「ご忠告感謝いたします。もちろんそれは」

「もし、井伊家の血筋を迎え入れて井伊谷の復興を目指すと言われても、こちらとしてはその言葉を信じませぬ。外より見て、間違いなく井伊谷が安全であると思うまではひよ殿を、そして」


 俺は1度だけずっと蚊帳の外にあった次郎法師殿に目を向ける。


「次郎法師殿もお連れいたしませんので」

「なっ!?」


 驚いたような声を上げる次郎法師殿。

 しかし重好殿は別の意味で驚いているようであった。その様を見て、ひよ殿はただひたすらに困惑されているだけ。


「それはいったいどういうことでございましょうか!?私の役目はひよ様を無事に大井川城にお連れするため、お傍について気を落ち着かせることを役目として同行いたしました!それが戻れぬとは」

「次郎法師殿は出家されたとしても井伊の唯一の直系でございます。もし子を宿そうものなら、井伊の正当な後継者として厄介な問題に巻き込まれることになりましょう。たとえばそれが小野但馬守の子であれば」

「私は出家した身。もはや誰の元にも嫁ぐつもりは!それに小野はっ!」


 そんな次郎法師殿を、なんとも言えぬ表情で見つめるはひよ殿である。次郎法師殿と直親殿が許嫁であったことは井伊家中の誰もが知る事実であり、直親殿が信濃から井伊谷へ戻ってきたころにはすでに出家していた次郎法師殿に代わる形で親類衆筆頭であった奥山家の姫との婚姻が取り決められたのだ。

 それにより次郎法師殿は婚期を逃すこととなり、以降は龍泰寺の尼僧として近いようで遠くから井伊家を見守り続けてきた。

 ひよ殿にも思うところがあったことであろう。


「強引な手段を使うことだって考えられます。もし仮に先ほど申したことが現実となれば、いよいよ井伊家はあの男に乗っ取られてしまいましょう。それだけは何としても避けなければなりません」

「そ、それはそうですが…」

「…ところで一色様はこの策をご存じだったのでございますか。大井川城に次郎法師様を留めていただくようお願いすることは、我が父と助太夫様しか知らぬ話でございますのに」

「近しい井伊の親族を全て遠ざける様子を見て、そう感じたまでのことでございますよ。それにひよ殿を大井川城に届けることが任であったのであれば、わざわざ尼僧という目立つ存在を傍につける必要は無い。加えてやけに厳重な護衛を伴っていたことからも、危険を承知で同行させたことがわかったので。あぁ、おそらく助太夫殿は井伊の血が利用されることを避けたがっておられるのであろうと」


 まぁ少しばかり栄衆を動かせば、井伊谷で起きていることくらいはサクッと調べることは出来る。

 小野が血眼になって井伊の血族を探していることくらいはな。

 この場にいる2人の女性はまさに対極にあるのだ。小野にとって都合が悪い存在がひよ殿とその腹にある子であり、対して直系ではあるが出家して未婚であるうえに、過去も含めて誰の子も成していない次郎法師殿。

 いくら家中の実権を御屋形様の命で掌握としたとしても、やはり正当な血筋ほどわかりやすいものはないからな。だからどちらも手にしたい。

 片方は殺し、片方は家中掌握の道具として利用するために。


「まぁ駿河より何かしらの駆け引きはあると思っておりますが、安心していただければと伝えてくだされ」

「か、かしこまりました。必ず助太夫様にはそのように」

「それと新野家の方にもよろしくお願いいたします」

「それもお任せください。すぐさま人をやり、一色様と動きを合わせていただくように要請させていただきますので」

「ならば安心でございます。少しでも早い井伊家の実権奪還を願っております」


 あえて俺は奪還という言葉を使った。

 井伊家にとって次なる敵は小野政次であることを、少なくとも一門衆に列する一色家は理解していると伝えるために。

 そしておそらくそれを理解したであろう重好殿を見送った俺は、さっそく2人に城の一室を用意した。

 あまり次郎法師殿は納得がいっていないようであったが、状況が状況であったために侍女がほとんどいないひよ殿の傍に誰かしら信頼できる人物がいるべきであるという爺の説得にようやく納得した様子であった。ひよ殿も安心こそしていたが、やはり夫を失った悲しみ、実父を失った悲しみがそう簡単に癒えるはずもない。

 しばらくは無理のない程度に、この大井川領で心が安らいでくれれば良いのだがな。

 本心からそれを願うばかりである。

 ちなみに同じく夫を失った悲しみを知る母上は、翌日より足しげく2人の部屋を訪ねていた。俺たちが通うよりも幾分もマシなはず。これがより良い結果に結びついてほしいと願うばかりだな。


「ところで殿」

「なんだ、爺」

「先ほどの駿河との駆け引きがあるやもしれぬとの件でございますが、まことに人が寄こされれば如何されるおつもりでございますか」

「御屋形様のことであるからな。俺に対する配慮として、それなりの人選がされると思っている」


 この配慮とは有力者に対して、下手に出るという意味ではない。

 嫌われている一色家に対して敵意を持つ人間を送り込めば、それはもう御屋形様の意以上の態度で接してくること間違いない。

 絶対に御屋形様からの命を達して帰ろうと意気込んでくることが目に見えている。だがそれはすなわち俺が死ぬほど不快な気持ちにさせられるということだ。

 それも理不尽に。

 俺の扱いが、特に駿河衆から悪いことを御屋形様は幼少期より見てこられた。ゆえにそのようなことにならぬ人物を送り込んでこられるはず。かつての弟弟子のために。

 御屋形様を甘い御方だと思うのは、こういった思考が簡単に読めてしまうからだろうかな。


「それなりの人選、でございますか。では予想で誰辺りが寄越されると」

「まぁ順当にいけば源五郎だろうな」

「瀬名家の嫡子殿でございますか」

「あぁ。今川館に居た頃は随分とよく遊んだ仲であるからな」


 ちなみにこれは悪友という意味だ。瀬名家は今川の分家として名高い存在であり、父親の氏俊殿に至っては一門筆頭である。

 そういった事情もあって、源五郎こと瀬名氏詮と仲良くすれば何かと都合がよかったのだ。しかし遠慮などする必要のない氏俊殿にはよく説教を喰らっていたし、お師匠様にもよく𠮟られたものである。


「他に考えられるのは」

「道半殿だ」

「朝比奈家の」

「この辺りは忠実に御屋形様の命に従いながらも、その根底にあるものを読み取ることが出来るゆえ、俺に対して過度なやりようはしてこないだろう。ただまぁこれはあくまで俺の望む人選ではあるが」


 朝比奈道半殿は遠江朝比奈家系の一族であるが、駿河に領地をわずかばかり預かった上で御屋形様の側近衆として今川館に常駐するような形で仕えている。道半殿は先代義元公の死後に出家したのだが、それでも御屋形様からの信頼は今もなお篤い。

 俺に対する当たりなどについて言うならば酷くはない。というか、ほとんど関わりが無い。

 そういった事情もあるゆえに、最有力候補が氏詮になるわけだ。

 駆け引きというのは、おそらく小野から御屋形様に対して何かしらの接触があると踏んでいる。その中に遠江各地に散った井伊の関係者を井伊谷に戻したいという相談が含まれているかもしれないという話。

 すでにその行方は探し始めているであろう。例えば次郎法師殿が在った龍泰寺などは真っ先に小野の手の者が調べに入ったはず。まぁ捜索のための侵入理由などなんとでもつけられるであろうでな。

 そして新野家なんかもすぐに目を付けられるはずだ。行方知れずの井伊の大方様が逃れそうなのは実家である新野家であるからな。

 そうなると残る重要人物2人がどこに行くのか。まさに血眼だ。

 いずれ勘づかれたとき、当然であるが決して2人を見捨てたりはしない。井伊谷を手にするために、この2人だけは何としても守る必要があった。その優先度の話が最初にしたとおりということ。


「まぁ勘づかれぬことが一番であるが」

「尤もでございますな。それに近く別の騒動も起きるやもしれませぬで、井伊にばかり目を向けてもいられますまい」

「天野だな。こちらの助言通りに事が進めばよいが、井伊のような惨状になれば犬居谷は諦めねばならぬやもしれぬ。安芸守一族を煽った時点で、あの者たちを味方につける以外の道は無いも同然だ。俺との接触があったことはいずれ暴かれようで、さすれば宮内右衛門家は俺を敵とみなすであろう」


 もしその展開になるようであれば、栄衆をフル動員して少なくとも俺の独立より前に明らかになることだけは避けなければならない。

 そうでなければ、俺が遠江国をかき回していることがバレてしまう。


「井伊家は当初の想定から随分と外れたが、目的自体は果たせた。天野家に関しては当初の狙い通りに事が進みつつある。あとは期待通りの働きを安芸守殿がやってくれるか次第。あとは曳馬城さえ上手く奪うことが出来れば、領外に関しては完璧ともいえるだろう」

「あとは中のことでございますな」

「この後、主水が領内の状況報告を、彦五郎が海賊狩りの近況報告を持ってくることになっている。それ次第ではことを起こす日が大幅に変わるやもしれぬ。その覚悟を、爺にはしてもらいたい。誰よりも早く」


 誰よりも長く一色家とともに今川家のために尽力してきた爺にだから言っている。もうここまで来て、躊躇うようなことはないと思っているが、それでもだ。

 爺が迷えば家中は割れる。

 割る要因となりうるのは爺か母上かのどちらかだ。だから少なくとも爺には絶対にぶれない覚悟を持ってもらわなければならない。たとえ母上に何か言われようとも、絶対におれない覚悟を。

 酷なことを言っていることは分かっている。それでも今の俺には爺の豊富な知識、圧倒的な経験が必要なのだ。だから絶対にここで爺を失うわけにはいかない。

 いくら恨まれようとも、これだけは決して譲れないものである。

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