第24話 井伊騒動
遠江国榛原郡大井川城 一色政孝
永禄3年11月上旬
織田信清がついに反旗を翻した。
これに呼応するように美濃の一色家(斎藤家)が尾張織田弾正忠家の討伐に乗り出したのだが、時期が時期である。
おそらく信清がタイミングを逸ったために信長の目を方々に散らす必要が出てきてしまった。それゆえ仕方なく一色義龍は稲葉山城より出陣したのであろう。だが経緯と時期も相まって特に衝突という衝突も無く両軍は撤退している。しかし信清の離反によって、尾張北東部の犬山が実質一色方に与したというのは信長にとってどうしたって頭の痛い問題だ。
そういった事情があるゆえ、元康は織田家の力を頼ることが出来なくなったわけである。そしてこれを狙っていたのが御屋形様だ。
おそらく年明けになれば三河への侵攻を計画されるであろう。その三河平定の盾として担ぎ出されるのが曳馬城の飯尾連龍だ。
俺と元泰殿はそういうシナリオを作り上げた。これは今川が企む三河再平定と、美濃一色が企む尾張平定を絡めた、遠江掌握の戦略である。
「一色治部大輔の兵が随分と尾張国境に張り付いたせいで、織田弾正忠は犬山城の攻略に苦戦しているという」
「このまま織田家が滅ぶということは」
「無い。今の美濃にそこまでするだけの力はない。それに俺は織田よりも斎藤の方が気に食わぬ。なぜあの男に一色の名が許されたのだ。公方様の考えが理解できぬ。もし与えるにしても、美濃の守護である土岐が最適であろうに」
「土岐家と一色家では幕府における家格が随分と違いますので。その辺りを意識したのやもしれませぬ。それに治部大輔の母が一色の出身であるという噂もございますので」
爺も気にしていたらしく、随分と詳しい説明付きで話してくれた。
だがそれだとしても納得できない。なんせ実母の話に関しては信ぴょう性が無い。もし仮に一色の出であるというのであれば、先代斎藤道三の妻にそのような者はいなかったはずであるから、道三・義龍に親子関係が無いことになる。
父親殺しの汚名をかぶらないために、一色を騙ったのやもしれぬ。さすれば後ろ指をさされることもなくなると踏んで。
そんなしょうもない考えに一色の名が利用されることが何よりも腹立たしく、これに許可を出した幕府、公方様にも腹が立つ。
現公方様は足利義輝様で、室町幕府13代将軍だ。この世界で永禄の変が起きるかどうかはわからないが、少なくとも俺が生きているうちにそのご尊顔を拝むことは無いと思う。そもそも今の幕府に媚びをうったところで…。であるからな。
「最悪の気分だ。俺に力があれば、二度と一色の名を騙れぬように痛めつけてやるというのに」
「まことに。しかし今はまだこちらが大きく劣っておりますのでな。身が大きくなって、対等な力を得てから討ち果たせばよいではございませぬか」
爺は楽しそうに語る。俺の言葉がすべて現実のものになっているからだと思うのだが、こればっかりは俺よりも先に信長がやってのけるだろう。
というか、そもそも史実通りに行けば義龍は近く病死するはずだ。あとを継ぐのは凡愚と言われた龍興。少数の兵に堅城稲葉山城を奪われた無能中の無能。
そこまでに尾張のいざこざを片付ければ、美濃を獲るのは間違いなく信長になる。俺が一色を騙る盗人を懲らしめる日はこないだろう。
「いったいいつまで我慢しなければならぬのやら」
爺と俺のため息が重なった。
だが言うても相手は美濃一国の大名であり、昨年には御相伴衆に任じられた。現状の差はあまりにも大きい。
早く約束の時が来ればよいと思うが、その間にすべきことはとにかく多い。今すべきことはひたすらに国力を上げ、今後の地盤を作ること。
領内経営の基本が出来れば、あとは土地を広げるごとに同様の手段で治めていけばよいのだ。不測の事態に対応できれば問題はない、はず。その辺りはずぶの素人であるため、あまり好き勝手は言えないのだがな。
「それはまぁよい。どうせ遠き国の話で、三河すら制していない今川にはまだ当分関係の無い話だ。それよりも目下気にすべきことがあろう」
「神高島の海賊退治でございますな。相も変わらず苦戦しておるようでございますが、嬉しき報せもあったようでございますぞ」
「そうらしいな。なんでも染屋の護衛船団の主力が西の商いから戻ってくるそうではないか。その者たちが戻ってくれば、敵など恐れるに足らずとのことだったが」
「彦五郎曰く、その実力は凄まじく、どこの商人もどうにかして護衛を頼めないかと染屋と駆け引きをしているようでございますな。ですが金では決めておらぬようで、最近では随分と過激なやり口で護衛をしてもらおうと画策する商人までいる様子」
それが商人同士の衝突となれば、結局一色家が出張らなくてはならなくなる。しかし商人らがそれぞれ行う具体的な商いの計画やその手法については原則手出し口出しが出来ないのだ。
問題がいよいよ大きくなり、介入するしかなくなる状態まで俺たちは静観しなければならない。だからこそ、どうにか式目に抵触しない形でこの問題を解決したのだが、水軍衆に関しては真っ先に海賊討伐を成してくれねば他の事に手が付けられない。
ゆえに早く討伐してくれと毎日願っているのだが、ついに、ついに光が差した。
俺の悩みの種の1つである染屋の護衛団の主力が大井川港に戻ってくるのだ。そしてすでにその船団との共闘を清善は取り付けているという。商人らが血眼になって護衛を依頼するその実力を水軍衆が目にする機会を得たわけだ。
これはあまりにも大きすぎる仕事であった。
「しかし俺も海賊狩りを見てみたいのだがな」
「殿。このようなことを尋ねるのは大変心苦しいのでございますが、泳げましたかな」
「俺を馬鹿にするのも大概にしろよ、爺。駿河ではこのまま魚になってしまうのではないかと思うほどに泳がされたわ。おかげで水練では敵なしよ」
まぁいたずら・さぼり・逃亡などの罰として寒中水泳をよくさせられたというのが事実であるが、それでも泳ぎが上手いのは事実。
「それは失礼をいたしましたな。しかし海賊狩りの見物は織田弾正忠見物よりも難しい話でございましょう。なんせあの者たちは神出鬼没、いつ現れるかもわからぬ者たちを、領主である殿が船の上で待ち続けることなど到底認められませぬ」
「であろうな。そうだと思ったわ」
そうだと思うのだが、やはり興味はある。
今度染屋に頼んで、水軍の共同演習でもやってみようか。海での戦い方を見物できるうえに、一色水軍も経験が積めて一石二鳥だ。
だが壊れた船の分だけ、また金がかさむことになる。そうなると昌友は認めてくれぬであろうな。
「はぁ。島に行けばそこにいるというのであれば簡単なことであるのにな」
「例の海賊はいくつかの島を根城として、転々としているようでございますでな。今川や北条の目が届かぬ島々に逃げ込まれては、それを追いかけることなど出来ませぬ」
「欲しいな。海を自由に往来するだけの実力を持つ連中が」
「…まさか何が何でも捕縛せよと厳命されたのは。てっきり目の前で憎き海賊の首を刎ねるのかと思うておりましたが」
爺はついに気が付いたようで、わなわなと唇を震わしながら俺を見ていた。
だが結局これが一番戦力増強の近道であり、使える者はなんでも使うの精神である。説得さえできれば、俺の悩みの種は間違いなく1つどころか2つも3つも消えるのだ。多少苦労してでも捕らえるだけの価値はあるだろう。
「まぁそういうことだ。奴らがどの程度の暮らしをしていて、どの程度の規模で活動していて。その辺りもひっくるめて一色家が面倒を見ると言えば、説得の余地はあると思う。加えて足りない水軍衆の人員を確保することにも繋がるわけだ。これほどうまい話が他にあるか?」
「無い、でしょうな。実現できるかどうかはともかく」
「やるんだ。俺はもうそのつもりでいるぞ、爺」
呆れたようなため息を吐く爺をよそ目に、俺は城から見える海を見る。
ここから見えるさらに向こうに俺が待ちわびた水軍戦力がある。決して逃しはしない。
何があっても、一色の家臣として迎え入れてやるからな。
遠江国引佐郡龍泰寺 南渓瑞聞
永禄3年11月上旬
「いったい何をしておられる、彦次郎殿。明日の朝には大井川城へ出立するはずであろうに」
「これまで和尚には大変お世話になりました。ですがこれ以上、迷惑をかけるわけにはまいりませぬので」
「迷惑であると思っているはずが無かろう。それに彦次郎殿に迷惑をかけているのはどう考えてもご当主様じゃ。まずは生き延びることを考えねば」
「いえ。それだけは出来ませぬ。私は井伊家の嫡子として、養父様を止めねばならぬのでございます。このようなこと、あまりにもばかげております。今の松平に与したとて、到底生き残ることが出来るとは思えませぬ。養父様が1人で三河に向かわれるというのであれば、私とて無理に止めたりはいたしませぬが、これは井伊の一族の存亡がかかった大切な決断でございますので、そのお気持ちを静めることが出来るのもまた私だけでございます。それゆえ和尚様に1つお願いがございます」
「…おぬしも誰に似たのか知らぬが頑固なものよな。して願いとは何であろうか」
直親殿が手を叩けば、外の門から籠を背負った者たちが入ってきた。
その者たちもよく見知った井伊の者たちである。屈強な体であることからも、おそらく…。
「中にはひよが入っております。今は気を失っておりますが、すぐに目を覚ますことでございましょう。ひよを連れて右門殿のもとに向かってください」
「子がいるのであろう?」
「えぇ。ひよは我が子を身籠っております。近く生まれるでありましょうから、その子が我が志を継いでくれましょう。私は刺し違えてでも養父様をお止めする覚悟でございますので、もしもの際には右門殿によろしくお伝えください。決して養父様の手にあの子が渡らぬように」
「…まことに、まことにそれで良いのか」
「もう決めたことでございますので」
その顔には死相が見えた気がした。おそらくそのようなこと、直親殿も分かっておられるのであろう。それゆえに儂に生まれてもいない子を託したのである。
道を誤ろうとしている井伊をこの先生き残らせるため、ややこしい問題を全て自身の手で片付けるつもりなのだ。
まだ若く、このまま順調にいけばきっと井伊の一時代を築いたであろうに。…あぁ、なんと勿体ないことか。
「もし生まれてきた子が男の子であれば、名は―――」
「必ずやそのように一色様にお伝えしておこう。…そろそろ城に戻った方がよい。あの者は怪しい動きに敏感であるゆえに」
「かしこまりました。これが今生の別れとならぬことを願っております」
そう言って直親は複数の護衛や家臣とともに寺を去っていった。
その背を見て思わずつぶやく。
「それは儂の言葉であろう。馬鹿者が」
翌日、井伊家で御家騒動が勃発した。暴走する親松平派を親今川派・中立派が襲撃する形で引佐郡全土を巻き込むほどの事態に進展したのだ。
騒動の兆候を感じ取っていた周辺領主らが事態鎮圧のために動くも、たった1日で事態は収束。
井伊家当主、井伊信濃守直盛は養子であり従兄弟でもある井伊彦次郎直親に刺されて死去。嫡子直親もその際に受けた傷が原因で息を引き取った。また直親の後見人として期待されていた親類衆筆頭の奥山因幡守朝利も親松平派家臣に殺害され、井伊谷の井伊支配は完全に崩壊したのであった。
今川家は三遠国境で起きた混乱を早々に収束させるために、井伊家家老の小野但馬守政次にしばらく井伊谷を治め、混乱を収めるように命じた。
そしてこれによって秘密裏に始まる。今川家すら知らぬ井伊の残党狩りが。
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