第23話 天野惣領家

 遠江国榛原郡大井川城 一色政孝


 永禄3年10月中旬


「で、ですので、どうかここは穏便に事を済ませていただきたいのでございます!」

「我が庇護下の商人が被害を受けているので、穏便に済ませることは些か難しいかと。七郎殿も耳にしたことがございましょうが、我が一色家では商人と利を分け合うために保護式目を制定しております。それによれば、何らかの被害を他所で被った場合、可能な限り庇護者である一色家が動いて事態の解決に尽力するとあるわけで」

「それは重々承知の上で。どうかここは我が父の顔に免じてお願いいたします!」


 天野七郎元景殿は必死の形相で頭を下げていた。

 というのも、発端はつい先日御屋形様によって下されたとある裁定にあった。天野家は惣領家が数十年前からころころと変わっていて非常に不安定な状況にあったのだが、現惣領家当主である景泰殿が、当時の惣領家であった宮内右衛門尉家の当主が死に、弱った隙に一気に掌握、惣領家を奪っていたのだ。

 しかしここ近年天野家領内で発生する混乱が景泰殿の不手際によるものであると、宮内右衛門尉家の当主藤秀殿が御屋形様に訴えたのである。結果として事実を突きつけられ、不利な立場にあった景泰殿の失態が御屋形様によって認められた。

 問題はこれによって両家の関係がより一層冷え込んだこと。そしてこれまでの失態が正式に認められ公のものになったことにより、犬居谷の在地被官や領民らが一斉に宮内右衛門尉家に従い始めたわけである。

 それは実際のところ大した問題ではない。よその人間である俺にとってはな。

 しかし別に問題が生じてしまった。

 一色庇護下の商人に、京出身の飛鳥屋という米売りがいるのだが、俺は御屋形様の命に従い、秋葉道から信濃の伊那郡に向けて塩を届けさせていたのだ。そしてその秋葉道は犬居谷を抜ける。

 先日、天野領内の混乱に遭遇した飛鳥屋は領民に理由も無く襲撃されたと報告してきたわけだ。

 元景殿がこうしてやってきたのは、末席ではあるものの今川一門の一角である一色家の積み荷を略奪したも同然である行為を領内の民が行ったことに加え、つい先日惣領家である安芸守家は御屋形様に不手際を指摘されたばかり。これ以上問題ごとを増やしたくないと、表沙汰にしてほしくないという懇願のためにわざわざ一色領に足を運んできたわけである。


「爺は如何思う。これは穏便に済ませてよい事態か?」

「他の家であればそれでも良いでしょうが、一色家の場合は事情が事情でございますでな。ここで我らが我慢すれば、それは庇護下にある商人らの不信感に繋がりましょう」

「俺も同意見だ。主水は如何思う」

「対応の遅れはすでに組合を通じて暮石屋より指摘されております。これでは来年の上納金に影響が出るかと」


 一色家としてはこの問題を秘密裏に処理するつもりはないことをそれとなく元景殿に伝える。そもそも伊那郡が同盟国である武田領内でなかった頃から、秋葉道は塩の道と言われるほどに信濃への塩搬入路として使われていた。

 決して整備された街道ではないものの、草がうっそうと生い茂ったけもの道を進むわけではないことから、商人らは好んでこの道を使っているのだ。

 そしてそれによって生まれる利は、その地を預かる関所の通行代。

 天野家としても、「今は領内が纏まらぬから、別の道を使え!」とは間違っても言えないわけだ。


「で、ですが」

「そもそもそれほどまでに領内は荒れていると?」

「…間違いなく裏で宮内右衛門尉が民や在地被官らを煽っております。それに周辺の同心らも割れました」

「なるほど。随分とことが大きくなっているようで。ならばやはり危険でございますな。秋葉道にこだわるつもりはございませんので、飛鳥屋には別の道を探すよう伝えておきます」

「それは!?」

「命あってこそでございますので。それとも我が領内の民に命を懸けて、犬居谷を抜けよと申されますか?責任が取れるのでございますか?七郎殿に」


 凄んでみたところ、明らかに元景殿は動揺していた。

 まぁそこまでの決定権は無いのであろう。わざわざ惣領家の嫡子を送り込んできたところを見ると、一応景泰殿も誠意を見せようとしたのだと思う。

 だが少々期待外れではあった。もっと建設的な相談でもされるのかと思ったが、元景殿の口から出てくるのは、問題を大事にしてほしくないという言葉だけ。

 俺にとってなんら利が無い。時間の無駄だ。ならばいっそ宮内右衛門尉家を懐柔した方が幾分もマシであろう。そちらは頭が使える男であることは分かっているのだからな。


「せ、責任…」

「飛鳥屋がたたき出す利は、その辺の商人が出せるようなものではございませんのでな。一色領内の食糧事情も一部担い、また京の高貴な方々ともつながりがある。そんな者が仮に天野領内で命を失ったとして、七郎殿は責任が取れるのかと聞いております」


 正直責任を取って腹を切られても困る。その首1つ、加えて景泰殿の首を合わせても価値など無いに等しい。

 失われた命は返ってこないのだからな。


「それは…。できません」

「主水、何か一色・天野双方に利がある策など無いか?」

「私に聞かれても困ります。ただ誠心誠意政に取り組み、多少の工作があったとしても民の心が離れぬように態度を改めて努めるくらいでございましょうか」

「それは本来これまでやってこなければならなかったことである。つまりは当然のこと。爺はどうだ。別の視点から何か言えることは無いか?」

「そうでございますな。強いて言うのであれば、その大元を絶ってしまえばよいかと。安芸守様が庶家に情けなどかけぬ御方であれば、裏でこそこそと動き、惣領家と犬居谷の信頼を失墜させる行為を繰り返す黒幕を叩いてしまうが吉でございましょう。そして同時に駿河へと人をやるのがよいでしょうな。これまで安芸守家がされてきたことと同じことをやってやればよいのです。証拠をつかんでおけば、もし今川館より人が寄こされたとしても、迅速に対応することが出来ましょう。もし足らぬとのことであれば、飛鳥屋を証人として連れていくことも1つ。とにかく宮内右衛門尉家の不正を白日の下に晒すことこそが、安芸守家が変わらず惣領家であり続けるための道であるかと」

「なるほどな。大事になる前に手を下し、その正当性を御屋形様にお伝えするか。よき案であるな」


 ただ問題はこれまでの惣領家争いとは違い、同族殺しという汚名が付きまとうこと。

 どれだけ正当性を主張したところで、あの裁定の後であるから色々勘繰る者はいるだろう。ゆえにこの事件を景泰殿の陰謀だと騒がれることは当然起きうる。それに耐えなければならない。

 そして御屋形様に認めてもらわねばならない。

 さすればそれが事実として今川領内に広まるであろう。そして事態が解決したあかつきには、俺は再び飛鳥屋に命じて秋葉道から塩を信濃に入れる。

 天野家は俺に返しきれない恩が出来るわけだ。そして3年後へと繋がる。


「さて、こちらからある程度の妥協はしよう。だが商人たちは俺の庇護下にあるが、互いに利を分け合う者同士であるから、いつまでも押さえておくことは出来ない。また一色家が天野家のために損をすることもあり得ぬゆえ、いつまでも解決される見込みがないと判断すれば、即座に別の道を探すことになるであろう。さすればもう犬居谷を通ることもない。肝に銘じられよ」

「寛大なお言葉、ありがとうございます!すぐさま戻り、今後の対応について、父上と相談いたします。では、御免!」


 そう言って元景殿は出て行った。


「さてさて。またもや殿の言葉が当たりましたな」

「まぁこれくらいは誰でも予想できるであろう。あの裁定があっても惣領家が入れ替わるようなことにはならない。しかし間違いなく安芸守家の地盤が揺らいでいる。宮内右衛門尉家からすれば、再び惣領家の座に戻る絶好の機会なのだ。最も簡単な方法が民から見限られることであるからな」


 塩を信濃に入れるよう命を受けたのは確かであったが、飛鳥屋には十分に気を付けるようにあらかじめ伝えていた。

 天野領内に限らず、現在の遠江はどこもかしこも不安定である。

 いつ、どこで襲われても、必ず自分たちの命を優先するようにと伝えておいたのだ。それで発生した損は一色家で補填するとも。ゆえに犬居谷での襲撃も、飛鳥屋は大した被害を受けていない。死人も出ておらず、みな無事に領内に帰ってきている。

 また一色家に対する不満も特に出ておらず、暮石屋が組合を通じて不満の声をあげていることも嘘。昌友や爺にそう言えばよいと俺が言っただけだ。


「これで宮内右衛門尉家を排除することが出来れば、天野家は俺に頭が上がらない。お前たちも決して口外せぬようにな」

「かしこまりました」「ははっ」

「あとは曳馬城だけだな。あの男は熱心に密書のやり取りをしてるらしいが、相手が犬猿の仲である主水祐殿であったとしればどのような顔をするのやら」

「泡を吹いて倒れられるやもしれませぬな」


 爺の言葉に昌友が小さく首を振った。


「笑っている場合ではございません。仮に今年中に戦ともなれば、貯えが非常に厳しくなります。銭は元より、米の貯えが厳しいことは先日の三河での戦から何の解消もされておりません。今年の徴税を急ぎ行いませんと」

「だが今年は特に民の負担が大きかったゆえな。あまり無理をさせたくないことも事実」


 正直大量の流民を受け入れるにあたって、大工やらなんやらととにかく人手が足りなかったのだ。

 そこで日払い制で民を雇って、流民の仮宿になっている宿場やら寺の手伝いであったり、大工らの手伝いであったりをさせていた。

 米の刈り入れ時も重なり、その負担は計り知れなかったであろう。金をばらまいたのがよかったが、結局今年のまずい懐事情に拍車をかける形となったのだ。

 昌友が苦虫を噛み潰したような表情で、予算を組みなおしていた時の顔はあと何年かは忘れられないだろう。だがこういった臨機応変な予算の組みなおしが出来るのは、それだけ一色家が豊かであることの証明でもあった。


「今年はあの方法も使えぬため、米の徴税は例年通り農地奉行であろう藤次郎殿を中心に行われる予定でございましたが」

「ずっと皆が忙しくしていたゆえ仕方あるまいな。最悪の場合は飛鳥屋やその下についている米商人を頼るとしよう」

「…また予定外の支出でございますか」

「仕方あるまい。今年を乗り切れば、おそらく来年は落ち着くはず」

「そう願うばかりでございます」


 昌友の大きなため息に、爺も何も言えていなかった。

 父上の代から何年も政を全て受け持ってきた一色家の宰相である。苦労が絶えないことは、一色家の誰もが知っている。最近は今年3つになる嫡子、亀吉にも会えていないとぼやいているところも目撃した。

 人前で不満は溢さないが、やはり1人に背負わせるのは大変であろう。誰かもう1人、せめてもう1人。昌友の才についていける者がいてくれれば良いのだがな。


「そういえば曳馬で思い出しましたが、三遠国境で動きがございましたな」

「あぁ、蔵人佐がさっそく設楽郡の掌握に動き始めた。反発はあったようだが、最も影響力の強い西郷家から娘を側室として迎え入れることで、両家の関係を強めたようだな」


 さすがに元康もこれ以上の戦は厳しいとみたようだ。穏便に、兵を起こす必要が無い手段を慎重に選んで三河の掌握に動いている。

 やはりというべきか、設楽郡には高力清長が入ったとのこと。まぁ一部からは慕われているからな。一部、というか1人からは尋常でなく恨まれているらしいが。


「嫁と言えば、織田弾正忠家から娘をとるようでございますな。これで松平の背中は織田弾正忠に守られた状況となりました。…殿、今からでも」

「もう引き返せん。すでに俺の計画に多くの者が乗って動き始めているのだ。井伊・天野・松平・孕石、そしてそのために犠牲となるであろう者たちも大勢いる。もはや引き返せないところまで来た」


 まだ桶狭間から4か月ほどしか経っていない。それでも準備は着々と進んでいる。


「そう、でございますな」

「ところでその時が来て、仮に上手くいったとしよう」

「必ずうまくいきますぞ。殿の言葉はすべて現実のものとなっておりますからな」

「すべてが上手くいくかどうかなどわからぬぞ、爺。まぁ上手くいったとして、蔵人佐と良好な関係を築けたとき、俺とともに尾張へ行かぬか?」

「…尾張、でございますか。まさか首を獲りに」

「そのようなはずが無かろう。ただの見物だ」

「け、見物…」

「そうだ。ここまで今川を痛めつけた男がいったいどのような者なのか。俺たちはそもそもあの場におらず、織田弾正忠の顔すらも知らぬ。人となりも人伝手でしか聞いたことが無い。果たして噂通りのうつけなのか、非常に興味がわかぬか」

「…政文様の仇でございますぞ」

「戦場での出来事だ。内心どう思っていようとも、どこかで感情を抑え込む時が来る」


 俺にとって父上の存在はその程度だったのかもしれない。明らかに今川館で過ごした時間が長く、傍にあり続けてくださったのはお師匠様であった。

 むしろお師匠様が亡くなられたとき方が、空虚な気分にさせられたような気がする。

 もちろん父上の死がまったく俺のメンタルに影響しなかったかと言われればそのようなはずも無いのだが、思い入れの差であろうかな。こればっかりは人の心が無いのかと罵られても、仕方がないだろうとしか思わない。


「それに蔵人佐は俺と手を結べば、そのまま付き従うしかなくなる。織田弾正忠家との縁談を断らぬ限りは」

「そのようなこと、きっと出来ないでしょう」

「主水の言うとおりだ。俺が動き出さなければ蔵人佐は東海三国を狙う算段を立てていたはず。俺の離反を聞いてどうすべきか迷ったであろうな」


 俺と手を結ばなければ、実姉の扱いに関して随分と難しいものになる。少しでも嫁ぎ先を間違えれば、実姉を慕う連中が暴走しかねない。とんでもない爆弾を抱えた状態だ。

 しかし手を結べば、同盟国である織田と一色の間に挟まれてしまう。つまり外に問題を抱えるのか、それとも内に問題を抱えるのかだけのところで、元康は最初から詰んでいた。そして出した答えが俺の手を取ることであった。まぁどう考えても今はそうするしかない。元康が俺を見限らない限り、俺は元康を重用し続けるであろうしな。

 互いに利しか無い。ただそれを受け入れられるかどうか、元康が家中の不満を抑え込むことが出来るかどうか。結局はそこにかかっている。

 俺が信長に接触しようとしているのもその辺りが関係していた。いずれにしても今川・武田・北条と戦う上で背中は守られていなければならない。元康が頼りにならない場合、俺も家中をどうにかまとめ上げて信長と同盟を築いておきたい。史実通りのようにことが進むのであれば、正直これが最適解であると言わざるを得ないのだ。

 たとえ爺が、佐助が、道房が、母上や他の誰かが反対の声を上げたとしても。


「爺、これはもう決めたことだ。もし同行できぬというのであれば、城に残ってくれてよい。だが俺は爺にも見てもらいたい。この先、俺が誰を信用すべきであるのか。すでに蔵人佐の現在を見た爺にな」


 ついでに名前を聞いただけで出てくる拒絶反応もどうにかしてもらいたい。それはまだ当分難しいであろうがな。

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