第22話 一色家と松平家
三河国額田郡岡崎城 松平元康
永禄3年10月上旬
「殿、まことに一色の言うとおりに動くおつもりでございますか」
「仕方あるまい。我らは勝ったようで負けたのだ。本来であればあの一撃をもってして、三河の大半を獲らねばならなかった。そうでなければ今川は再び大国として力を取り戻してしまうからである。今であれば決して一枚岩ではないと踏んでおったが、やはり長らく義元公のお傍にあって、東海一の大名を支えてきた者たちは手ごわかった。そのようなことはよく知っていたはずなのだがな」
三河の中央辺りは松平が制した。これにて完全に西三河は掌握したと言えるであろう。一方で三遠国境と渥美郡に関してはまったく喜ぶことが出来るような状態ではない。
渥美郡は同調していた者たちが大方敗走しており、支援のために海路より上陸してくださった生駒殿らも大きな被害を出しながら尾張へと戻られている。これが最も痛い失態であったと言えるであろう。
織田弾正忠家。いや、信長様から見てこの体たらくはきっと先々を不安にさせたに違いない。近く婚姻による同盟により強固な関係を築くことを約束してくださったのがせめてもの救いであった。加えて民の不満が溜まり始めており、じきにその不満が爆発する予兆があるとの報せも届き、不本意ながらも休戦の提案をするに至ったわけである。
それから数十日が経ったある日、岡崎城に侵入者ありと騒ぎが起きた。その侵入者が持っていた密書こそが、一色政孝様からのものであったということ。
そしてこれがまた家中を割ることとなった。
「ですがこれでは主が不在な状態の従属でございます。それもまだ家督を継いだばかりの若造に」
「口が過ぎますぞ、平八郎殿。いくら相手が敵であるとはいえ、一色様は殿の師兄にあたる御方。それに」
「ならば弥八郎殿はようやく殿が手に入れられた独立という道を再び潰すことに賛成であると、そう申しているのだな」
「そうではございませぬ。ただ一色様の言葉も最もであると。それに時が来れば、遠江を背負ってやってこられるのでございましょう?今の三河の民は困窮に困窮を重ねて、戦などに駆り出している場合ではございませぬ。戦をせずに領地が増えるのであれば、それすなわち殿の利でございましょう」
根っからの武闘派である忠勝と、内政家である正信の関係は悪い。傍から見ている限りでは正信の方が正論なのだが、どうにも正信には政が苦手な者を見下すことがある。
それゆえに忠勝に限らず、松平家中にある武闘派とは非常に関係が悪いのだ。
また内政に聡い忠次とも、その方針の違いからか関係は冷え込んでいる。これに関してはどちらも正しいことを言っているように見えるのだが、より理解の深い者同士では馬が合わぬとのこと。これを取り持つのが忠吉であったり、数正であったりするのだが、あいにく今は城におらぬゆえ静かになるのをそっと待つしかないのだ。
情けない話であるが、私がどちらかに加担することは今はまだ避けねばならぬ。
「と、ところで殿」
「如何した、四郎左衛門」
「まことに西郷から側室を取られるのでございますか」
「その話は何度もしたとおりである。八名郡の有力者である西郷が松平の庇護下に収まれば、それだけで再び三遠国境に手出しがしやすくなる。与左衛門に向かわせてはいるものの、何の手土産も無ければあやつらも従えぬであろうで」
「殿がそこまでする必要があったのでございますか。我らが稼いだ軍功によって、あの者たちの人質が一部であるものの戻ったのでございます。にも関わらず、礼も尽くさぬ、頭も下げぬ。感謝の使者すら寄越してきておりませぬ。なにゆえそのような者たちの機嫌を殿がとらねばならぬのでございますか。我らに命じてくだされば、すぐにでも出陣し、そしてあっという間に両郡を殿のものにいたしましたのに」
「たしかにあれだけ痛手を負った者たちを攻めることは容易である。もちろん民の心に寄り添う必要はあるが。しかしまことにそれで三河を治めることが出来るであろうか。この地は長らく東海の戦の中心となりすぎておった。親今川、親織田、そして新松平。これらの勢力が複雑に絡み合っている現状、我らが武を以て三河を獲ろうとすれば、必ずどこかで強い反発が起こるであろう。我らはあくまで三河の解放者であるという立ち位置を維持し続けねばならぬ。三遠国境で勝手をした挙句、嫡子を失って撤退した西郷をせめることは容易だが、それではこの建前を維持できぬゆえな」
「そうなると結局一色様の要請通りになってしまいます」
この忠広の言葉に再び火がついてしまうのが忠勝である。
おそらく忠広に悪気はなかったはずなのだが、どの話をしたところで結論として政孝様に結びついてしまうのだ。
ゆえにいつまでたっても、忠勝と正信がいがみ合っておる。
しまったと顔を真っ青にする忠広を他所に、正成と忠次は熱心に密書を見返していた。
「しかし殿、一色様はこれほどまでに先を見通す力がおありでございましたでしょうか」
「いや。少なくとも私が知る限りはそのような御方ではなかったはずである。いつも師に怒られておったゆえ。しかしやけに算術と弓術だけは優れておったな。剣術の腕はさっぱりであると、いつも師やその周囲の方々に呆れられていたが」
「そうなると本当のお姿を隠しておられたのやもしれませぬな。離反を打ち明けられたとき、あれだけの地位を有しておきながら血迷われたのかとも思いましたが」
「うむ。私も同感である。ゆえにいくら同じ立場になろうとも、手を結ぶべきではないと心のどこかで思っておったのだがな。此度が初陣でありながら、西郷の息の根を止めたこと。背後を襲わせる手筈となっていた戸田の離反に気づいての撃退。そして知らぬ間に手にしていた種子島の存在」
「大井川領には東海で最も栄えた港がございます。また代々続けてきた商人優遇策も重なり、その財は小さな大名家に匹敵するほどと言われております。種子島に限らず、今後一色家は大きく飛躍するやもしれませぬな」
忠次の言葉に、青筋を立てて反応したのはやはり忠勝であった。
今の発言は、政孝様を受け入れるものと捉えられるゆえのことである。しかし忠次は当初より肯定的な立場にあった。
尤もそれは、姉上様を松平家より追い出すことを目的としたものであり、その相手として政孝様が相応しいと考えているだけなのだがな。
残念なことに忠勝はその事情を知らぬ。おそらくそういった派閥が松平家中に存在していることも知らぬのではないだろうか。知っていれば間違いなく考えを改めるよう、直接乗り込むであろうから。
「そこまで言われるのであれば、ここにいる皆様方にぜひとも問いたい!もしこの先、仮に一色…、様が上手く遠江を掌握したとして、殿と道を歩まれたとして、織田弾正忠様と手を結んだ殿はどう動くべきであると考えているのか。当然この問題を考えたうえでの発言であると捉えさせていただくが」
そう。これが政孝様との共闘を嫌う者たちの言い分であった。
すでに信長様との同盟は決まった話であり、我らは背後を互いに守り合うことを共闘と位置付けた。
しかし東におられる政孝様とも同盟を結べば、我らは三河に閉じ込められることなってしまう。ようやく手にした独立ではあるが、ただ独立しただけで松平は終わってしまう。よくて三河一国、悪くて西三河のみ。
武闘派はただ戦いたいだけではなく、ひたすらに私を大きな存在へと押し上げたいのだ。それゆえに政孝様との同盟に異議を唱えている。
「強き者に従うのが乱世の掟。殿が圧倒的な強者であった今川からの支配を逃れられたのは、今川という存在が頂点から転がり落ちたからでございます」
「小五郎殿の言われる通り。もし仮に殿と一色様が同じものを見て歩まれるのであれば、より強い力を持っている方に従うべきでございましょう。我らが守るべきは松平という家であり、松平という大名ではございませんのでな。もちろん我らは殿を大名とするために集い、そして戦う覚悟は今も持っておりますが」
「半蔵殿までそちらに味方するか!」
「味方ではございませぬぞ、平八郎殿。ただもし力が劣るときは、与した方がよいというだけの話。殿と一色様の間柄であれば、そこに障害はないでしょうからな。ですが我ら家臣一同は一色様を配下に置くために、三河を栄えさせます。その努力をいたします。そのうえでどうなるか。それは誰にもわかりませぬ」
正成の言葉は非常にわかりやすいものであり、これでは忠勝も口を閉ざすしかない。それに実際その通りであるのだ。
私の当初の目的は松平が失いし岡崎の地へ戻ること。あのままでは岡崎への帰還を餌に今川家の使い捨てとされていたであろうから、これだけは絶対に果たすべきことであったのだ。
一方で国持の大名になれるのかと言われれば、現状を見れば相当に難しいと言えるであろう。少なくとも今川の背後を預かる2つの大名家が手切れでもしなければ、結局我らは三河に閉じ込められるのだ。閉じ込める相手が友好的な政孝様であるのか、裏切り者に死をと殺気立つ今川かの違いだけである。
たとえ三国同盟に亀裂が入ったとしても、武田や北条といった大国相手にどこまで出来るかなど一切わからぬ。ゆえに力のある者に従い、より強い勢力を以て相手となるのが正しい考えなのだ。
しかし岡崎の地を取り戻してから、すぐさま三河の掌握に動いたために、この辺りの私の考えが皆に知れ渡っていなかったことがそもそもの問題である。
忠勝のそれも勘違いから来ているものであるから、こうして家中で言い争いが絶えぬ。特にここ最近は。
「ならば私が頭を下げましょうか、次郎三郎殿」
「あ、姉上様!?なにゆえこのような場所に」
「何故も何も。あのように隠すつもりも無いような大声で騒いでいては、遠くにいても耳に届きます。そういった重要な話は誰の耳にも届かぬようにひっそりとするべきでしょう」
姉上様の言葉に誰もが忠勝を見た。
忠勝は忠勝で姉上様には頭が上がらぬゆえ、顔を真っ赤にして下を向いている。あれは反省でもしているのであろうか。
「と、ところで先ほどの話でございますが」
「いくら追い出されるように仕組まれていたとしても、あなたは私にとって唯一の血縁者なのです。嫁ぎ先で何もせず、あなたが苦労する様など見たくはありません。私が一色様に頭を下げてあなたが救われるというのであれば、いくらでも頭を下げる覚悟があります。この話にあなたが乗り気であることを知ったときからずっと」
「それは誤解でございます!」
「誤解なのですか?私のことが邪魔で仕方がないと思っているのではありませんか?」
誰も口をはさめぬのは、父上からの寵愛を姉上様が受けていたからである。それはもう、嫡子である私以上に。
私とて姉上様とこのような関係を築きたかったわけではないのだ。ただこうしなければ、私とともに危険を冒してくれた者たちに申し訳がたたぬゆえに…。
いや、きっとこれは家臣らの忠義を盾に、姉上様を切るという選択をした都合の良い言い訳なのであろう。
あの縁談が政孝様によって掘り返されたとき、正直安堵の息を吐いた。姉上様を自らの手でどうこうするという事態にならなかったと。
しかし姉上様はやはり私の心内など知っておられたようである。言葉尻に棘があるように思えるのは、私がこの先姉上様の決定で迷わぬためにであろう。
「私が一色様の子を生めば、あの御方のことですからきっと私を蔑ろになど出来ぬことでございましょう。さすれば三河も遠江も」
「姫様、それは誤解でございます」
このような冷え切った空気の中、唯一口を開いたのは忠次であった。
姉上様もまさか声を上げる者がいるとは思わなかったのか、ゆったりとした動作ではあったが、静かに忠次へと視線を移した。
「誤解?いったい何が誤解であると」
「一色様はたしかにこれまであまり良い評判を聞きませんでした。殿の師でもある太原宗孚様には何度も叱られ、かつて近習として御屋形様のお傍にあったときも役割を全うできずに亡き山城守様に大勢の目がある前で殴り飛ばされたりもいたしました。ですがここ最近になって評価が一転しております」
「一色家には鬼氷上と呼ばれる老将がいるはずです。その者の手柄ということはないのですか。傀儡に過ぎず、ただ家臣らの行動を真似ているだけということは」
「ならばその目で確かめられますか」
「…どういう」
「私がお二人が顔を合わせられる機会を必ず用意いたします。その時に見極めてくださればよいかと。さすれば姫様がすべきことも見えてくるのではないでしょうか」
「…次郎三郎殿の考えはどうでしょうか」
「もしそのような場を用意できるのであれば、それは願っても無い話。ぜひとも右門様と顔を合わせるべきでございましょう。あの御方からは何か底知れぬものを感じ取れますので」
しかしそうは言っても難しいであろう。
あちらはあと3年大人しくしていると申しておった。どちらかがどちらかの領内に入れば、すぐ噂になってしまうであろう。
「この小五郎に全てお任せを」
果たして忠次の策は上手くいくのであろうかな。
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