遠江掌握
第21話 井伊家の嫡子
遠江国榛原郡大井川城 一色政孝
永禄3年9月下旬
「ついに井伊が混乱状態に陥りましたか」
「すべては右門殿の狙い通りでございます。いやはや、今代の当主様は先見の明があるともっぱら話題でございましたが、まさかここまで当ててしまわれるとは」
「それで豊春様のもとにはなんと?」
「父の頃にあった親交を頼りに、今一度彦次郎殿の身を匿ってもらいたいと。信濃守様はしきりに今川に戻るよう訴える彦次郎殿が邪魔で仕方ないようでございますな。城内で顔を合わせるたびに険悪な雰囲気となっているようで。しかし今回は命の危険が迫ったところで信濃に逃せられません。それこそ意図せず武田への内通を疑われてしまいます」
「そこで同じく臨済宗の寺であり、かつて親交のあった大伯父上を頼って縁東寺に人が寄こされたわけでございますね」
「あいにく父は旅に出ており不在でございましたが、急ぎの用であるとのことで私が用件を伺いました。とても独断で決めてよさそうなものではございませんでしたので、こうして足を運んだ次第でございます」
目の前に姿勢よく座るのは、俺にとって従伯父にあたる豊春様だ。一色の菩提寺である縁東寺の住職であられ、この御方のお父上は幼くして一色家を継いだ父上の後見役でもあった豊岳様である。
今は弟子らとともに旅に出ておられるのだが、たまに戻ってきては全国各地の土産話をしてくださるのだ。これが意外と重要な話も多く、戻ってこられた際には盛大に出迎えるのが慣習となっている。
それはさておき、本日住職である豊春様が自ら城にやってこられたのは、井伊谷の情勢に動きがあったからであった。
俺が栄衆を動員して流していた噂がいい感じで作用し始めている。すでに井伊家中では親今川・現状維持を掲げる派と今川離反派で分裂状態にあり、当主直盛は離反派を率い、嫡子直親殿は今のところ親今川派・現状維持派を率いて真っ向から対立中であった。ちなみに今川によい顔がしたい小野政次は直親殿側に当然ながらついている。
しかし状況で言えば親今川派は劣勢だ。三河では三遠国境こそ手放したものの、大方松平の勝利という形で終わっており、明らかに今川の力が弱まっていることを示していた。
加えて井伊谷の傍にある犬居谷では天野家を巡る御屋形様の裁定に、天野家の一部から不満の声が上がっている。おかげで求心力も低下中。
さらに言えば吉良家の東条・西条統合を認めたうえで、元康に与する吉良義安が当主となったことが決め手となり、もはや今川に力が無いのだと信じてやまない者が続出している。直盛が裏切ろうと動き出すのも時間の問題だ。だが動き出す前にもうひと悶着欲しい。
井伊家を間違いなく手中に収めるために、もう少し問題を大きくしてもらわなければな。
「南渓和尚からの要請、如何いたしましょうかな」
「もちろん受けてくだされ。このまま信濃守と井伊家家老小野丹波の対立へと問題を入れ替えてしまいましょう」
政次が生き残れば、井伊への手出しが難しくなる。直盛が政次を殺害、あるいは口封じをしてくれれば今川による井伊討伐の口実を作ることが出来る。あるいは史実の直親殿と同様に、弁明のために今川館に向かう道中に殺害するか。
どちらにしても直盛は今川で生きていけなくなる。なぜならば御屋形様は直盛よりも政次を信頼しているゆえに。
そして井伊家の当主が不在となったタイミングで直親殿をお返しすれば、直親殿を慕う家臣らが新たな井伊家を盛り立てていくであろう。このゴタゴタの間に直親殿を懐柔する。加えて井伊家の有力一門も煽る。井伊家を操る者がいなくなれば、ある程度は融通が利くであろうからな。
「出来れば南渓和尚にはこの問題に不介入であって頂きたいところでございますが」
「それは難しいかと。すでに片足を突っ込んだ状態であると聞いております」
「もう、でございますか。相変わらず井伊の問題を見過ごすことが出来ぬ御方でございます。しかしそうなると龍泰寺に匿われている方々が危険でございますな。急ぎその話を進めてくだされ」
「かしこまりました。ではあちらにはそのように返事をいたしましょう。…ところでこの話、まことに父上にお伝えせずともよいのでございますか。その…。言ってしまえば御家の一大事でございますが」
「伝達する者がどこかでこぼす危険がございます。それに長年苦労した大伯父上が、日ノ本行脚の旅で気分を晴らしておられますのに、それを邪魔することも悪いかと思いまして」
少なくとも長年影より一色家を守ってきた大伯父上であれば、飛んで戻ってこられるであろう。
そしてなんなら俺たちが挙兵した際には、ともに武器を持って戦おうとされるやもしれん。いくらなんでも80迫る老体に無理はさせられぬゆえに知らせていないのだ。
伝えるとしても、それは広く一色家の離反が知れ渡ったときでよい。
「果たして何と言われるやら」
「1発くらいであれば殴られる用意をしておりますので。もし飛んで戻られでもすれば、俺が城で左頬を差し出して待っているとお伝えください」
「…よいのでございますね?」
「えぇ。それくらいの覚悟はしておりましたとも」
そもそも一色家の今川臣従を押し進められたのは、俺の祖父である政国様とその弟であった豊岳様(当時は一色義政)であった。大伯父上の討ち死にを受けて、これ以上の抵抗は出来ないと迅速に家中を取りまとめて降伏したのだ。
その際に現在の領地を安堵していただくように交渉したのが豊岳様や氷上の先代当主であったという。以降は祖父をよく補佐されていたとのことであるが、父上が幼いころに病で他界。後見人として父上が元服を果たすまで傍についておられ、後に今川での地位が安定したことで出家されたのだ。
人生をかけて今川と一色の間を取り持たれた豊岳様であるから、今回の俺の判断を親不孝、祖父不幸だとお怒りになられたとしても不思議ではない。
殴られる覚悟はこの経緯を知っていたからこそ、ずっと心の中で準備していた。
「ですがあの父上でございますので、もしかすると喜んで戻ってくるやもしれませぬ。土産の1つや2つ持って」
「あり得る話でございますが、どちらにしても伝えるべきは今ではございません。やはり情報が漏れることが一番俺の恐れていることでございますので」
「まぁそれは当然でございましょうな。我が倅らも知らぬ話でございますので」
いずれ縁東寺を継ぐことになるであろう者たちですら知らぬ話。それを1人の弟子に託して、どこぞにおられる大伯父上のもとに向かわせるのは危険極まりない。
残念な話であるが、大伯父上がこの計画を知るのは全てが終わった後になるだろう。果たしてその時に俺が生きているかはわからぬがな。
「それともう1つ。豊春様に礼を言わねばならぬことを思い出しました。行く当てのない流民の保護を積極的に行っていただいて感謝いたします。現在領内の大工総出で家を建てておりますので、もう少し場所をお貸しいただきたいのでございますが」
「いえいえ。せっかく領内が潤う下地が出来ているというのに、みすみすそれを見逃すことはあり得ぬ話。幸いにも寺にはいくつか人が住めるほどの広さがある施設がございますので、よからぬことを起こさぬ限りはこれからも一時的な宿としてお使いくだされ」
「礼はこの問題が落ち着いたころにさせていただきます。必ず」
おかげで行く当てのない流民が飢えることも、他の地に流れることもなくなっている。また一色家の金を払って、東海屋が経営する宿にも宿泊させている。もちろんここでも暴れるような者はたたき出しているが、今のところ順調に移住が進んでいるためかそういったもめ事は起きていない。
衣食住の内、食と住が確保されているからであろうな。同じように流民を取り入れようとして、逆に民の不興を買った方々は付近に大勢いることを思えば、俺たちは相当に上手くやれている方だと思う。本当に問題は水軍衆のことだけだと改めて頭が痛くなった。
「まことにそのような気遣いはよいのですが…。唯一私が望むことと言えば、すべてのことが落ち着けばご先祖様方に挨拶に来ていただければそれで満足でございます」
「まことに欲がございませんな」
「僧でございますので。物欲は俗世に置いてまいりました」
そう言って手を合わせて頭を下げる豊春様。俺も頭を下げて礼儀を尽くした。
「では寺に人を待たせておりますので、私はそろそろ」
「はい。またお越しください」
外には栄衆がいるだけであるが、庭の向こう側にある廊下を歩く近習長福の姿を見つけた。長福は尾野家の嫡子で、現在いる近習の中では最年長である。近く元服することも決まっており、その際には道房の傍につけて立派な将となってもらう予定である。
「長福!」
『ははっ!すぐに参ります!!』
俺に呼ばれたばかりであったが、素早い動きで手に持っていた荷を何処かにしまって部屋へと駆け寄ってくる。
「豊春様がお帰りである。縁東寺まで五郎丸とともに供をせよ」
「かしこまりました!すぐに五郎丸を呼んでまいります」
五郎丸は小山家房の長子。家房とは違って文官向きの利発な者であるが、将来は水軍衆の一員になることが求められていた。しかし本人はあまり乗り気でないらしい。
なぜならば泳ぎが壊滅的に苦手であるからだ。一方で弟の二郎丸は随分と泳ぎが上手く、またバランス感覚があるのか不安定な場所での弓術も得意としている。まだ10にもならないが、将来は水軍指揮官になるとはっきり明言しているほどだ。
だからか余計に五郎丸は家房に期待されていることが嫌であるらしい。そこでこっそりと約束しておいてやった。
弟が元服するまで水軍衆として頑張れば、以降は弟を家房の補佐とする代わりに昌友の傍に置いてやると。すると多少元気が出たのか、最近は苦手な水練も頑張っているようだ。こうでもしないと人手が足りていないのだから、どうにも頭の痛い話である。
「ではまた。次に来るときは客人を連れてまいりますので」
「えぇ。お待ちしております」
豊春様は部屋を後にされ、長福らも共に出ていく。
残された俺は随分と静かになった部屋を見渡し、そして静かに立ち上がる。
「海でも見てくるか」
少なくとも大井川港から見える範囲は海賊の攻撃にさらされていない。幼いころから見ている景色は、これから俺がどうすべきかをゆっくりと考えさせてくれる絶好の場所である。
今の俺は決して道を見失っているわけではないが、着実に一歩ずつ計画が進むさまを見て落ち着きたいとは思っていた。昂ぶる気持ちを押さえて、次なる手を冷静に打たなければならない。
狙いは松平か、天野か、はたまた飯尾か。
とにかく遠江の今川色を崩したいところだな。さてさて、どこが有効であろうかな。
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