第20話 捗る領内強化政策

 遠江国榛原郡大井川城 一色政孝


 永禄3年9月上旬


 結論から言うと、三河における休戦協定はやはり元康有利に締結された。

 まず真っ先に話し合われたのが捕虜の交換である。

 こちらは鵜殿・吉良・牧野・山田らの返還を求め、一方で元康は渥美半島の松平勢力の返還を求めた。

 これについては迅速に取りまとめられたのだが、ここからが本題だ。

 元康は基本的に落とした城全ての領有を主張。だがそれを認めると交渉役に任じられた氏俊殿としては立つ瀬がない。

 そこでいくつかの城や土地の返還条件として、現在今川領内にある松平方の人質を無傷で返還することを提案した。もちろんすでに大多数が見せしめという形で処刑されているが、元康の一連の流れが速すぎたために未だ処刑を待つ人質らは幾人かあったわけである。

 それの返還を提案したのだ。これを承諾した元康は宝飯郡東部と八名郡からの撤退を約束した。やや大盤振る舞いに見える譲歩ではあったが、実は別の条件を御屋形様が承諾するなら完全に兵を退くと付け加えたのだ。

 八名郡に関しては松平がどうこうできる範疇に無いが、おそらくあの体たらくが伝わったのであろう。元康自らが派遣した高力清長を蔑ろにしたことがな。

 上乗せされた条件についてであるが、これはいたって単純なもの。東条・西条に割れていた吉良家の扱いについて、元康に与した吉良義安を正当な後継者として両家を統一するというもの。

 つまり捕虜とされたものの、この休戦協定で身柄が渡されることになった吉良義昭殿は全てを奪われるということである。しかしこれに頷かねば、依然として三遠国境は危険なままだ。

 氏俊殿はなんとしてでも御屋形様を説得するということで、松平は対象地域から完全に兵を退いた。義昭殿は死んだほうがましだと喚いたそうだが、御屋形様が地位の回復を涙ながらに訴えたためにとりあえずは大人しくしているとのこと。

 最後に、俺たちの背中を襲った戸田宣光であるが依然として行方不明だ。もしかするとまだ今川領内に潜伏しているかもしれぬし、海に逃れて織田や松平を頼った可能性もある。だがもう良いだろう。

 そんな三河の動乱を終えた俺は城に戻り、急ぎ国力の増加に取り組んでいた。当初計画していた諸々に着手したわけである。


「―――殿、殿!」

「…主水か、いつからそこにいたのだろう?」

「ずっと前からここにおりました。四半時ほどでございましょうか」

「そんなにここにいたのか!?まったく気が付かなかった…。いや、そもそも時間には限りがあるのだから、用があるなら揺すってでも起こせ」

「ただ居眠りをされているだけであればそれもいたしますが、さすがに誰かしらからの文を読んでおられる最中にそれは出来ませぬ。私も息抜きが必要でしたので、隣で待たせていただきました」


 昌友はいつも政に追われているのだが、たまに隠れて息抜きをしているという話は聞いたことがあった。一度息抜きをすると決めれば、まったく姿を見せなくなるという。

 かくれんぼになったとき、誰も昌友を探し出せぬというのだから厄介この上ない。おそらく今日も誰かが昌友を探して城中をさまよっているのであろうな。用もないのに俺のもとには誰も来ぬであろうし。


「まぁ息抜きが出来たのであればよいのだ。ところで報せとはなんであろうか」

「はい。まずは1つ目でございますが、ここ最近海賊の被害が酷うございます。特に練度の低い一色水軍の被害は甚大で、追って染屋が雇っている傭兵護衛らも痛手を受けていると」

「やはり水軍強化を掲げたものの、そう簡単にはいかぬな」

「すでに水治奉行の彦五郎殿の他、小山兄弟らに命じて水軍衆の立て直しを命じておりますが、いかんせん人手が足りておりません。大工は元より、乗り手も不足しており、このままでは近海の海賊との実力差は開く一方であるかと」


 これは非常に悩ましい問題であった。

 実は大井川の河口からすこし沖合にいったところに小さな島があるのだが、そこにどうやら海賊が住み着いているようなのだ。

 大井川港は東国諸地域と京を海路で結んだ際の中継地であり、そのために船の往来が非常に多い。商人優遇策が上手くいったのもこれが理由である。

 そんな金が動く地の近海で手ごわい海賊が我が物顔で辺り一帯を牛耳り、通りかかる船を襲っている。これだといずれ海賊を恐れた商人らがこの辺りを通らなくなってしまう。ゆえに海賊の討伐を命じているのだが、こちらの思惑通りとはやはりいかず、むしろ被害が増える一方とのこと。

 彦五郎は水軍衆の強化を急務であると訴えてきており、昌友も同感であると言っているのだが、その強化を図るための策が手詰まりであるゆえ困り果てているのだ。


「彦五郎から何か妙案が上がってきただろうか」

「いえ。ですが少なくとも実力者を揃える染屋の傭兵らと手を結ぶべきであるとは主張しております。ただ染屋が抱える傭兵も元は海賊であるものがほとんど。上手くいかぬのではないかと私は見ており、余計な問題を抱えるのであれば別の方法を模索するべきだと伝えました」

「実力は如何ほどだ」


 昌友はこちらの問いに、なんと答えたものかと明らかに迷っていた。つまりそれだけ実力はあるということである。

 ならばやはり協力するべきであろう。今この辺りで一番弱いのが一色の水軍なのであるから、元海賊と手を取り合うのが嫌だとか、そんな贅沢を言っている場合ではない。


「後々生じる利を考えても、やはり手を結ぶべきであろう。ついでに海賊の水上戦闘を見せてもらえばよい」

「まことに上手くいくと?」

「討伐がか?それとも関係がか?」

「どちらもでございます」


 いつも以上に上手くいかず、余計な損害が出ることを昌友は恐れていた。すでに一色の今年の懐はだいぶ寂しい状態となっている。

 これ以上余計な出費は避けたい。その感情があふれんばかりに目から漏れ出ている。

 しかしそれでも協力はすべきだと俺は思う。急に戦力は上がらぬのだから、結局使える手は使っていかねばな。


「この件については暮石屋を通す必要は無い。直接染屋の主人と話をせよ。むしろ間に組合を挟むと、あの者たちが混乱するであろう。そこまで近海の状況が悪いのかと」

「それは同感でございます。ただまぁ、すでに察しておりましょうが」


 それだけ深刻な状況。もう四の五の言っている場合ではない。


「水軍の強化についても何か対応を考えておく。主水はすぐに染屋に人をやって協力関係を築け」

「はっ。では続けて」


 そう言いながら昌友は地図を広げた。これはかつて俺が所持していたものであるが、今後は昌友の手にあった方が役立つだろうと与えたもの。

 すでにだいぶすり減っているのは、いつもこいつとにらめっこしているからだろうか。


「流民に関してでございますが、やはり殿が予想した通り増えております。三河での騒乱がこちらに都合よく作用した結果と言えましょう。例の地を切り拓き、住まわせることが出来る家も用意いたしました。またいずれ代を返すという約束のもとで、いくつかの農具も金木を通じて与えております。藤次郎殿の指揮のもと、大井川や他の河川より水路も引っ張っておりますので田畑も徐々に広がっていくかと」

「よし。そちらは問題もなく順調なのだな?」

「…」


 しかしまたもや期待した返事はもらえなかった。だが先ほどのような落胆したものではなく、むしろ嬉しい悲鳴だと言わんばかりの表情である。

 想定外のことが起きているということだが、俺には皆目見当もつかない。いったい何事だというのか。


「実は大井川領内が住み良い地であるという噂が思った以上に広まっており、相当な数の流民が集まっております。当初予定していた区画では家が足りず、現在急ぎ家を用意しております。問題は大工がこちらに割かれているということ」

「あ…。水軍衆の手が足らぬというのは」

「すでに住みたいという者がいるので、優先すべきはこちらであると判断いたしました。また殿の命に従い、すべての民を対象に籍をとっております。加えて田畑の検地を実施することで、安定した収入が期待できるかと」


 籍と検地に関する法令に関しては今後も継続して取り決めていくつもりだ。

 一色家の土地と民が所有する土地をはっきりとさせ、また籍をとることで家族構成もはっきりとさせる。

 民を飢えさせぬための政策であり、不当な搾取をしないための一手だ。


「嬉しい悲鳴であるが、やはりもう少し人手が欲しいところだな」

「商人の中には口減らしを目的に、子弟を殿のもとに出仕させようとしている者も大勢おります。商人保護式目の都合で縁を切る必要はありますが、それでも食べ物にありつけず飢えるよりはよいであろうと」


 実際、そういったギリギリの状態にある商人だって大勢いる。大井川領内には豪商が集まっているから裕福に見えるが、誰も彼もが商いを上手くやっているわけでは無いのだ。

 口減らしを目的とした人身売買であったとしても領内では一切禁止しているが、そうなると飢える者も出てきてしまう。

 そこで有力商家へ丁稚として出したり、よそに養子として出したり、様々な手を使って出費を抑えている。その手段の1つが当家への出仕であるというわけだ。


「なぁ、主水。商人の子息であれば、最低限の算術は出来るだろうか」

「そういった教育はさすがに施しているかと。役立たずだと追い出される方が、実家としても困りましょうし」

「ならば積極的に登用するか。最初は農地奉行、水治奉行の下につけて文官としての知識をつけさせ、その中で実力を測り、役割を与えていくとしよう」

「かしこまりました」

「それとついでに水軍衆の人員募集もかける。最低限の武芸は必要であるが、身分などは問わぬと領内に広めるのだ」

「ではそちらもそのように。ですが水軍衆の人員については私では無く、水治奉行の彦五郎殿に一任してもよろしいでしょうか?さすがにそこまで目が行き届かぬかと」

「もちろんだ。ただ基準だけはあらかじめ共有しておいてくれるか。彦五郎が勝手をするとは思わぬが、念のためな」

「かしこまりました」


 ちなみに農治奉行は水治奉行と対になる役目。陸全般に関わる政を取り仕切っており、決して農業面だけを見ているわけではない。

 この役目にあるのが爺の倅であり、次期筆頭家老の時真である。時真が政におけるNo.2であるのは前にも言うたとおりであるが、広大な大井川領の大部分を預かっているからこそのNo.2なのだ。

 それに今のところ水軍衆の地位が低く、水治奉行の主な役目は港の管理だけと言ってもよいような状況。

 最近になって海賊討伐を理由に水軍を重視し始めたが、それまでは本当に整備されていなさ過ぎて酷い有様であった。父上があまり熱心でなかったからだと付け加えておく。


「さて、最後でございます。市川からの報せによれば、随分と難航いたしましたが数人の鍛冶を買うことが出来たと。いくつかの港を経由した後、鍛冶職人とともに大井川港に帰還するとのことでございます」

「よし。ところで銭は足りたのだろうか」

「少なくとも不足分の補填に関する報せはございませんでした」

「ならばうまく交渉してくれたのであろう。市川はまだあの話を知らぬゆえ、戻り次第組合の件を伝えてくれ」

「お任せください。しかしこうしてみていると、おおよそ殿が仰った通りになりました。あげられた3つの政策の内、2つはまさに順調と言ってよいでしょう」

「水軍衆の体たらくを順調を言ってよいのか?」

「…一応光は見えましたので」


 シレっと視線を外す昌友に、俺は思わず苦い笑いをこぼしてしまった。決して笑っている場合では無いのだが、昌友ですら現実逃避がしたくなるほどの練度であるということ。

 いったい相手の海賊は何者なのかと問いたくなる。…いや、もし仮にその者たちを捕縛することに成功すれば。


「殿?どうかされましたか?」

「主水」

「はい」

「水軍衆に厳命せよ。神高島に居座る海賊に打ち勝った際には、必ずすべて生け捕りにしろと」

「それが出来ぬからこそ困っているのでございますが」

「どれだけかかっても決して奴らの討伐は諦められぬものだ。いずれの話でよい。だが必ずその時が来れば生け捕りだ。これは決して譲れぬ」

「譲れぬと言われましても…。はぁ、かしこまりました。殿は一度言い始めれば折れられませんので。又兵衛殿にはそのように伝えておきましょう」

「頼む」


「やれやれ」と口にしてこそいないが、そう言っているような気がした。

 しかしこれほどの妙案はない。手を焼かされた海賊を飼い慣らせば、それだけ水軍衆の戦力アップに繋がる。まぁ一悶着も二悶着も、下手をすれば百くらい悶着があるかもしれないが、これがどう考えても近道である。

 奴らが望むものを与えて配下に置くことが出来ればどれだけ頼りになるか。


「楽しみだな」

「楽しみにしておられるのは殿だけでございましょう」


 呆れた様子の昌友であったが、とりあえずこれ以上の報告は無いらしい。

 そのためか、ジッと俺の手元を見ていた。


「ちなみに殿が掲げられた3つ目については如何でございますか?」

「外には」

「栄衆のみが控えております。近習らは剣術の修練に向かっておりますので」

「ならばよし。まずはこれを見てみよ」


 俺は手にしていた密書を昌友に渡す。送り主は今橋城で俺と協力関係を結んだ孕石元泰殿である。

 三河の騒乱が終わって1か月ほどが経ったわけであるが、さっそく遠江奪取のために仕掛けているとのこと。それがこの密書の内容だ。


「お相手は孕石様でございますか?して内容は…」


 しらばく熱心に読み込んでいた昌友であったが、突然ガバッと顔を上げたかと思えば、俺に掴みかからんほどの勢いで身体を寄せてくる。


「これはまさか!?」

「あぁ、まずは遠江の西側を崩す。俺と主水祐殿にとって邪魔なのは明らかに飯尾豊前守だ。今川家に対する翻意を持っていたとしても、決して俺や主水祐殿と手を結ばぬであろうからな。そして俺と蔵人佐が手を結んだとしたら、こいつは間違いなく俺の妨害をしてくる。そうなることが予めわかっているのであれば先に潰しておくが吉だ」


 元泰殿と手を結ぶ前から、どうにかこの男を潰したいと考えていたのだが、その役目はあちらに譲った。

 良くも悪くも長い付き合いであるからこそ、もっとも有効な手を打つことが出来ると言われていたからだ。


「しかしまさかこのような方法で」

「すでに駆け引きは始まっている。曳馬城にはしきりに松平からの使者が秘密裏に入っていることであろう。そして離反を煽っている。実際は全て主水祐殿の手の中にあると知らずにな」


 元康が三遠国境を重視していることは、あの時今橋城にいた飯尾連龍も知っているだろう。だからこそ、調略を目的とした密使が曳馬城に入ったとしても決しておかしくは無いのだ。

 またあの三河騒乱の後、元康が信長に接触したことが公のものとされた。近く子同士の婚姻同盟も実現するはずだ。松平の後ろ盾が今勢いのある信長だと知れば、連龍も乗り気になるはず。密使は連龍に対して、元康の休戦協定反故に合わせた挙兵に合流するよう煽り、曳馬城に兵を集めさせる。やり取りされた密書は全て元泰殿の手にあるため、それを証拠とし、遠州忩劇のきっかけになりかねない出来事だと糾弾。迅速に兵を挙げて討伐してしまう。遠江を掌握するうえで邪魔になるであろう飯尾連龍を先んじて潰し、松平の兵を遠江に引き込む前に叩き潰したことを功として掲げ、元泰殿に曳馬城が与えられるよう働きかけるという策である。これが実現すれば遠江の東西の要所を得ることが出来る。

 加えて井伊谷と犬居谷を押さえることが出来れば、北側も制した同然だ。あとは中身をじわじわと食っていくだけ。

 3年後、独立を果たすころには全て俺たちの手に落ちていると、そういう計画だ。

 もちろん元康にはこの策をあらかじめ伝えておく。これから先は防衛に徹し、今の勢力を維持し続けることを要請するのだ。

 また設楽郡を掌握するようにも要請する。その時が来たとき、三遠国境をいかに早く制圧することが出来るのかは、結局前回同様に今後を左右するゆえだ。

 そのためには一枚岩になりきれていない現状維持だと困る。また同じ轍を踏むわけにはいかぬからな。


「まことに上手くいきましょうか。そもそも遠江の情勢について、目を光らせておられる御方がおりましょう」

「わかっている。主水祐殿もその辺りには十分注意しておられるゆえ、心配は…。いや栄衆を動かしておくくらいはしておくべきだな」

「それがよいかと」


 この元泰殿に託した一手、果たしてどこまで上手くいくのか。とにもかくにもそこが肝心である。

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