第17話 三河の主導権

 三河国宝飯郡不相 松平元康


 永禄3年7月中旬


「なかなか落ちませぬな。内から外から揺さぶってはいるのですが」

「援軍が間近に迫っていることが奴らの耳に入ってしまったからであろう。当初は優勢に事を進めていたのだが、やはり兵の勢いにも限界がある。我らはそもそも強行した出陣であったゆえに」


 しかしそうであったとしても、ここまで勢いが殺されるものであろうか。

 五井松平家の当主である景忠は悔し気に目の前の城、不相城を見上げた。この城に籠るは鵜殿の一族である。周辺の城は惣領家の城諸共すべて手中に収めたというのに、今川からの援軍到着の知らせを受けてかいっこうに降伏する様子を見せなくなった。

 一方で上手くいったこともある。

 鵜殿を無視して先行して東進している忠勝らが、今橋城以西の主だった城をいくつか落としたという。今橋城は今川における三河統治の要。ここさえ落としてしまえば、あとはどうとでも出来るというものだ。

 だが目の前の鵜殿もどうにかせねば、完全に三河を掌握したとは言えぬであろう。政の中心地は今橋であったとしても、東三河は鵜殿によってまとめ上げられているといっても過言ではない。


「太郎左衛門」

「はっ」

「間者にはもっと大胆に仕掛けさせよ。あまり時間が無い」

「殿、残念ながら時間はもうございませぬ。この戦は一度ここらで区切りをつけなければならぬと、我が弟より報せがございました」

「籐左衛門、それはどういうことか」

「岡崎やその周辺の民の不満が膨らみ始めております。元々今川による重税に苦しんでいた民が、殿の独立でもろ手を挙げて喜んでいたのでございます。しかし今川から松平に代わっただけで、岡崎に殿が戻られて以降ずっと戦が続いております。民の負担は減らず、むしろ渦中にいるために増えている始末」


 本多籐左衛門重貞は一切の恐れを抱くことなく、私へ淡々と進言する。弟とは正信のことであるが、足が不自由であるために岡崎で留守を任せているのだ。

 その正信からの報せであるとのことであるから、おそらく民の不満とはまことの話なのであろう。こういったことに敏感であるから、大切な岡崎という地を正信に任せたのだ。

 だがまさかここまでやって鵜殿を攻めきれず、今橋城まで取れなかった。これはあまりにも痛い不手際である。我らが兵を退く限りは、今川とも話を以て、一時的にでも和睦する必要があった。そうでなければ、我らが兵を退いたときを見計らってすべて奪い返されてしまうであろうからな。


「殿、悪い知らせはそれだけではございません」

「まだあるというのか」

「与左衛門殿が岡崎城に戻られました」

「与左衛門がもう戻ってきたというのか!?ならば三遠国境は…」

「お察しの通り八名・設楽領主らの完全なる敗北でございます。元々兵数で劣っておりましたが、西郷ら有力領主らが殿からの援軍を信頼できぬと断ったとのこと。そこで与左衛門殿のみが入り、軍師としての役割のみをになっていたそうで。それでも途中までは上手く支配地域を拡大していたとのことなのでございますが、今川別動隊とぶつかり、すべてをひっくり返されたと。…その、特に一色右門様に手痛くやられたようで」


 重貞が非常に言いにくそうに告げる。その歯切れの悪さは今日1番であった。


「一色?山城守殿の倅であろうか?」

「その通りでございます。此度が初陣とのことでしたが、西郷孫太郎殿が討たれ、一色の陣を急襲した設楽越中守殿も捕らわれたとのこと。三遠国境からの撤兵を条件に孫太郎殿の骸と、設楽越中守殿の身柄を取り戻したとのことでございます」

「惨敗も惨敗でございますな。どうりで今川からの援軍が次々と送り込まれてくるわけでございます」

「悠長に感心している場合ではないぞ、太郎左衛門。龍拈寺での人質殺害に我を忘れたたわけらが、攻め落とした城の者たちを見境なく殺害したために、我らは和睦に臨むための切り札を持っていない状況にある。撤退はこの際仕方がない話であるが、この戦を終わらせるための切り札がどうしても必要である。おそらく平八郎らは今橋城を落とすに至らぬ。ならば我らが鵜殿の身柄を拘束し、早々に兵を引き上げる支度をせねば内側から松平が崩れてしまうわ」


 時間はあまりない。私の心内を知る正信であるから、おそらく待てる限りは待ってくれたはず。そのうえでもう抑えがきかぬと、籐左衛門に人をやったのであろう。

 これ以上戦が長引けば、一揆に発展する危険がある。これに乗じて今川が攻め寄せてこようものなら、たとえ生き延びたとしても2度と我らは岡崎の地を踏めぬであろう。

 それだけはなんとしても避けなければ。


「四郎左衛門」

「ここに」

「ぬしの父に人をやるのだ。今ある城の守りを固めたうえで、今橋城の監視は徹底するようにと」

「かしこまりました。しかし、そうなると一度戦は終わりでございますか」

「それは今川次第である。我らの足元も心もとないが、それは今川とて同じこと。惜しい話ではあるが、井伊谷を武田に譲ってやってもよい。いずれは我らが頂くゆえ。我らが最も恐れていることは、この今川の窮地に同盟国2つが手を差し伸べること。最悪その道を潰してしまわねばならぬ」


 しかし井伊谷は政孝様も欲しがっているという。

 あの時、一色の老臣である氷上時宗が岡崎城に入ったのは、一色家が離反した際に手を結びたいという旨をこちらに伝えるためであったとのこと。

 私は瀬名や子らのこともあり、まともに話をすることも出来なかった。代わりに話を聞いた忠次によればそのように申しておった。

 あの忠臣一族と名高い一色が今川を裏切るとはどうにも信じられなかったが、政孝様の幼少期を知る私としてはどこか納得もしてしまう。あの御方はなぜか心の内が読めないところがあまりにも多かったゆえに。


「殿?」

「…戦続きで疲れていたのやもしれぬ。やはりここらが潮時なのやもしれぬな。それと四郎左衛門」

「はっ」

「伊賀守に強く言い聞かせよ。平八郎の言葉に流されず、とにかく私の命を守るようにと。いくら城があと少しで落ちそうだと思っても、これ以上の攻勢は控えるようにとな」

「ははっ!必ずやそのようにお伝えいたします!!」


 いくら忠勝であっても、岡崎譜代の一族である鳥居家には頭が上がらぬはず。あれは一種の戦狂いであるゆえ、強く出られる者を傍につけておかねば勝手をしおる。もちろん武を振るう際にはこれほど頼りになる者もいないのだがな。

 あまりにも周りが見えなくなるのが、大きな欠点である。


「それと東条城にも人をやる。吉良左兵衛佐を上ノ郷城に連れてくるようにと」

「それも和睦の切り札でございますか」

「いくら好き勝手を吉良が三河でしたとしても、今川は吉良を見捨てられぬ。同族であり、今川の祖であるがゆえに」


 今でこそ没落した吉良であるが、足利御一家である三家の筆頭である。腐っても。

 今川先代である義元公のころには色々いさかいがあったが、今では三河に城まで預かっていたのだ。

 これを利用しない手は無い。


「上野介殿にはそのまま城に留まっていただけばよい。あまり動き回らせるでないぞ」

「ではそのように人をやっておきましょう。吉良上野介様には大人しく城で三河の情勢を見届けていただくようにと」

「それでよい。吉良家の威光が未だ存在していることが分かっただけでも、此度は強行して戦をした意味があった。とうぶんはその威光をお借りして、地盤を固めなおすといたそうか。それに姉上のこともあるゆえ」

「…そうでございますな」


 景忠が気まずげな顔をしたのは、こやつの叔父である長左衛門信次が姉上を随分と可愛がっていたからである。

 岡崎に来る際には必ず挨拶をし、姉上がそれを拒絶しても必ず顔を見に行っていた。最初はそういう癖なのかとも思ったが、家中で不穏な噂が流れた際にそうではないのだと理解した。

 姉上は聡明であられたゆえに、一部のよからぬことを考えている者たちに目をつけられたのだと。五井松平家の先代当主である忠次が15年ほど前に討ち死にした際にも家督継承をめぐって随分と荒れたのだ。それこそ父上が介入しなければ、景忠が幼少であることを理由に信次に乗っ取られていたいやもしれぬ。そうなれば近場の血縁関係にある松平分家もどうなっていたことやら。


「姫様にはしかるべきお家に嫁いでいただくべきであるかと思います。それも出来るだけ早く」

「わかっているのだ、太郎左衛門。しかしあまりに露骨にやりすぎれば、それこそ姉上を支持している者たちの反発を招くことになるであろう。ゆえにまだどうにも身動きがとれぬ。こうなると私の実力を認めさせた方が早いやもしれぬ」


 上手くいけば3年後である。3年後、政孝様が遠江を掌握して反旗を翻せば、我らは友好の証として姉上を送り出すことが出来る。

 さすれば姉上を松平家の当主と担ぎ上げようとする動きも収まるであろう。だがそれよりも早く事が起きるとなれば話は別。それこそ景忠の言うように、どこかよいところを見つけて嫁に出す必要が出る。同腹の姉であるゆえ、そのような送り出し方は避けたいところであるが、やむを得ないこともある。

 いや、今はそのようなことを言っている場合ではないな。


「太郎左衛門」

「ははっ」

「無駄話をせず、早う動くのだ。不相城を落とすかどうかで我らの今後が決まる。三遠国境を奪えなかったことにより、これから数年先まで今川と戦わねばならぬことが決まってしまった。織田様のお力添えは無いのだから、結局自身の身は自分たちで守らなければならぬ。そのためにあの城に籠る鵜殿一族は必要なのだ。どうであろう、落とせるか?」

「もちろんでございます。殿は上ノ郷城にて和睦の手はずを整えていただければ。あと数日以内に城を落とし、上ノ郷城に鵜殿一族を連行いたします」

「頼もしい言葉である。しかし決して無理だけはするな。これは太郎左衛門、おぬしを心配してのものではない。わかっているであろうな」

「はい。被害も最小限に抑えたうえでの勝利を目指します。万事抜かりなく、不相城を松平の手に落として見せましょう」


 なんとも頼もしい言葉である。

 私は陣を後にし、岡崎城から連れて来ていた兵らを率いて、鵜殿の居城であった上ノ郷城を目指す。

 まずは三河全域の情報を集め、この戦の区切りを決めてしまわねば。人質交換を軸に今川に譲歩させる。

 それが出来れば兵を引き上げられる。ここから数年は疲れ果てた民の心を癒すために尽力し、豊かな三河の地を取り戻すのだ。そして再び我らが兵を挙げた時、一気に東海を我らのものとする。その際には…。

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