第18話 嫌われ者の2人

 三河国渥美郡今橋城 一色政孝


 永禄3年7月中旬


 俺たちが今橋城に入ったとき、すでに城内は慌ただしく何かに追われているようであった。

 石巻から今橋に至る道中、道すがら聞いた話だと、まず後方支援隊と位置付けられていた瀬名氏俊殿が渥美半島を見事に制してみせたとのこと。織田家からいくらか水上輸送で支援があったようだが、三河全域における戦線停滞による影響を受けてか大した抵抗も無かったとのこと。これは朗報であった。

 一方で三河の中央辺り、カンガルーで言うところの腹辺りは随分と元康に持って行かれた。鵜殿の居城である上ノ郷城が落ち、他複数の城が落とされた。最悪なことに、つい数日前、長らく抵抗していた鵜殿一族は全員が降伏を申し出たため、その身柄を拘束されたとのこと。

 また鵜殿以外にも牧野や吉良といった有力三河衆が相次いで城を失った。さらに三河の奉行人の1人であった山田新次郎景隆殿も孤立無援の八名郡にて敗北。籠城して援軍の到来まで耐えようとしたようであるが、あちらの領主らの侵入を許した末に捕らえられたとのことである。

 つまりは決して今川にとってよくない状況にある。

 こうなってくるといよいよ三遠国境を制すことが出来たのは大きかったと言えるであろう。ここまでが三遠国境から兵を引き上げて、ここ今橋城に至るまでにあった出来事だ。


「さてさて、伊予守殿がどこまで蔵人佐から譲歩を引き出せるか。これによっては御屋形様の気を鎮めることも出来るであろう」

「それはそうだが紀伊守殿よ、取られた捕虜があまりにも多すぎる。これでは今橋以西はすべて持って行かれるやもしれぬ。そうなると三河はほとんど失ったと同義であるぞ」


 城に入って数日が経った今日、まさかまさかの今橋城にて元康と氏俊殿の休戦交渉が行われる。

 俺たちが城に入ったときに慌ただしかったのは、元康側から一時休戦の提案があったからだ。そしてこちらが頷かざるを得ない交渉カードもしっかりと用意していた。

 それが先ほど挙げた捕虜の方々である。

 一門である鵜殿に加え、一応今川の祖である吉良。見捨てるわけにもいかぬ面子であり、特に鵜殿に関しては援軍到着直前まで籠城にて耐えてくれたために元康ら松平の主力を上ノ郷近辺にくぎ付けにした功がある。

 桶狭間での汚名は十分に晴らしたと言ってもよいほどの活躍であったため、是が非でもその身柄を返してもらわねばならない。それらは全て交渉役として御屋形様より全権を預かっている氏俊殿の手腕にかかっている。

 一方で俺たちは別室で会談が終わるのを、ただひたすらに待っていた。ジッと出来ぬ方々も幾人かあったが、さすがに会談の場に乗り込むわけにはいかない。未だ捕虜の身柄は上ノ郷城にまとめてあり、ここで元康に手を出せば全員が殺害されてしまうであろうからだ。


「しかし丹波守殿は此度も目の覚めるような戦ぶりであったとか」

「褒めても何も出ぬぞ、紀伊守殿。だがやはりあの男は厄介であった。いったいどれだけの兵が殺されたか」

「あの男でございますか?あぁ、例の戦狂いでございますか」

「ただの戦狂いではあるまい。あの豪胆さは誰にも引けを取らぬ。此度も蔵人佐めにぴったりと張り付いておろう。城内に入る護衛がたった1人であるとはいえ、あの男が暴れ始めたら手が付けられぬぞ」


 戦狂いだのなんだのと言われたい放題の男、それは本多平八郎忠勝である。

 あの戦国時代最強の戦人と呼ばれる男は、此度の三河忩劇でも大活躍であったらしい。実際元信殿は上ノ郷城救援の道中に、松平の先行隊を率いる本多忠勝と一戦交えている。結果はあちらの撤退で終えたようであるが、そのしつこすぎる足止めがあったために鵜殿の救援に間に合わなかったらしい。

 それに先行隊の強さは忠勝だけのものでは無かった。松平の忠臣と言えば、関ケ原の戦いの前哨戦とも言える伏見城の戦いで果てた鳥居元忠などがいるが、その鳥居元忠の父親である鳥居忠吉や今川館より元康の妻子を逃した石川一族など、とにかく名のある将が勢ぞろいであった。その者たちの戦いぶりはまさに三河武士と呼ぶにふさわしく、逆に言わせてもらえばよくぞ纏まりきれぬ元信殿ら救援本隊がこやつらを退けたと感心する。

 まぁこの様子を見るに、捕虜らを返還してもらえるのであれば今橋城以西の放棄は仕方がないとも思えた。


「怖い怖い。あの男と誰か対等に仕合うことが出来る者はおらぬのか」


 そう声を上げたのは、松井宗恒殿と言い合い、五本松城攻略に反対の声を上げていた孕石元泰殿であったのだが、誰もそれに応える者はいなかった。

 むしろ気まずげに視線をそらしてしまう。

 これは元泰殿がハブられているというわけではなく、ただ相手が悪いと誰も下手なことを言わないだけだ。ここで手を挙げれば、絶対に起こるであろう次の三河での戦で、あの戦狂いにぶつけられるに決まっていると分かっているからだ。

 元泰殿にはそれを進言し、押し切るだけの力があるということである。

 一方でこの場に留まっているものの面白くなさそうな顔で俺を睨みつけている男もいる。その者は元信殿とともに救援本隊に加わっていた三遠国境の守りの要、曳馬城の城主である飯尾連龍殿であった。

 よほど俺が手柄を挙げたことが面白くないのであろう。最初に顔を合わせた時に色々言われたが、適当にいなしていたらこうなってしまった。

 さすがに多くの家臣らが集まる場で派手に言い合いなど出来ぬ。そのような隙を晒せば、付け込まれるのが当たり前であるゆえに。

 ここで元康が勢いをつけすぎると、後々の計画に支障が出てしまうゆえにグッと堪えた。明らかに挑発が込められた諸々の発言を俺の野望のために見逃してやったのだ。

 本当だったら物理的に噛みついてやりたい感情を押さえてな。


「ふむ。やはり今の今川に張り合いというものは無いのか。つまらぬな」

「相手が悪いということもあろう。あまり周囲をおちょくると敵を増やしてしまうぞ、主水祐殿」

「敵?敵はもう大勢おりますとも。そうは思わぬか、右門殿?」


 また返答に困るフリを振られてしまった。前回はスルーによって事なきを得たが、今回も同様の態度をしてしまうと、大規模なご近所トラブルになりかねない。

 少なくとも3年は大人しくしておきたいのだ。目を付けられるなど絶対に避けねばならないところ。


「敵、という言い方が適切かどうかはさておき、たしかにあまり良い目で見られていないことは事実やもしれません」


 俺の発言に、数人が過剰に反応を示す。その大半がやはり俺に対して悪意を抱いている方々であったのだが、それ以外だとまさか返事があるとは思ってもいなかったのか元泰殿もそこに含まれていた。

 だが驚いたのもつかの間。すぐにニヤリと口角を吊り上げると、「そうであろう、そうであろう」と隣にやってきて肩を組まれる始末。おかげで俺の言葉に反発した方々が何も言うてこなかった。咄嗟にそれを読んでの行動であったのだろうか。

 それともただ悪乗りだけで生きている方なのか。実力はたしかであるが、イコール人間性というわけではない。

 元泰殿は本当にその底が見えない人物だ。


「やはりはっきりと物申す者は嫌われる宿命なのであろう。かくいう私も松平の裏切り者、蔵人佐からは随分と嫌われているようであってな。元々はあの男が飼っていた鷹が私の屋敷に糞尿をするゆえに苦情を何度も入れておったのだが、まったく改めぬ態度に腹を立てて御屋形様に直訴したことがある。あの時の蔵人佐の顔を思い出したら今でも…」


 クックックと肩を震わせる元泰殿。

 実は元康が人質として駿河で暮らしていたとき、用意された屋敷は孕石家の駿河屋敷の隣であった。

 そして度々ご近所トラブルがここでもあった。これも事実である。

 まだ竹千代と名乗っていた時、そして俺が鶴丸と名乗っていた時に何度か相談を受けたことがある。隣の屋敷の主が口うるさいのだと。あの時の元康は頑固で偏屈でととにかく一方的に元泰殿が悪いような物言いであったが、今聞けば普通に元康が悪い。何度も注意を受けても改善しなかったのだから、最終的に義元公に話が行くのも当然である。義元公は随分と元康を可愛がっておられたゆえ。まぁその可愛がりというのも、今川の狗に飼い慣らすことで三河の統治を安定させることが目的であられたのであろうが。


「性格が悪いな、主水祐殿も」

「性格が悪いのも生まれ持ったもの。父と母に感謝し、私は今後も悪態を吐き続けるであろう。せいぜい付き合ってくだされ」

「…性悪めが」


 ぼそりと呟いたのは、これまた元泰殿と犬猿の仲であるとされている連龍殿だ。おそらく俺以上に嫌っているのではないかと思う。

 俺の嫌われ方は、「その年になっても初陣すら果たしていない若輩者が一門の末席にいることも片腹痛い」みたいなものであったが、元泰殿と連龍殿の場合は三河東部で行使できる軍事指揮権を巡って何度も対立している本物の犬猿の仲である。まぁ本来は連龍殿の父であり、桶狭間で討ち死にした先代の豊前守殿が対立していたのだが、その関係は子に移った今でも続いているらしい。

 まぁ連龍殿も間近で見てきたであろうから、元泰殿に対する対抗心は着々と育てられたのであろうな。


「ふむ。空気が少しばかり悪くなったか。右門殿、少しばかり散歩に付き合ってはくれぬか」

「私がでございますか?」

「他の者と並んで歩けば、いつわき腹を刺されるかわからぬゆえな」


 また強い視線が元泰殿に向けられている。あからさまに舌打ちまでされているというのに、当の本人は何処吹く風。

 だからこそ好き勝手な発言が出来るのであろうが。

 しかしここで断れば、残されるであろう俺もしんどい思いをすることは確実だ。なんで急に目をつけられたのか不明であるが、ここは元泰殿の誘いに従うしかない。


「では少しばかり風を浴びてまいります」

「右門殿、わき腹には十分気を付けておくのだぞ」

「…紀伊守殿、また質の悪いご冗談を」


 泰長殿からの忠告を質の悪い冗談だと退けたのだが、隣から「チッ」と本心か嘘かわからぬ不穏な音が聞こえてきた。

 俺は思わず振り返ったが、すでに元泰殿は歩き始めたところ。もはや背中しか見えない。それゆえに今の音の正体と、その意味を聞くことは叶いそうもなかった。だが背後から朝比奈の兄弟が笑う声が聞こえてくる。

 きっと2人で俺をからかったのであろう。なんの情報も得られなかった俺は、ただただそう信じるしかなかった。

 だが今の俺は何も分かっていなかったのだ。

 なぜ元泰殿がわざわざ広間の空気を最悪にしてまで俺を誘って2人っきりになったのか。その意味を。

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