第16話 和睦による撤兵

 三河国八名郡月ヶ谷城 一色政孝


 永禄3年7月上旬


「おぉ、兄上」

「皆の衆、随分と待たせてしまった。ある程度の成果を得られたゆえ、ここで皆に伝えることといたす」


 別動隊総大将である朝比奈泰長殿は、ついさきほどまで松平家の直臣である高力清長とこの戦の落としどころについて話をしていた。

 きっかけはほんの小さな出来事。いや、一連の流れでは小さなことではあったが、八名・設楽の領主らにとっては致命的な一撃であったとも言える。それゆえにあの雨の決戦のあと、10日もしないうちにこのような場が設けられたのだからな。


「まず1つ。石巻山の襲撃を指揮した設楽貞通を解放する条件のもとで、八名・設楽の領主らはこの地から兵を引き上げることになった。また西郷弾正左衛門の倅の亡骸と交換で、月ヶ谷城をこちらに譲渡するとの条件も取り付けている」

「月ヶ谷城がこちらに戻れば、三遠国境は我らが手にしたも同然。さすがは兄上でございますな」

「いや。この提案は高力与左衛門が自ら行ったものである。あの男が画策したものがすべて看破されたと、大人しく此度の負けを認めたのだ。これ以上は彼の地の領主らに無理をさせられぬとな」


 泰長殿の言葉に対して随分と愉快げに相槌を打っているのは、弟の元智殿である。戸田家の離反に一番憤っていた人物でもあった。

 ちなみに戸田宣光は石巻山の奪取に失敗後、居城である赤岩城には戻らず行方をくらましてしまったとのこと。

 城の接収にはすぐ動くであろうが、問題は城に残された者たちの扱いだ。今橋城での惨状を知っていれば、間違いなく同じことになるだろうと想像する。裏切った当の本人は行方をくらましてしまっており、そのような状況で殺されることになる城の者たちがあまりにも不憫だ。これから宣光はひどい苦しみの中で生き続けることになる。

 時を見誤った者の末路だと、俺は強く胸に刻みつけておくことにした。

 一方で話半分に聞いていた高力との和睦内容。いくつか気になる点があった。その中の1つが、西郷弾正左衛門正勝が俺を酷く恨んでいる風であるということ。

 そしてその恨みは元正に策を授けた高力清長にまで向いているとのこと。そのせいで高力はそそくさと元康のもとに帰るようだ。決定的に両者にひびが入った結果となったわけである。俺が恨まれることは仕方ない。戦場での出来事で、俺の策を見破れずに突っ込んできたあの男が悪いだけのことだ。


「ならば我らはこれより本隊の後詰でございますか?今橋城にまで到着すれば、いくつかの戦場に兵を送り込むことも出来ますが」

「三遠国境を制したものの、未だ裏切り者どもは健在でございますぞ!ここはこのまま北上して、奴らを三河よりたたき出してしまうべきでございます!」

「それでは和睦を成した意味がないではございませんか。八郎殿、一度頭を冷やしてこられた方が」

「なにをぉ!左馬助殿はこのような好機をみすみす逃すが上策と申すか!」

「そうは言っておりません。ただそれでは今川の評判を落とすだけだと申しております。織田憎し、松平憎しは世で通用しないでしょう。どこでも同じようなことが起きているのですから」


 宥める親矩殿であるが、頭に血が上っている宗恒殿はいっこうに落ち着く気配が無い。

 これも見慣れた光景だと言えばそれまでだが、この宗恒殿の檄に感化される者が出ることが一番厄介である。ただでさえ一枚岩ではない今川別動隊。ここで兵を2つに割るなどという話になれば、少ない兵力を分割する羽目になるのだ。

 いくら200ほどで色々俺がこなせたと言っても、あれはたまたまそういう条件がそろっていたから勝ったに過ぎず、平野部で戦うことが増える三河各地での戦で数的劣勢は致命的な弱みとなること間違いない。

 もう反旗を翻した領主らが兵を引き上げるのだから本隊の後詰に行きたい方々と、裏切り者は死を以て償うべきと唱え、和睦を成したにも関わらず背中を襲いたい方々。

 宗恒殿の暴論とも言えるこの考えを、別動隊内に支持する者が少なからずいることがそもそもの問題であった。

 ゆえにこのような阿呆な意見がのさばるのだ。


「紀伊守殿は如何考えておられるのか!」

「和睦を成した者たちの背中を推そう真似は、御屋形様のお顔に泥を塗ることに繋がるゆえ出来ぬ。しかし攻めなければならぬ者もおる」

「…西郷でございますか」


 思い当たる節があったため、俺は控えめながらに初めて声を上げた。

 そして紀伊守殿は小さく頷く。


「西郷弾正左衛門は倅の死の報いを必ず受けさせると息巻いておる。高力与左衛門にもそれを止めることは出来なかったとのこと」

「月ヶ谷城を引き払った今、奴らが籠るのは五本松城でございますな」

「弟、肥後守の言うとおりである。それゆえ本隊後詰に向かいたい気持ちもあるが、先に五本松城を攻めなばならぬ。奴が倅の死を悲しみ、そして我らを恨んでいるように、我らも御屋形様に忠義を誓いながら、早々に弱ったところを裏切った者たちを許してはおけぬ」


 五本松城はここ月ヶ谷城のちょうど山を越えた先にある西郷家の居城である。かの地は少々厄介な立地をしており、敵が攻めてくるのが分かっているのであれば非常に守りやすい。

 何が一番厄介かと言えば、五本松城下に至る道中でぎゅっと石巻山が平地を絞っているのだ。またその絞る山の上には西郷の城がある。

 俺たちはまるで袋小路のようになった場所で城攻めを行う必要があり、そこは完全に西郷家のテリトリー内。どのような策が用意されているかわかったものでは無かった。

 ゆえに五本松城攻めは非常に危険なのである。

 西郷元正を討ち取ったと知らせを受けた時、俺はすぐさま五本松城の地理を調べたのだが、城攻めを行わなければならないような状況にだけはならないでくれと願ったものだ。だが結局その願いは叶わずじまい。


「たった数日であったとはいえ、想像以上に物資を消費してしまいました。ここから城攻めは少々厳しいのではございませんか」

「主水祐殿までなんと弱気な」

「弱気強気で戦に勝てませぬ」

「少なくとも弱気でいるよりは勝てるはずであろうが」


 孕石主水祐元泰殿は此度の戦で奥平撃退の功をあげておられる。しかしその分随分と物資も兵も消耗したようで、継戦に対してあまり肯定的でないようであった。

 この元泰殿も大井川領の近所に領地を預かる人物で、万が一敵となれば厄介だと注意している男でもある。史実だと今川衰退時に多くの今川家臣らとともに武田に靡き、駿河攻めではいくつもの功をあげた。

 最期は遠江高天神城の城主として松平方に降伏し、降伏した者の中でただ1人切腹を申しつけられたと言われている。


「弱気強気で腹が満たされますかな?そのような御業があるのであれば、ぜひとも我が配下の者たちに教えてやりたいものでございますが」

「…主水祐殿、それは俺に対して嫌味を言っているのであろうか」

「いえいえ。ただ数十日前に似たような問答を聞いた覚えがありましたので、ただそれに倣っただけでございますよ。それとも何か嫌な思い出でも呼び起こされましたかな、八郎殿」


 明らかに俺が率いた兵が少ないことに苦言を呈した際の問答であったが、俺はこれに我関せずと無言を貫く。

 乗ってこなかったことがよほど面白くなかったのか、元泰殿はすぐに俺から視線を外していた。しかし興味を持たれているというのは決して悪いことではない。今回のような悪ノリにさえ巻き込まれなければ、良い関係を築けているともいえる。

 味方とするにもまずは興味を得ることが肝心。そうでなければ話など出来るはずも無いのだからな。


「もうよい!このような腰抜けだらけでは勝てる戦も勝てぬというものだ!」

「そうは言うても此度の手柄一番は右門殿であったことも事実。ここは1つ、この男の考えも聞いておくべきでは」

「いらん!」


 宗恒殿は俺に対する敵意たっぷりだ。それはもう、西郷元勝よりも俺のことを憎み、恨んでいるのではないかとすら思える。

 まぁあれだけ兵数多いマウントを取っていたのに、結局俺の策が八名・設楽領主ら撤退の決め手になったようなものだ。

 相当面白くないのだと思う。ただ俺も爺の機転が無ければ、背後を間違いなく設楽らにとられていたことであろう。これはさすがに自身の手柄だと威張り散らすことも出来ない。普通に南北挟撃を成されていた可能性は十分にあったのだからな。


「右門殿、初陣がさぞ嫌な思い出になったのではなかろうか」

「…まぁ否定はしませんが」

「実は某も右門殿に謝罪しておかねばならぬことがある」


 この場で俺に向けられている視線は同情以外のなにものでもなかった。まぁ初陣相手に大人げないと言われても仕方がない態度ではあった。

 もちろん誰も理解はしているはずだ。宗恒殿はただ俺が憎くてあのような振る舞いをしているわけではない。ただ仇を討つために懸命に足掻いているのだと。だが足掻くにしてもそれが完全に空回りしている状況にあり、味方にまで当たり散らしている点が受け入れられない。加えて元々犬猿の仲である親矩殿と行動をともにしていることがさらにあの男を悪いように刺激している。

 結局俺が可哀想に映ってしまうのだ。…まぁ好都合ではあるがな。


「肥後守殿が私に謝罪でございますか?これはいったい何事でございましょう」

「某は右門殿が無断で山を下り石巻山が設楽によって落とされたという話が陣に届いた時、やはり我らの目の届く場所に置くべきだと後悔したのだ。いくら我らが陣を敷いた最も後方であったとはいえ、近くに戦を教えることが出来る者が誰もいないあの地に置いては、不測の事態が起きた際にまともな判断が出来るはずが無いとな。ゆえに兄上にも進言したのだ。もしものときは某が丘上を奪還するゆえ、陣を本陣の後方に置いてほしいと」

「まさにその通りでございました。言いつけを破り、山を下りると決断した時、まことにこの判断が正しかったのかと何度も自問いたしましたので」

「しかし結局右門殿は丘上は守り抜き、正面に陣取った西郷孫太郎を見事に討ち取って見せた。某はその報せを受けた時、そして数日ぶりの右門殿の姿を見た時、間違いなくそこに亡くなられたはずの山城守殿の背中を見た」

「父上の背、でございますか」

「うむ。誰かに何かこぼしているところなど見たことは無いが、山城守殿は御屋形様からの期待と、周囲の嫉妬に羨望を負担に感じておられたことであろう。そのような状況でも、山城守殿は功をあげ続けた。家中も先代が早くに亡くなられて大変であったであろうにな。その背は次第に大きくなり、尾張の織田弾正忠家と激しく争っていた我らにとってはなくてはならぬ存在となったのだ。某はいつもその背を追っていた。いつか隣に並べるようにと」

「肥後守よ。おぬし、前は兄である私の背を追いかけていると言っておったではないか」


 俺に気を遣われたのか、兄の泰長殿が間髪入れずに茶々を入れておられた。そのせいで興が削がれたのか、顔をグイッとそちらに向けて苦言を呈される。

 おかげで変な空気にならずに済んだ。まだ気を抜くような段階ではない。

 ここから決められるはずだ。果たして五本松城を落とすのか、それとも元泰殿の提言に従って城攻めを諦めるのか。

 どちらにしてもまだもう少し戦が続きそうな、そんな予感はしていた。

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