第15話 命がけの挟撃策
三河国八名郡石巻 一色政孝
永禄3年6月下旬
俺の予想通り、翌日の早朝から激しい雨に見舞われていた。
この三遠国境での戦況は雨の影響もあり完全に様子見状態に陥っており、どちらが先に動き出すかで結果も変わるのではないかと思わされるほどに静かである。
だがそんな中でも着実に手を回す者たちがいた。当然昨夜のうちに軍議を終えた俺たち一色もその中の1つである。
「まことによろしのでございますか。これが最後の機会であると思われますが」
「構いません。勝手をした責任はこの手で必ず片を付けますので、紀伊守殿にはそのようにお伝えくだされば」
「さようでございますか。ですがこれだけの兵で、さらに正面にも敵を抱える状況でいかにして背後まで守るというのでございましょうか。よければそれだけでもお聞かせいただければ。それを聞けば殿も安心されるかと思いますので」
朝比奈本陣より鬼のような形相の使いがやってきたのは、当然のことであった。
なぜならば、俺たちが陣取っていた石巻山の丘には現在設楽家の旗印が各所に掲げられているからである。
設楽家は当初別動隊の本隊と向かい合っていた者たちであるが、突如として平野部から撤退しており、以降行方が追えていなかった。
何らかの理由で撤退したのかと思っていたが、どうやら俺の予想は間違っていたらしい。下山前に配置していた山中の物見が、西郷元正とは別の伏兵を発見し、爺と道房らによって殲滅されたのが行方をくらませていた設楽貞通であった。
現在貞通は爺の配慮で生け捕りにされており、他大半の兵らが山中での奇襲により死んだとのこと。奴らが丘上を占拠した際に掲げるつもりだった旗印を利用したのは、その一連の報せを落人より知らされたからであった。
おかげで敵味方の誰もが石巻山の全域が反今川勢力の手に落ちたと錯覚したことであろう。視界が定まらぬ今だからこそ、この子供だましは生きるのだ。
「雨でございますので」
「雨?一色様、今はふざけている場合ではございませぬぞ!」
「微塵もふざけてなどおりませぬとも。正面の西郷らは雨のせいで思うように身動きが取れませぬ。我らは現地の民の協力を得て、先んじて周辺の土地について聞いておりますから、多少視界が悪くとも動くことが出来ます」
「奴らは月ヶ谷の者たち。この辺りの地形に詳しいはずでございますが」
この噛みつきよう。
朝比奈本陣からと言われていたが、送り込んできたのは泰長殿ではあるまい。もっと俺を見下している人物のような気がした。
だからぼろを出させようとしている。もしかすると俺のしりぬぐいだと丘上奪還を主張しておられる朝比奈肥後守元智殿かもしれない。
いずれにしてもあの丘に兵を向けられると困るのだ。なんせいるのは一色の兵と、現地の協力的な民ばかりなのだからな。
「この首を賭けてもよいです。石巻山の奪還も、敵方伏兵である西郷も蹴散らします。そう主にお伝えくだされば」
「まことにそう伝えてもよいのでございますね」
「武士に二言はございません」
随分と顔を真っ赤にして陣を出て行った。
もし失敗でもしようものなら、鬼の首を獲ったと言わんばかりに俺を非難することであろう。いったい誰の差し金かはしらぬが。
だがたとえあの男に尻を蹴り上げられずとも、最初から覚悟を決めていた。俺が騙されてつり出された段階で、遅かれ早かれ思い切った一手を打たねばならなかったのだ。せっかく爺らが背後を守ってくれたのだからな。
「まことにあのように追い返してよかったのでございますか?」
「杭を刺しておかねば、万が一にも石巻山に攻め込まれては困る。それに戸田撃退の件で、紀伊守殿は一色の強さを再認識してくださっている。さほど悪いようにはならぬであろう」
うるさく誰かが騒いでみても、すでに上げた功を覆すことは難しい。その分だけ俺には猶予がある。
だがその猶予も長くは続かない。背後をとられ、敵か味方かもわからぬ井伊が遠江への道を塞いでいる。俺にはどうでもできないと判断された段階で、別動隊の一部は爺らに兵を向けるであろう。さすれば同士討ちが始まってしまう。
それゆえに今日1日で決着をつける必要があるのだ。
「爺らが動く機は1つ。別動隊が八名の領主らとぶつかった時だ。西郷の伏兵は数の劣勢を覆すために、俺たちをどうにかしたいと思うはず。その前のめりこそ我らの」
家房にそう言いかけた瞬間であった。
何者かが血相を変えて飛び込んでくる。
「伝令でございます!敵方、石巻山の占拠を確認したことで、挟撃を狙うために松井隊に突撃を開始いたしました!!これにより他の隊も続々と衝突を開始。この戦、動きます!」
「よし。ならば陣太鼓を鳴らせ。孫次郎に下山の合図を送るのだ!」
「ははっ!」
伝令の者はその足で、一色の最も背後に陣取る者たちの元へと走る。そこにあるのは大量の陣太鼓であるが、使い方は本来のものとは違う。
とにかく派手にならし、視界の悪い状況で俺たちのことが何もわからないであろう西郷の伏兵に異変を察知させるのだ。
それと同時にこの陣太鼓が作戦開始の合図となる。一気に形成をひっくり返す。一色と西郷の数の劣勢など、策1つでいくらでもどうにでもできることを、これより俺の命を懸けて証明する!
「始まりますな」
「左兵衛、俺の傍を離れるなよ」
「かしこまりました。命に代えても殿をお守りいたします」
「違う。命大事に俺も守れ」
数少ない一門衆の昌秋が死ぬことは、直接一色家衰退につながる。
だがそんな理由だけではない。俺はもう誰も死なせたくはない。少なくとも俺のせいで死なせるわけにはいかない。
昌秋が死ぬときは、きっと俺を庇ってということになるだろう。それだけは決して認められないのだ。
「…かしこまりました。殿とともに生きて大井川領に戻りましょう」
「その言葉が聞きたかった」
昌秋の手を借りて俺は床几より立ち上がる。
雨のせいで鎧がいつも以上に重く感じる。だが最終的に俺の命を守ってくれるのはこの鎧であり、兜だ。決して手放すことは出来ない。
気合を入れるために頬を強く両手で叩き、昂ぶる気持ちを抑えるために何度も深呼吸をする。この人生で2度目だ。人を斬るかもしれないのは。
「敵襲でございます!敵襲!背後、石巻山より敵が下ってきております!」
「よし。皆で声を上げながら逃げ惑え!奴らに俺たちが混乱していると思わせるのだ!」
「「「おぉ!!」」」
傍にいた家房率いる護衛隊は続々と馬に跨り、そして大きく息を吸い込んで叫び声をあげる。
「敵襲!敵襲!」
「背後を取られたぞ!とにかく挟撃を避けて陣形を整えろ!!」
瞬く間に一色全軍は悲鳴に近い声や怒号が広がり、そして前衛を担っていた佐助と時真が率いる騎馬隊も俺たちを見捨てるような形でバラバラに散り始める。用意された陣は兵やら馬やらに蹴り倒され、あまりにも無残な状況になっていた。
一方で背後に目を向ければ、設楽の旗を掲げた兵らが懸命に俺たちに迫りくる。まるで本当に俺たちが襲われているように。
そして正面に目を向ければ、靄の中でかすかに見える。奴らが釣られて飛び出してくる姿が。
「来た」
「では参りましょうか、殿」
「あぁ、行くぞ」
俺もまた愛馬に跨り、そして出来る限りの声を発する。
「逃げずに戦え!!一色の誇りは散ってこそ示されるのだ!」
そんな敗戦直前の将兵のような叫びはむなしいほどに混乱の怒号と雨によってかき消される。
もはや西郷の伏兵は俺たちが総崩れしたと思い込んでいるであろう。だが結局その油断こそが命取りなのだ。
「殿!やりました!敵方西郷が崩れました!」
「よし。すぐさま藤次郎と新左衛門に人をやれ。兵を反転させ、西郷の兵を蹴散らせ」
「ははっ!」
状況はすぐに変わる。俺の首を獲ろうと迫り来る西郷らは、もう少しで総崩れの一色に攻めかかろうかというところで、その動きに乱れが生じたのだ。
なぜか。それは俺も奴らと同じ手を使ったからである。
伏兵による背後の奇襲。兵の数が少ない俺たち一色家は、使えるものをすべて使ってこの一戦を勝ちに来た。
背後に迫り来る大軍は、孫次郎が率いた現地の民だ。しかも戦うことを考えていない非武装の、石巻山の麓に暮らす民である。
先日の丘上での策を用いた際に酒をふるまっていたことで、今回の協力に結び付いた。またこの策に奔走してくれたのは石巻神社の神主である。方々に配慮していたことが、こうして全面協力という形で生きたのだ。
一方で爺と道房は山中を抜けて西郷らの背後を取った。落人ら栄衆によって伏兵の存在が無いことが分かっていたゆえ、軽装で敵方に察知されないように夜中のうちに移動させた。これも現地の民に協力を要請したうえで実現したもの。
おかげで前のめりになったあの者たちは、一切背後など気にせず突撃してきたのだ。早く八名・設楽郡の主力隊を助力したい一心で。
「俺たちも出るぞ。そもそも数の不利があるゆえ、多少なりとも奴らを削らねば」
俺の言葉に昌秋は何も言わずに頷いた。家房がいれば苦言を呈したであろうが、その家房も護衛隊を率いて散り散りになった演技のために不在である。
「できれば敵将、西郷孫太郎は捕えたいところであるが」
「この乱戦では難しいかと」
「…そうであろうな。無理であれば討ち取ることもやむなしだ。だが捕えれば、それだけ早くこの地での戦が終わる」
敵方主力は八名郡の西郷一族である。
西郷元正は嫡子であることから、やはり人質としての価値は非常に高い。高いが、捕えようと手を抜けばこちらが死にかねぬ。
それが一番やってはいけないことだ。捕縛できればラッキー。とにかく討つつもりで。その心づもりで行くべきであろう。
幸い、こちらにはすでに交渉のカードが1枚あるのだからな。
「よし、行くぞ」
「はっ」
「みな、突撃せよ!奴らにとどめを刺せ!」
視界も足元も悪いため、騎馬に跨る者は数少ない。今度こそは槍や刀を持つ歩兵と歩調を合わせて突撃した。
雨の中、手と刀を布でぐるぐる巻きにして西郷の兵らを斬る。斬る。斬る。
これまでの人生で殺した以上の人間を、たった数十秒のうちに殺す。手は血で染められており、それを拭うこともはらうことも出来ない。
そんな隙1つで命を落とす。
まさにここは地獄であった。
「殿!」
昌秋から呼ばれて俺は振り返った。まだかろうじて生きていた敵兵の持つ折れた槍が俺の体に迫り来る。慌ててのけ反ったが、当然そのような姿勢では馬に乗り続けることなど出来ない。
勢いあまって俺は後方へ転がり落ちたが、間一髪昌秋の援護が間に合って命拾いをした。絶命したその敵兵は、口から大量の血を流して俺を睨むように死んでいる。
「た、助かったぞ。左兵衛」
「ご無事で何よりでございます。ですが俺がもっと注意していればっ」
「違う。左兵衛が周囲の兵を制してくれていたから、たった1人に襲われるだけで済んだのだ。そう気負うな」
明らかに動転した様子の左兵衛であったが、このような戦場のど真ん中で叱責している場合ではない。
奇跡的に受け身を取れたこと、地面がぬかるんで柔らかくなっていることも相まって、どこかの骨をやった感じはない。痛いことには痛いが、動けぬようなことは無かった。
だが打撲はしたであろう。馬に跨ることは出来そうもない。
「すでに周囲は又兵衛らが護衛で固めております。今のうちに安全な所へ」
「それよりも状況はどうなっている」
「殿の策が当たり、すでに西郷は総崩れ。混乱に乗じて山へ逃げようとした者たちも、氷上の爺様が孫次郎の率いていた兵とともに応戦していると。しかい未だに西郷孫太郎らの行方は終えておりませぬ」
「そうか。…少し手を貸してくれるか」
「やはりどこか痛められましたか!?」
「少し尻を強く打っただけだ。少し経てばすぐに痛みも引くだろう。それよりも周辺の状況を知る必要がある。あとのことは」
「御三方に任せておけば万時解決かと」
「よし」
昌秋らの助けを借りつつ、俺は元々張っていた陣の跡地へと向かう。その場所は景里らが民とともに守ってくれており、すぐに出迎えられた俺たちは落人や景里からこの地一帯の状況を聞いた。
「そうか、本隊は敵方を押し込んでいるのだな」
「数の優位に加え、西郷本隊の押しが弱いことが幸いでございます」
「気が気でないのであろう。落人、奴らの陣中に潜り込み、こちらの戦況を敵方大将に伝えることは出来るか?」
「お任せを。すでに潜ませておりますので」
「よし。ならば西郷孫太郎元正が行方をくらませていることを伝えよ」
「かしこまりました。そのように」
「それともう1つ」
「どちらに」
栄衆が潜んでいるのは月ヶ谷城も同じである。随分と早い段階で高力清長の月ヶ谷城入りを確認したのだから、よほどうまく潜り込んでいるのであろう。
「月ヶ谷城にいるであろう高力与左衛門に、設楽小四郎が一色の手に落ちたことをそれとなく伝えよ。奴らも石巻山の丘に設楽の旗印が掲げられたことは耳にしているはずであるからな」
「はっ」
「西郷の嫡子が行方知れずとなり、その上に豊川三人衆の一角が今川の手に落ちた。三遠国境の攻防は十分にこちら有利に傾いている。そのうえで」
「西郷家当主が心ここにあらずとなれば」
「これ以上に被害を広げることは、三遠国境を預かる者として、蔵人佐から任された者として認められぬであろう。奴らがこの周辺から手を引けば、別動隊としての役目は十分果たしたことになる」
大胆かつ死と隣り合わせの強引な一手である。
まさにこの手は完成目前であった。あとは西郷元正と高力清長次第。奴らが早々に諦めれば、俺の見事な失態含めてすべて丸く収まる。というか収まってくれば困る。
「殿!」
「おぬしはたしか」
「はい!秋上隊、仁六でございます!秋上隊により西郷孫太郎元正を討ち取りました!山中に逃亡を試みたところを、氷上様が撃退。別の道を探していたところを我らが秋上隊によって討ち取った次第でございます」
どうやら西郷元正は死んだらしい。史実同様に。
だがまぁそれをやってしまったと思う必要は無い。これはこの地での戦を終わらせるために必要な犠牲であった。
西郷元正の父で、現当主である西郷弾正左衛門正勝は怒り狂うであろうが、間違いなく高力清長が間に割り込んでくるだろう。そして八名・設楽の領主らのまとめ役的存在の西郷と、三河騒乱の立役者である松平の仲が険悪となればそれだけ今川有利になる。
「よくやった。首検分を早急に行いたいところであるが、未だ西郷の兵らは抵抗を続けるはずだ。まずは蹴散らせ」
「かしこまりました!」
仁六は秋上家先代が可愛がっていた男だ。歳は佐助よりも随分と下であり、俺よりも年上だ。
元々は戦で父親を失い行く当てなく彷徨っていたのだが、先代がその境遇を哀れに思った上に仁六の母に惚れたために側室という形で秋上家に迎え入れた。
つまり佐助にとって血のつながらない弟にあたるわけだ。まぁ仁六に関してはその出自を気にして秋上の名を名乗らぬようだが、佐助はどうにか弟としてふるまってほしいと思っているとのこと。
まぁその話はよい。今は目の前のことに集中せねばならぬ。
「あと少しの辛抱だ。お前たちも油断せぬようにな」
油断して尻を強打した俺が言っても説得力は無いが、昌秋を筆頭にみながうなずく。いくら後方に移動したと言っても、この地が必ずしも安全というわけでは無いのだ。そんなことは戦に出た経験のあるみなの方がよく分かっているに違いない。
だからこそ改めて思う。早く終わってくれ、と。
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