第14話 伏兵の行方

 三河国八名郡石巻 一色政孝


 永禄3年6月下旬


「殿!朝比奈様より伝令でございます!」

「紀伊守殿はなんと」

「勝手に山を下りてきたことは、敵方伏兵による奇襲を食い止めた功によって不問とすると。引き続き正面の敵集団を牽制し、間違っても別動隊本隊の横腹を突かれぬようにと」


 伝令の言葉を聞いた俺の隣で、家房がホッと一息吐いた。

 朝比奈の陣より人があったと聞いた瞬間より、明らかに顔色が悪かったゆえ不問とされて一安心というところだろうか。

 たしかに持ち場を放って山を下ったことは軍令違反であり、何か責められる可能性は考えていたゆえに拍子抜けというか、やはり家房同様にホッとした気持ちにはなりかけた。

 だがそれよりも問題がある。

 目の前にいる一団こそ、元康より派遣された高力隊であると信じてやまなかったのだが、騎馬隊突撃の乱戦の最中に確認した限りだと、奴らは西郷元正ら月ヶ谷城の兵であったとのこと。

 つまり栄衆の監視を潜り抜けて、城から兵を山中に移動させていたことになる。


「…まぁ言えることは一つだ。相手が誰であろうと関係ない。油断なく奴らを監視し、迂闊な衝突は避けよ」

「そのように使番を立てます」

「あぁ。特に新左衛門は気が逸る癖があるゆえ、強く言い聞かせておくのだ」

「はっ」


 昌秋が傍を離れ、周囲には家房ら護衛兵ばかりになる。

 それにしても救いであったのは、こちらに動きを勘づかれぬために相手も少数であったこと。そうでなければ、たった200にも満たない俺たちが足止めなど出来るはずもなかった。


「殿、如何されますか」

「…如何も何もない。先ほど左兵衛に伝えた通りだ」

「石巻山の方は無事でございましょうか。もう種子島の音も聞こえなくなりましたが」

「当初の報せでは戸田の連中もさほど多かったわけではない。あぁ、そういえばこのことも紀伊守殿に伝えておかねばな」


 ついつい後回しにしていたが、実際石巻山を巡って衝突が起きたのだ。連中は間違いなく黒である。

 白か黒か確信が持てないからと、これ以上報告を控える必要もない。


「小岩、紀伊守殿の陣に向かってくれ。俺からの言葉を間違いなく伝えよ」

「かしこまりました」


 護衛に紛れて鎧姿であった小岩という男は、命じられた直後よりその場から離れる。あれは家房指揮下の護衛に紛れた栄衆から配置された護衛である。

 荒事が比較的苦手な栄衆の中で、戦闘要員である貴重な存在だ。

 身を守る術も習得しているため、こうして危険な単独行動を任せるために傍に置いていた。何もないときには昌秋同様に誰の指揮下にも入らない護衛として近くに置いている。


「…しかしまさかでございました。まさかこれほどまでに松平家に同調する者たちがいたとは」

「不思議な話ではあるまい。そもそも三河の領主らは今川家に対して大きな不満を持っていた。それは誰もが知っていることであろう」


 今川家は背後を武田・北条両家に任して、三河から尾張、そして美濃、近江を経ての上洛を目指していた。

 三河は当時の今川勢力圏の対織田最前線であり、常に戦の危険に晒されていた。加えて領主らにのしかかる税という負担。

 三河の領主らは民からの徴収だけでは足らぬと、領主やその一族までもが民と同様に田畑に通っていたほどの有様であったという。

 そして徹底的な監視と、裏切り者に対する制裁。三河でこれだけの反乱が起きたのは、ある種必然であったのだと俺は思う。

 ちょうどかつて三河で大勢力を築いた松平の子孫が立ち上がり、それが思った以上に上手くいっているゆえに、同調者が日に日に増えているのだ。


「というよりもそのような話を大きな声でするな。誰かに聞かれたらどうするのだ」

「…これは失礼いたしました。ただそうであったとしても」


 悔しそうな顔で敵方の陣を見つめる家房。しかし家房は知らないのだ。

 隣で宥めている俺も今川を裏切ろうとしていることを。いったい家房や他の家臣らは、俺が今川を裏切ると伝えた時にどのような表情をするだろうか。

 少なくとも家臣の一部は一色家から離れるとは思う。俺の離反を土産に今川館に向かうやもしれん。あるいは近場の有力者である朝比奈泰朝殿の居城である掛川城か。

 いずれにしても、相当にうまくやらねば一気に滅ぼされることになるだろう。そうならないためにも、決して俺から離れられないように強き絆で結びつかねばならない。

 その猶予を含めての3年である。


「急ぎの報せでございます」

「落人?なぜここに」

「石巻山を監視していた者と、月ヶ谷城を監視していた者より報せがありました。何者かが数人を連れて月ヶ谷城に入ったと。城に潜ませていたもの曰く、その正体は高力与左衛門であったと」

「なに?」


 たしかに俺たちが捉えたのが西郷元正の時点で、高力清長が行方をくらませているなとは感じていた。

 だが多数の兵を率いているわけではなく、ただ少数の者を連れて月ヶ谷城に入ったと。

 そもそも兵を連れてきていないのか?なぜそのような危険な橋を渡るのかと。


「…」

「それともう1つ急ぎで」


 落人からの報せはまだあるようで、俺が話を聞こうと床几の前方側に体重をかけた瞬間である。

 背後の山より「ドォン、ドォン」と陣太鼓の音が鳴り響き、それはそれは凄まじい雄たけびが響く。ほんの一瞬の出来事であったが、それがいったい何を示しているのかを察してしまい、一気に血の気が引いていく感覚に襲われる。


「落人!」

「敵方の撤退した設楽の行方が追えました。奴ら、石巻山に潜んでおります」

「言うのが遅いわ!」


 グルっと周囲を見渡し、そして熟考した。

 そもそも伏兵は目の前の連中だけだと、勝手に思い込んでいた。ゆえに少数で接近してくる戸田隊を爺や道房らに任せて、俺は迷わず山を下ったのである。

 にもかかわらず、まだ敵が山に残っていた。今あちらにいる兵の数は50とちょっと。その内10は種子島を与えたばかりの長距離専門の部隊。

 丘に接近されれば、実質戦うことが出来るのは道房ら60だけだ。さらに全員がすでに戸田隊との交戦ですり減っているであろうことを考慮すれば、もっと少数で丘上を守っていることになる。

 事態は最悪以外の何物でもない。何物でもないのだが、だからといってここを離れるわけにはいかなかった。

 2度目の軍令違反は間違いなく重い罰が下されるだろう。うつけがどうであるとか、そんなことを言っている場合ではなくなる。

 それに俺たちがここを離れれば、結局別動隊は側面を突かれることになる。よくて敗走、最悪壊滅するであろう。

 さすがにそのような選択をすることは出来なかった。少なくとも今は味方であり、後々の評判を思っても下手を打つことは出来ない。でなければ家中も外の人間も、誰も俺を信用しなくなってしまう。


「落人」

「はっ」

「石巻山の旧陣地の様子を確認せよ。最悪の場合、丘を捨てて山中に身を潜めるように俺が命じたと爺に伝えよ」

「かしこまりました」

「それと月ヶ谷の件、あれのことは気にするな。監視に当たった者に対する罰則も認めぬ」

「…はっ」


 深く頭を下げた落人はすぐにその場より離れた。

 だがあの顔は明らかに気にしていた。目以外は布で隠れているが、一目見てその感情が読み取れる。

 それなりに付き合いの長い俺の目をごまかせるはずもない。


「よろしいのですか」

「仕方あるまい。俺たちはここから手が離せない。だがだからといって爺らを見殺しにするつもりもない。先ほど小岩を送ったばかりだが、もう1人本陣に送らねばならぬようだな」


「はぁ」と思わず息がこぼれる。

 どうして俺の初陣はこうも厳しいのか。本来であれば勝ち戦を慎重に選んだうえで、万全を期して勝ちを得るというものだと聞いていたのだがな。

 だがまぁ、勝利確実と言われていた桶狭間に帯同させられなかっただけマシと言えるのか。いくら悪知恵があったとしても、あの戦ではおそらく生き残ることなど出来なかったと思う。つまりはまだマシ。あぁ、幾分もマシだ。


「…」

「殿」

「…」


 家房からの呼びかけにも応えられぬほどに気分が沈みこんだ。死を意識して、身体中の熱がサーッと引いていくのがわかる。

 頭の中が真っ白になる。余計な情報が一切なく、ただ死を強烈に意識したために感覚が変に研ぎ澄まされたのかもしれない。


「と、殿?」

「…雨だ」

「雨でございますか?たしかに雲がかかっておりますが、雨が降るようなものでは」

「匂いがする。雨の匂いが」


 雲の流れから風の向きを予測する。風上にあたる方角を見上げ、じっと目を凝らすも家房が言うように雨が降るような雲など無かった。

 だが今はおおよそ6月下旬。梅雨の季節であり、いつ雨が降ってもおかしくはない。

 そして桶狭間以降、この辺り一帯でまとまって雨が降った記憶は無く、梅雨が到来したのかどうかもあやふやだ。

 もしその時期が来たというのであればどうだ。

 これは好機なのではないか?


「いったん背後のことは考えることを止める。目の前のことに集中しなければならない状況だ」

「つまりどういうことでございますか」

「今日の夜、藤次郎と新左衛門を呼べ。軍議を開く」

「このにらみ合いの最中に軍議でございますか!?それはあまりにも危険であるように」

「言うたはずだ、又兵衛。今日のうちに間違いなく雨が降る。程度にもよるが、奴らは雨で夜間に身動きなど取れぬはず。今晩であれば将が持ち場を離れても、問題は絶対に起きない」


 足場も視界も悪くなる。

 雨が降れば松明だって維持できない。月明りも無く、本当にただ真っ暗闇の中を突き進む必要があるわけだ。

 いくら平野であるとはいえ、ただでさえ少ない兵をこのような方法ですり潰そうとはさすがに考えぬであろう。

 なぜ父親の窮地を救いに行かず、あえて横腹を突こうと画策したのかわからないが、これが西郷を混乱させる絶好の好機。もはや俺にはそのようにしか見えなかった。


「まぁ見ていろ。一色がこの戦場を動かす。父上亡き一色は終わったなどとほざく連中に目にもの見せてやるわ」




 三河国八名郡石巻 氷上時宗


 同時刻


「氷上様までついて来られずとも」

「おぬしらだけでは心配であるゆえにな。それに発案したのは儂なのだから、策の成否を最後まで見届けねばならぬ」


 戸田甚五郎宣光を火縄銃にて退けた後、殿が残していかれた山中の物見より伏兵がまだ潜んでいることを伝えられた。

 あの麓でにらみ合っている者たちが囮であったことにようやく気が付いた我らにはあまりにも残された兵の数が少ない。

 到底丘上で迎え撃つことは出来ぬ。いくら相手方の兵が少なくとも、こちらは一戦終えたばかり。

 まともにぶつかれば、多少の時間稼ぎが出来るくらいで壊滅は免れぬであろう。

 そこで少数であるからこそ、山中であるからこその罠を仕掛けることにした。再び石巻神社の神主に協力を依頼し、神社に避難している民を景里ら種子島隊とともに丘上に陣取らせたのである。

 そして火を焚き、いかにもその場に我らがいるように見せかけた。

 一方で若い連中を多く率いている道房らとともに山中の木の上に潜み、弓を構える。うっそうと茂った木々のおかげで、儂らはまんまと身を隠すことに成功する。

 これよりは卑怯な戦いと言われるやもしれぬが、一色家の宝を守るための戦い。決して失敗は許されぬ。


「足元には十分注意を」


 道房がそのように忠告しようとしたところ、かすかに異音が耳に届いた。これは間違いなく地面を踏みしめる際にどうしても発してしまう音である。

 その音の主は獣か、あるいは…。


「来たな」


 周囲を見渡せば、この策の意味を理解しておる者たちがジッと息を押し殺して弓を構えておる。

 少しでも体を動かせば、奴らの視線はすぐさま上に向くであろう。

 ゆえにジッと、ジッと我慢する。

 伏兵全てが弓の射程距離に届くところまで。

 儂は体の軸が安定せぬことを理由に弓を持ってきてはおらぬが、その代わりよく辺りに目を向けることが出来る。静かに手を上げ、あと少しの時間を待つ。

 そしてその時は来た。山中をひっそり進む一団の一番後ろの集団に敵将と思わしき人物が。


「今じゃ!やれ!!」


 儂の声に反応した兵どもが上を見上げるか、その時にはもう遅い。

 数多の悲鳴を上げながら、敵兵は地面に崩れ落ちていく。そしてそれは例外なく、後方に陣取っていた将にも襲い掛かる。

 馬ではない分、身軽に体の向きを変えたが手遅れであろう。足と肩に矢がしっかりと刺さっておった。


「1人も逃がすでない!間断なく、矢を射かけるのだ!!」


 あちこちから「おぉ!!」と返事があり、誰も地面には降りずにただひたすらに矢を撃ちかける。

 数人が誤って枝から落ちたようであるが、下の低木で落下の衝撃をある程度和らげているはず。

 枝が身体を貫いていなければ助かる。それよりも敵兵を逃がさぬことである。

 戸田隊の状況を把握させぬためにも、別動隊の背後を取られぬためにも、すべてをこの場所に閉じ込めねばならぬ。


「三郎!」

「お任せを、氷上様!」


 儂の合図で下に飛び降りた三郎と、数名の兵らが息のある者たちを見逃さずとどめを刺していく。

 木の上に兵が数人残っているのは、万が一があって全滅などせぬため。


「敵の将を捕らえました。ここで首級を獲りましょうか」

「まだ使えるやもしれぬ。それに聞かねばならぬこともあるゆえ、縄をかけて戻るといたそうか。みな、よくやってくれた」


 たった数十人で敵兵を追い返しただけのことはあり、みなは派手に喜ぶよりも静かに息を吐く程度におさめる。あちらに戻ればいくらでも休息の時間をとってやろう。

 しかしまことによくやってくれた。

 さすがにこれ以上の伏兵はおらぬはず。儂らはどうにか殿の御背中を守ることに成功したのだ。

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東海の覇者、桶狭間で没落なれど ー異伝ー ~天下を統べた男の軌跡~ 楼那 @runa-mond

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