第9話 井伊家の独断

 三河国八名郡石巻山 一色政孝


 永禄3年6月下旬


 八名郡南部に位置する石巻山。

 俺たち一色隊が陣を張ったのは、この山の麓付近の高台である。ここであれば、平野部で巻き起こる戦を上から見下ろすことが出来る上に、石巻山の中腹と麓にある石巻神社は間違いなく今川に協力的であるため、背中を心配する必要もない。

 よって俺たちは泰長殿に託された任に集中して取り組むことが出来るというわけだ。


「爺、良い場所に陣取らせてもらえたな」

「端から朝比奈様は我らに期待をしていないということでございましょう。ですが初陣の殿にとっては好都合でございます」

「まっことその通りだ。戦を上から見る機会はそうそう無いであろうし、西郷らの出鼻をくじくためにも、この一戦の意味は非常に大きい。はたして三河北東部を連戦連勝で奪い取った西郷ら相手に、未だ結束しきれぬ今川遠江衆がどこまで出来るのか見ものだな」


 俺の本心を知る爺は何やら言いたそうに俺を見ていたが、誰が聞き耳を立てているかもわからない状況であるゆえにあえて口には出してこなかった。

 その代わり、俺が泰長殿より与えられた任を全うできるだけの紙の束を握りしめている。


「そのように握りつぶしては、こちらに何かあったのではないかと紀伊守殿が心配されるのではないか?」

「戦場で綺麗な状態で届く文など無いと思いますぞ、殿。運ぶ者もみな命がけでございますので」

「そりゃそうだ。ところで、敵方も陣を張り終えたようだがどう思う?」


 丘から見下ろせば、今川別動隊と西郷・菅沼隊が両者ともに飽海川より東に陣取っている。

 しかしこれまで聞いていた情報に比べて、西郷・菅沼の兵は随分と少ないように見えた。その理由として考えられることはいくつかあるが、最も有力なのは今川の救援隊が出たことを知って、八名郡と設楽郡の守りを固めたというのが一般的であると思われる。

 だがこちらの侵入をただ黙ってみているだけだと、三河中部から東部にかけての城を落としている松平方に被害が出かねぬため、やはり孤立させる目的で少数の兵を動員した。

 ゆえに俺たちが聞いていたよりも数が少ないのやもしれぬ。

 それ以外に理由があるとするならばいったいなんであろうな。


「本坂を見張る者より報せが届きました。昨夕ごろ、本坂峠に井伊の奥山・井平ら分家の者たちが兵を率いて現れたと。決して峠を越えるわけではなく、ですが兵装していたため動向を注視しておりましたが、結局何か事を起こすわけではなかったと」


 爺が床几に腰を掛けようとしたところ、音も無く落人が現れてひっくり返りそうになっていた。

 だが爺とて長らく戦場に立っていた者だ。そう簡単に尻をついたりはしない。

 そんな爺の奮闘など目にも入っていないかのように、落人は姿を現してすぐに三遠国境を跨ぐ手段の1つとされていた本坂峠の異変について報告し始める。


「目的はわからぬのだな?」

「はい。ですがここに居座っているために、月ヶ谷に入っている西郷孫太郎は身動きが取れずにいるようでございます」


 ようやく床几に座って一息ついていた爺は、落人からの報告をシレっと聞いていたようで、「ほぉ」と感嘆の声を上げた。

 その意味が分からなかった俺は、振り向きながらその「ほぉ」の真意を尋ねてみる。


「どういう『ほぉ』なのだ、爺よ。井伊か、西郷か、それとも別の者か」

「まごうことなき井伊に対する賛辞でございます。この戦でどちらが勝ったとしても、井伊はこの本坂峠への出陣を言い訳することが出来るのでございます」


 俺が落人を見ると、こちらも見ずに頭を下げていた。栄衆では真意を探りきれなかったゆえのショックか。それともただ静かに耳を傾けているだけか。


「どういうことだ」

「井伊はあの負け以降、長らく日和見とも受け取られる行動を一貫して続けておりました。此度の三河動乱を静める出陣も病を理由に断っております」


 代理の者がいないと当主直盛は言い張った。

 井伊家は桶狭間での敗戦で一族を失い、さらにそれよりも前に今川との行き違いでさらに一族を失っていたことが今になって響いていると大嘘をついている。

 だが後者に関しては井伊家家老の小野の関与があるため、心優しき御屋形様は井伊の日和見を実質許すような言葉をかけてしまったのだ。

 それゆえ、此度の三河平定に井伊家は不参加なのであろう。

 そんな事情があったにも関わらず、井伊の一族らが本坂に兵を動員した。


「本坂への出陣でございますが、西郷が動けていないことを考えると、おそらくあの者たちも知らなかったことなのでございましょう。ですが我らも朝比奈様よりそういった話は聞かされておりませんでした。そうでございますな?」

「あぁ、悪意を持って情報を流されていなかったとかでないのであれば、間違いなくそういった話は聞いていない」

「であれば、やはりこれは井伊様の独断で動いたものでございましょう。そして何もかも秘密で隠した行動は、後々責任追及された際にどうとでも受け取らせることが出来るのでございます」


 爺の話を聞いていて、1つ浮かんだことがあった。

 日和見を選んでいる井伊は、どちらに傾くかをジッと遠くから見ているということだ。今川優位に運んでいるのであれば、病が治ったとシレっと復帰すればよい。

 松平優位に運んでいると思えば、おそらく人のやり取りくらいはしているであろうから、その伝手を使って松平に与すればよい。

 だがずっと日和見ではいられない。労なく益を得ようとする者は、何者からも信用されぬものだ。そこでここにきて動きを見せた。


「もし此度の三河平定で松平優位になれば、本坂への出陣について西郷救援のために待機していたと嘯くだろう」

「今川家優位な結果となれば、西郷孫太郎が居城である月ヶ谷城から離れられぬように、本坂に詰めたと訴えましょうな」

「そういうことか。だがそれで信用は勝ち取れぬ」

「少なくとも今川家より兵を向けられることはございますまい。松平も三遠国境を越えてまで井伊をすぐ攻めるということはございません。井伊谷という土地はそういった意味でも非常に良い場所にあるのでございます」


 今の今川家に、味方だと訴える者を攻める余裕などない。関口家の一件で、これ以上家中に火種を持ち込む行動は控えなければならない。

 ゆえに井伊は赦される。少なくとも今回の勝手な行動に関しては。

 まことによく考えられた行動である。戦場で義元公をお守りする役目を放って逃亡した男がこのようなことを考え付くとは到底思えなかった。

 何やら操っている者が背後にいそうな気がしてならない。


「とにかく、この情報を本陣にお伝えしろ。紀伊守殿の耳にも入れておかねばならぬ」

「ならば使番の用意をいたしましょう」


 爺は近くにあった者を呼び寄せて使番の用意をさせる。

 一方で俺は他の報せを落人から聞いていた。


「それと今橋城下、吉田山龍拈寺口にて松平蔵人佐についた者たちの人質を一斉に処刑したとの報せもございました。こちらがその処刑された者たちでございます」


 手渡されたくしゃくしゃの紙には大勢の名前が記されていた。総勢13名。

 おそらく人質の全てではないと思われるが、明らかに裏切りに対する見せしめをわかりやすく行った形である。

 特に松平独立から活発な動きを見せていた西郷・菅沼・設楽といった三遠国境の者たちと、今川一門の鵜殿家が籠る上ノ郷城やその筋の者が籠っている周辺諸城を攻撃している松平の分家筋に当たる者の人質が大半であった。


「刑は串刺しでございました。それは凄惨な光景であったと」

「…であろうな。しかし肥前守殿も覚悟を決めたな。御屋形様よりそのような命は無かったはずだが」

「実は駿河よりそういった命があったことは事実でございます。あのときにはそういった話がございませんでしたが」

「なに?御屋形様からの命であったと?」

「はい。駿河評定が終わった後、使いが今橋城に入れられたとのこと。この命があったため、今橋城では入念に準備したうえで刑を執行したようでございます。場所選びやら、人質奪還が行われぬように周囲の防衛やら、相当に気を遣ったようで」

「まぁ、それはそうなのであろうが」


 三河における今川方の状況は決して良いとは言えない。

 御屋形様であればどうにか現状維持をしてでも、残された今川方を救うかとも思えたが、まさか逆に刺激する方向で事を進められるとは想定外だった。

 ゆえに歯切れの悪い返事を落人にしてしまった。

 だが武田・北条を領内に入れるという話も外からの入れ知恵だったことを思えば、これも誰かに唆された可能性がある。


「もういくところまで行きましょうな」


 紙を俺から受け取った爺はため息を吐く。

 だがそれは俺も同じだ。

 人質を今殺してしまうのは悪手である。特に松平の血族に手をかけるのはどう考えても早かった。

 なぜならば捕虜交換の手札となるからである。

 例えば史実だと上ノ郷城を元康に落とされた鵜殿家。当主は討ち死にしたが、一族は松平方に捕らえられていた。これを元康の妻子交換の手札として使われている。

 他にも今川・織田の三河攻防の折には、今川の捕虜となっていた信長の庶兄織田信広が当時織田家の人質であった元康(当時竹千代)との交換の手札とされたこともあった。

 とにかく人質とは裏切りを抑止するもの以外の使い道もあるのだ。

 それを今橋城でまとめて処刑した。名簿の中には上ノ郷城に攻撃を仕掛けている竹谷松平家当主の妻子、形原松平家当主の妻などもある。

 この形原松平家当主の妻は、元康と信長を引き合わせたといわれる水野家の出身であり、今回見せしめとして選ばれた理由はこの辺りも関係がありそうだと思わされる。


「あまり言いたくはありませんが」

「爺、それ以上言うな。下手に聞かせられん」

「わかっておりますがな。これで上ノ郷城はさらに危険に晒されました。本隊到着まで耐えることが出来るのかどうか」

「丹波守殿に賭けるしかない。どうにか間に合ってくだされば、きっと攻め寄せる松平方を追い払うことも出来るであろう。間に合わなければ悲惨なことになりかねんが」


 捕虜が無事でいられる保証はない。

 鵜殿家はそれを理解しているのであろうかな。少なくとも現当主である長照殿は理解してくれていると助かるが。

 でなければ、いずれ手に入れたい三河の地は悲惨なことになっているやもしれん。それを後から整備しなおさなくてはならない労力を考えれば、ここは小競り合いで互いが手を引くくらいがちょうどよいのだ。

 だがそうはならぬであろうな。御屋形様の行動を見ていると。


「敵方に動きありでございます!」


 ため息を吐いても良いだろうかと、周囲を見渡していた時、突如として複数の兵らが陣に飛び込んできた。

 所属は爺が氷上より連れて来ていた物見兵である。


「どこが動いた!」

「はい!動いたのは敵方右翼にあった設楽小四郎貞通でございます!」

「豊川三人衆の一角が早くも動いたか!?奴らが兵を進めてきたとなると、他の者らも動きましょうな」


 報せを受けた俺はすぐさまその場を立ちあがって目下に広がる平野部の様子を見たのだが、敵方が攻めてきている様子が無い。

 爺も遅れて様子を見ていたのだが、やはりこの違和感に気が付いたようだ。


「どういうことでございましょうか、あれは」

「設楽は兵を前に進めていない。むしろ陣を引き払っているのか?」


 敵方の右翼隊となると、俺たちが見ている場所から一番といい場所に陣取っているということ。

 そのため奴らの動きがはっきりと見えているわけではないが、その集団が前進しているようにはどうしても見えなかった。

 むしろその影はだんだんと小さく、まるで撤退しているように見える。


「おかしいですぞ。これから戦が始まるというところで陣払いなど。その方、これはどういうことか」

「陣払いの状況はこちらでも掴めませんでした。ですが我らがその動きを察知したころには、すでに大半が陣を払い始めており、追撃を避けるために最低限の兵を残しているだけでございました」

「どうも匂うな。これも紀伊守殿から命じられた任の1つとなるであろう。落人、人をやって探ることは出来るか?」


「すでに設楽勢に手下を潜らせております。すぐに情報を集め、殿のもとにお持ちいたしましょう」

「さすがに根回しが良くできているな。では頼む」

「はっ」


 落人は姿を消したが、爺は浮かない顔で敵方の陣をジッと見ていた。


「どうした。不安でもあるのか?」

「ございます。爺は不安でございますぞ、殿。豊川三人衆が同時に松平に与したことは理解できますが、井伊が日和見を続けている状況に加えて、人質の一斉処刑。あれだけ義元公の時代に安定していた三遠国境付近がここまで荒れるとは」


 たしかに今川にとって良くないことが重なりすぎている。

 ここまで荒れて得をするのはいったい誰なのか。もはやそういうことを考えなくてはならないところまで来ている。

 そんな予感がした。


「…」

「殿?」

「いや、この状況を一番美味しいと感じる者は誰なのかと思ってな」

「それは…。やはり松平なのでは?」

「蔵人佐は多数の分家の人質が処刑されて、暴走しかける感情を抑え込む必要が出てきている。無茶な攻めなど容認できぬであろうで、必ずしも蔵人佐に利があるとは言い切れまい。それにもし仮に感情を抑え込むことが出来なければ、三河での争いはより一層激化する」

「そうなると我らも兵を出し惜しみはして、おれま…」


 爺と俺はほとんど同時にとある人物の影に行き当たったらしい。

 この騒動で誰が最も利するのか。三河が荒れ、それを平定するために遠江が疲弊する。

 井伊の動きに三遠国境付近の者たちが翻弄されている。しかも無断での行動であるため、両者ともに得が無い。

 しかし突き詰めれば、あまりにも大きな恩恵を受けている連中が確かに存在しているのだ。

 その人物とは。


「「武田大膳大夫(様)」」

「やはりそう思うか?」

「思います。ですが武田大膳大夫様は念願である北信平定のための支度を進めておられるとか」

「その間に今川を弱らせている。あり得ぬ話ではない」

「…長らく同盟関係にあった武田が裏切りましょうか。まだ盟の証は互いの御家にあるはずでございますが」

「今手を切れば、2対1の構図がすぐに出来上がってしまう。さらに関八州の争いがあるため北条家は無いにしても、何のしがらみもない今川であれば、越後や上野の勢力と手を結ぶことも出来てしまうゆえ。またそれとは別に美濃も今川の味方とすることが出来る」


 美濃斎藤家と今川は共通の敵が存在する。それゆえに、対武田同盟というわけではないが、ある程度話を聞いてもらえる間柄にはあった。


「時期尚早の手切れは武田の包囲網が成ることもあり得ると」

「それを危惧して、あからさまなことはしてこないと俺は予想する」


 だが下地作りには念を入れるだろう。

 井伊の行動もよくよく考えれば武田に利するものが明らかに大きい。今回の落人からの動きは十分に我らを翻弄している。

 当初は言い訳づくりだと思っていたが、これで井伊家はどちらにも良い顔が出来て、さらに時間を稼ぐことが出来る。

 その時間稼ぎの目的が、武田の北信平定を終えた後に南下してくるまでのものである可能性も十分にあるわけだ。


「…」

「朝比奈様にお伝えすべきでございましょうな」

「いや、少々計画を早める必要があるやもしれん。井伊家は派手に動き過ぎた」

「ま、まさか!?」

「小野丹波守にはせいぜい役に立ってもらうとしよう。とにかく最悪だけは回避せねばならぬ」


 護衛に紛れていた栄衆の1人に命じた。

 これより井伊谷領内と駿河にてとある情報を流す。

 井伊谷領主、井伊直盛は松平と手を結ぶために城に引きこもっている。


「いや、ついでに武田家に対する牽制もしておくか」

「殿、声に出ております」

「誰か近くで聞いていたか?」

「いえ、儂とそこの者だけでございます」

「ならばよい。その方、龍賦する情報の中に武田家内通の疑いもかけさせよ。だが前面に出すのはあくまで松平だ。武田はついで。出来るか?」

「必ずや」


 そういってこの場を離れていく。


「下手をすれば武田と戦でございますぞ」

「武田とは戦にならぬ。どうせそのような余裕などすぐになくなるゆえに」


 あと1年もすれば第四次川中島の戦いが起きる。4度目にして初めてまともに衝突する両家であるが、ここで武田はあまりにも手痛い敗北を喫するのだ。

 主だった家臣らを大勢失い、武田信玄の右腕と称されている弟も討死。

 そのような状況で遠江にまで手を出す余裕など絶対に無い。井伊が仮に武田と繋がっているのだとすれば、この段階で武田臣従の選択肢は消える。まぁその前に直盛が消えることになるわけだがな。


「さて、井伊がどうなるかはこの地での戦が終わった頃にわかるであろう。御屋形様のお傍にある者も気が気でない思いをするのであろうな」

「…まことにその通りでございましょう」


 爺の言葉を聞きながら、思わず俺はほくそ笑んでいた。

 遠江を喰らう下地を整えているのは俺も同じである。よそ者に勝手などさせてやらぬ。


「ではでは。あとは本来の御役目を全ういたそうか」

「それが良いかと」


 設楽は撤退したが、依然として西郷・菅沼は陣を残している。じきに動き始めるだろう。

 問題は先にどちらが動くか。この一点だけであろうな。

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