第6話 岡崎城の一室で

 三河国額田郡岡崎城 酒井忠次

 

 永禄3年6月上旬


 あの歴史的敗戦から数十日が経った今日、とある方々が城に入られた。

 そのお姿を見た我が殿は、人目もはばからずに傍へと駆け寄られる。背後にある者たちに目もくれず。


「おぉ!瀬名!竹千代!亀!よくぞ無事で戻ってくれた!」

「殿!?苦しゅうございます」

「そう言うな!ずっとおぬしらの行方を捜しておったのだ!三河のこともあったゆえ、大々的に人を割けなかったことがどれほどもどかしい気持ちにさせられたことかっ」

「ご心配をおかけして申し訳ございません。ですがこうして戻ったのでございます。ようやくあなた様の無事を確認することが出来て、ホッといたしました」


 御方様は目に涙を浮かべながら、殿のお顔を触っておられる。殿もまた目じりを真っ赤に染めながら御方様を抱きしめておられた。

 この感動的な再会に、場に居合わせた者たちは歓喜の声を上げる。

 ただ複数の者たちを除いて。

 その中で白いひげを蓄えた男と目があった。そしてかすかに視線を落としたのは、おおげさな動きで場の雰囲気を壊さないための配慮であったのであろう。

 殿にはしばらくこの場に留まっていただこう。あの者たちが何者であるのかは、すでに一部の側近らは知っているゆえに。



「氷上殿、まことに此度の助力に感謝いたします」

「いやいや。これも主命でございますのでな」


 氷上新九郎時宗殿。殿の師兄であり今川一門衆に連なる御方、一色右門政孝様の後見役であり、一色家の筆頭家老であられる御方。

 すでに随分とよい年齢であるはずであるが、こうして危険な任を自ら行われていることからも、その信頼の厚さをうかがい知ることができる。


「ところで此度はどうしてこのようなことを?下手をすれば今川家で目を付けられることになりますが。もしや降伏の説得でございましたか?」

「説得ではござらん。そもそも今さら頭を下げたところで、関口家の二の舞になるであろう。殿は師弟である蔵人佐様を同じ目に合わせようとなど思われてはおりませんのでな」

「ならばいったい…」


 一色家は歴こそ浅いが今川家の忠臣一族の1つとして名を連ねるほどである。とは言っても、その評判は先代の山城守様がたった一代で築き上げられたもの。

 それでも右門様とて師兄が今川の御当主様である。長らくともに学ばれたとのことであるが、不仲であったなどという話は一度たりとも聞いたことが無い。

 むしろあの事件以降はよく仕えておられたとも聞いていたが…。


「殿は松平家に対して、かつての約束を果たしてもらいたいと仰せでございましてな」

「かつての約束、でございますか。いったい何のことを」

「酒井殿であればご存じのはず。旧松平・三河派閥の結成とお家騒動の回避。こういえば伝わりましょうかな」

「!?」


 思わず私は言葉を失ってしまった。

 氷上殿が今しがた口に出されたこと。それはかつて義元公が割れる一門衆の勢力争いに均衡をもたらすために提案されたものであり、松平家中に潜む分裂危機を回避するために手を打ってくださったとある縁談話のこと。

 山城守様の死により、この話は白紙とされるものとされていた。殿としてもお家騒動だけはどうしても避けねばならぬことであると、次なる久姫様の嫁ぎ先を探しておられたのだが、まだ一色家にはその用意があるという。

 これは好機である。あるのだが、甘い話であることもまた事実。

 ゆえに足元を見られているのだとすぐに感じ取ることが出来た。


「やはり酒井殿はご存じでござったか。さすがは蔵人佐様の側近と称されるだけのことはある」

「…その話を知っているのはごくわずかの者のみ。当事者である久姫様と私、そしてもう1人の家臣しかしらぬ話でございます」

「ならばあまり具体的なことは言わぬほうがよいか。いくらこの部屋が忍びに守られているとはいえ」


 私は再び言葉を失った。

 たしかにこの部屋には情報を筒抜けにさせぬために忍びを潜ませていた。一色家より護衛がつくと知っていた家臣の1人、服部半蔵正成殿とその配下の者たちを。

 あの者たちであれば口がかたいゆえ、どのような話をされたとしても大丈夫であろうと思っての配置であったのだが、この予想を氷上殿は軽く超えてきてしまった。

 あとで口を封じておかねばなるまいな。


「まことに一色家の方々は油断がなりません」

「殿が同じことをされるのよ。ゆえに少しばかり鼻が利くようになったのであろう」


 鼻をこすりながら、得意げに語られる氷上殿。しかしそうは言っても、簡単に見破られるようなものでもない。

 すでに服部配下の伊賀党は、三河国内にある今川家臣らの守る城に潜ませており、身元が暴かれたなんて報せも聞いてはいない。

 それをこうもすんなりと気が付かれるとは…。油断は出来ぬし、気を抜くことすら許されぬ。殿が不在の間は私が代わりを務めねばならぬのだ。


「さて、それはさておき」


 そう言って氷上殿は懐に手を入れられた。

 何が出てくるのかと身構えたが、取り出されたのは見覚えのある巻物。同じものを数年前に見せていただいたことがある。

 隅に入れられているのは今川赤鳥の紋。つまり先代義元公か、あるいは現御当主様が出されたものであるということ。そして話のながれ上、それは間違いなく義元公が出されたものであると断言出来た。


「ここにある殿が初陣を果たし無事に城に戻ることが出来れば、松平蔵人佐の姉である久姫様を正室として迎え入れるという部分を」

「…一色家は何をしようとしておられる。この事実が明るみに出れば周囲は瞬く間に敵だら、け、に」

「殿はすでに覚悟を決められた。この縁談を押し進めようとしている意味、聡明な酒井殿であればわかるはず」

「ま、まさか一色家は遠江を喰らうおつもりでございますか!?」

「遠江のみにあらず。駿河を喰らい、今川すらも喰らう。殿の心内はすでに決まっておりますぞ。その中で松平家と協力したいと考えておられましてな」

「我らと協力を?それゆえに姫様を迎えると?しかし我らは」


 あの一色家が今川を裏切る?そのようなとうてい信じられない話に、私はうっかり言ってはいけない言葉を漏らしかけた。

 どうにか誤魔化そうと咳払いをしたのだが、それすらも氷上殿にはお見通しであったようだ。


「殿曰く、織田弾正忠家との同盟は松平にとって険しい道のりになるであろうと」

「なっ!?すでにそのことまで」

「我が殿がそうであったように、松平家も東西に敵を抱えたくは無いと考えるはず。幼き頃に親交のあった織田弾正忠に助けを求めることは自然の事であり、弾正忠家がその求めに応じることもまた自然のことでございましょうな」

「まるで見ていたような口ぶりでございますな」

「儂もそう感じた。しかし殿は自信満々に申しておられた。そして先の話をするのであれば、織田弾正忠家は尾張の統一に精を出し、その先は義父の敵討ちのために美濃。つまり東海の波を払い、静めるのは松平家の役目になるであろうと。まだ家中すらもまとめ切れていない織田弾正忠家に松平にむけて支援を出す余裕などないと申しておられた」


 私の額には尋常でないほどの汗が伝う。

 織田弾正忠様と縁を得ようとされた殿は、あちらの姫様を竹千代様に嫁がせることで同盟を結ぶ旨の返答を頂いていた。

 しかし一方で駿河にて態勢を整えている今川の軍勢を払いのけるは松平の役目であるとも言われている。

 つまり我らは織田家の姫様を餌に、壁として三河にて立ちはだかれと言われているのだ。もちろんそのようなことは殿もよく理解されている。

 しかし背中が守られるのであればと、この条件を呑まれた。我らは前の戦の敗戦の将であり、織田弾正忠家勝利によって最大限の恩恵を受けた御家である。文句・不平不満など言えるはずが無かった。


「いくら今川家が崩れかかっているとはいえ、数年待てば2万近い兵を動員することになる。援軍の無い松平家がいったいどこまで耐えられるのか」

「…脅しておられるのでございますか?」

「いやいや。ただ利口にならねばならぬということ。土産は、ある」

「…御方様や若様、姫様のことでありましょうか」


 土産と言えばそれしか思い浮かばぬ。

 しかしまさかまさか、その問いかけに対して氷上殿は首を横に振ったのだ。

 驚いて再び固まる私を他所に、もう1つの巻物を取り出す。


「すでに裏切られた松平であるからこそ、こちらの手の内を明かすのだがな」


 漏らせば、その原因はすぐに突き止めると暗に言われているようであった。

 私は流れる汗をぬぐいながら、覚悟を決めてのぞき込む。


「土産とはここ。そしてここ。最後にここ」


 氷上殿が扇子で指した場所は3か所。

 1か所目は殿も目をつけておられた井伊谷。つまり井伊信濃守直盛の領地である。この地は三河や信濃をつなぐ遠江の要地であり、また井伊谷城は自然の要害を駆使しているために攻めにくく、そして守りやすい。

 敵となれば厄介であるが、味方となれば非常に頼りになる。そんな場所である。

 そして2か所目。そこは犬居谷であった。

 これら2か所は完全に信濃への足掛かり、あるいは防衛拠点として非常に優秀な立地であり、土産としてはあまりにも上出来なものである。

 たしかにこれらをどうにか味方とすることが出来れば、対武田を想定しやすくなる。

 だが井伊谷に関しては我らもどうにかしようと考えたが、結局直盛は首を縦に振らずに日和見に徹しおった。

 殿はとりあえず三河が優先であると、直盛の態度を不満に思いながらも一度は諦められているのだ。それを土産と言うとなれば、一色家は勝算のある策を持っているということになる。

 そして3か所目。そこは遠江の西の要所、曳馬城であった。曳馬城の城主は飯尾豊前守連龍といい、新興の一門衆である殿や山城守殿を蔑ろにしていた人物の1人。

 遠江に抜ける、あるいは三河に抜ける上でこの地の奪取は避けては通れぬであろう。つまり土産とされた地は、今川を喰らう上で、そして何者にも邪魔されず独立を果たす上でどうしても押さえておかねばならぬ場所ばかりであった。


「これらの土産、まことに、そして確実に受け取ることが出来るのでございましょうか?」

「殿のお考え通りに事が運べばできるであろう。ただし問題として少なからず血が流れることになる。血塗られた土産でも、松平家は、蔵人佐様は受け取ってくださるであろうか」

「血に濡れる、でございますか。その意味を聞いても?」

「そのままの意味としか言えぬ。井伊信濃守様は義元公を、そして先代の御当主様を見捨てて逃亡いたしましたので」


 逃亡いたしましたので。それ以上、氷上殿は口にはしなかった。しなかったが、その先に何を言おうとしているのかはよくわかった。


「その後はどうされるので」

「上手くやって井伊家中を分裂させ、片方を味方としてこちらに手繰り寄せる。犬居谷の天野家も同様にすると」

「…まことに上手くいくのでございましょうか」

「先ほども申した通りでございますな。ただ殿が初めてこの策を我らに話されたとき、我ら四臣は誰もが引き込まれておりました。まさかあれだけ色々悪く言われていた殿がここまで考えをめぐらしておられたとはと。そして期待してしまったのでございます。殿が大名として名を上げる御姿を」


 その言葉に私は思わず絶句してしまった。

 すでに独立を果たしたと言っても過言ではない我らですら、まだ殿が立派な大名として自立する姿を思い描けていない。

 そう簡単な話ではないにしても、すでに家臣にそこまで思わせる右門様の思慮の深さに。


「…かしこまりました。殿にはそのようにお伝えいたしましょう」

「ちなみに酒井殿はどう思われる」

「さて。ですが遠き遠江のことは一色家にお任せすべきでございましょう。我らはまだ三河を掌握することで手一杯でございますので」

「それが聞きたかったわけでは無いのだがな。まぁ側近ともなれば迂闊な物言いも出来ぬということであろう。理解した」


 氷上殿はそう言って満足そうにうなずかれた。

 私がここで門前払いをしなかっただけで十分ということであろう。少なからず今の話が殿に伝わると確信しておられるのだ。

 敵地でここまで余裕のふるまいを出来る者が、この日ノ本にいったいどれだけいるのやら。まことに肝が据わった爺様である。


「それと2つ、先に詫びておかねばならぬことがある」

「詫び?それはいったい」

「1つ目。久姫様の輿入れは我らが上手く今川の手を離れた後となること。2つ目は独立の支度が整うまでの3年間は、あくまで今川の忠実な家臣として動く。つまり両家が衝突することも当然あり得るということである」

「加減していただけるとありがたいのですが」

「最も激しい戦闘を行ったのは本隊と行動を共にしていた我らの方であったゆえ、加減など生ぬるいことは言うてられぬ。3年後、どちらかが滅んでいないことを願うばかりであるな」

「たしかに。ではせいぜい生き残って、待っておりますので」

「蔵人佐様に確かにお伝えしてくだされ。では我らはこれにて」

「拒絶の場合のみ、返答をさせていただきます。何もなければ、我らは右門様からの提案を受け入れたと思ってくだされ」

「あいわかった」


 氷上殿は他の護衛たちとともに城を後にする。

 嵐の過ぎ去った岡崎城はやけに静かに見えた。だがこれはきっと酷く荒れる前兆であろう。

 遠江東部の要地を預かる一色家が3年以内に今川家から独立を果たす。これは大事件であった。

 もし成功し、我らと手を結ぶことになれ、ば…。


「半蔵殿」

「止めようかとも思ったが、やけに熱中して話し込んでおられたゆえ傍観に徹しておった」

「…」

「殿にお伝えした後、断りの人をやるべきであろうな」


 一色家と手を結ぶこと。すでに織田弾正忠家との同盟も進んでいる中で、東の一色家と手を結ぶとなると、我らは再び三河に押し込まれることになる。

 すなわち殿がようやく勝ち取ったこの西三河は殿にとって…。


「やられた!氷上殿の口車に乗せられて、迂闊なことを言ってしまった!!」

「期日は一色が今川を裏切る日までであるということ。じっくりと彼の地の具合を見てみることも1つやもしれぬが」

「悠長なことを言うている場合では」

「そう慌てず、まずは殿のお考えを伺えばよいではないですか。一昨日に密使を受けてから、殿も何か考えておられるようでございましたし」

「弥八郎殿も戻っておられたか」

「感動の再会はよいものでございますが、この足では立ちっぱなしというのもなかなか辛いもので。座れる場所が無いかと探しておりましたら、何やら面白そうな話が聞こえてきましてな」


 本多弥八郎正信殿の言葉に、思わず私は正成殿を見た。部屋の周囲は忍びらが守っていたはずであるが、どうして正信殿が話の内容を知っているのかと。

 おそらく私が正成殿を見たことに気が付いたのであろう。正信殿は笑って手を横に数度振った。


「なに、少しばかり耳が良いので。足が使えぬ代わり、良いものを授かったと家内と喜んでおりました」

「…まぁ、そういうことであれば」

「しかし一色の殿さまも随分と頭がさえておられるようで。井伊谷や犬居谷を手中にすることが出来れば、信濃からの脅威は当分ないことになる。そして極めつけが曳馬城でございますか」


 正信殿は感心したような口ぶりで顎を撫でていた。


「これは松平にとって大きな転機となりましょうな。織田弾正忠家とともにあると断るもよし、かつての縁を頼りに一色とともに行くのもよし。どちらかに臣従をするという選択肢もまた1つ」

「弥八郎殿!」


 私の声に正信殿はわざとらしく首を横に振って、冗談であると笑っていた。そのような冗談、決して口にしてよいものでは無いと分かりそうなものであるが。

 正成殿はそんな我らのやり取りを、ただ外からジッと見ているばかり。


「とにもかくにも、殿がお部屋でお待ちのはず。まずは小五郎殿が殿に話してくだされ。我らは殿の本心を探りますゆえにな」

「言われずともわかっておるわ」


 我らは殿が待っておられる部屋へと向かう。

 果たして殿は此度の密会について、どのような判断を下されるのであろうか。それ次第で我らは…。

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