第5話 師兄と師弟
駿河国安倍郡今川館 一色政孝
永禄3年6月上旬
「右門殿、少しばかりよいだろうか?」
「おぉ、これは源五郎殿。今回は御屋形様からの使いであろうか?」
「その通り。御屋形様が右門殿と“2人で”話がしたいと申しておられる。時間はあるはずだと」
「時間が無かったとしても、御屋形様よりお呼びがかかれば時間を生み出すもの。早速向かおう。部屋でよいのだろうか」
「いや、あの場所だ」
瀬名源五郎氏詮殿。
氏俊殿の長子であり、かつて俺が今川館で過ごしていたときによく悪さをした友でもある。
このままいけば、一門筆頭としての地位を引き継ぐ男だ。
しかし今のままではどうなるかもわからない。独立を果たすうえで障害となりうる者は切り捨てる、潰す覚悟ではあるのだが元康同様に感情込みでどうにかしたいと考えてしまうほどの仲ではあった。
果たして氏詮殿が俺をどう思っているのかはわからないが。
「あの場所、か。わかった、すぐに向かうとしよう」
「頼む。今の御屋形様の御心を救えるのは、右門殿しかおらぬで」
「…そんなことはなかろう。今川家中の絆は何にも負けぬと、俺は信じているぞ」
「そういったことは目を見て言うべきだ。目を逸らしたのは、それが本心からのものではないゆえのこと。思い当たる節はたくさんあるだろう。その…。いや、今の言葉は忘れてほしい。御屋形様がお待ちである。すぐにあの場所へ向かってくれ」
「…わかった」
氏詮殿は悪友である。元康とはまた違った。
それゆえに俺の心の中を読んでいるのかもしれない。すでに俺の心が今川家に無いことを。
ゆえに言葉にしかけた。
だがこのような場所、誰がどこで聞き耳を立てているかもわからない。俺が本心から今川家を支えようとしているかもわからない状況で、そのような迂闊な言葉を口にすれば、関口家の二の舞になりかねない。
先ほどの評定の中で関口親永の処分も決定された。状況から考えるに、やはり人質逃亡に力を貸している。それも一族総出での協力だ。
ゆえに関口親永とその子である男らは全員切腹が決められ、関口刑部少輔家の断絶が決まった。また直接の関与は見受けられなかったものの、関口家へ養子入りしていた北条の人間、関口氏親は両家の関係悪化を防ぐために小田原に送り返されることになるという。関口に残すとなれば、今回の騒動で連座する可能性が出るためだ。
氏規殿は婿養子としていずれは関口家を継ぐはずであったのだが、これで大きく計画が狂うことになっただろう。
しかし北条も関口家を継がせよと大きな声で言うことは出来ぬ。すでに裏切りの一族に成り下がった関口家を継ぐことなど、北条からしてもよいことは何もないからだ。
話が逸れたが、これによって関口家の処遇は決まった。俺の予想通り断絶である。
「なぁ、右門殿」
「珍しく神妙な面持ちだな、源五郎殿」
「茶化すな。これでもお家の心配をするほどに忠義心を持ってはいるのだ。まぁ親父殿の影響もあるが」
「伊予守殿な。たしかにあの父親を持てば、嫌でも忠義心は芽生えよう。俺は初めから持っていたが」
「…」
疑いの目を向けられているのは分かっている。
なぜこのようなときに、御屋形様がわざわざ俺のために時間を割いたのかという点からも、俺の今後が見通せないから釘をさしておかねばならぬと思われた可能性は非常に高い。
ならば俺は演じ続けよう。
御屋形様の師弟として、そして今川家に忠義を尽くす一色家の当主としての忠実な家臣の姿を。
いずれくるであろうその時まで。
「…ついた。俺は近くに控えているが、おそらく会話までは聞こえない。ゆえに御屋形様の事、よろしく頼む」
「わかっている。源五郎殿からの頼みが無くとも、俺は御屋形様の御心に寄り添うつもりだ」
「あぁ。そう、だったな」
氏詮殿に背中を押されて、俺は“あの場所”へと足を踏み入れる。
かつてお師匠様や御屋形様、そして元康と学んだ屋敷の離れへと。
そこにはすでに御屋形様が待っておられ、1人で庭を見ながら茶を飲んでおられた。誰の気配も感じないことから、おそらく本当にここは2人っきりの空間であることに間違いない。
ようやく安心して息を吐くことが出来た。氏詮殿ですら、俺は正直警戒していたのだ。
いつ刃が自分に向けられるのか、内心ひやひやであった。武芸に秀でた氏詮殿に俺は太刀打ちできないからである。
「待っていたぞ、右門」
「お待たせいたしました、御屋形様。お隣、よろしいでございましょうか?」
「うむ。そろそろ来ると思って、よく冷えた茶を用意して待っておった。遠慮せずに飲むがよい」
御屋形様の隣にはすでに茶が用意されていた。
この時期であれば、おそらく遠江で栽培された茶葉を使用されているものであろう。古くは鎌倉時代ごろに茶葉の生産が始まり、現在では今川領の広い地域で栽培がおこなわれている。所謂静岡茶であるのだが、収穫時期であったり、育つ環境によって味は変わる。
御屋形様が特に気に入られているのは掛川、つまり遠江朝比奈領で栽培されているものだ。今年はどうなのか知らないが、毎年朝比奈家は大量の茶葉を今川館に献上している。
少しばかり苦みが強いのだが、まぁそれが大人の味として人気を博しているわけでああった。おそらく目の前のこれもそうなのであろうな。
「では失礼いたします」
隣に腰を下ろした俺は、御屋形様に深く一礼をする。
そして用意された茶を口に運んだ。
「どうであろう。今年の出来は」
「美味しゅうございます。やはり掛川の茶葉でございましたか」
「うむ。その通りである。備中曰く、戦の前に収穫できていたと申しておった。遠江の民は戦があっても変わらぬ日々を過ごしておったと」
「遠江で戦が起こる日々など、誰も想像できぬことでございましょう。最も近くまで遡ってみても、それは我が祖父やかろうじて父の世代。それよりも最近となると、誇張などではなく全く無かったかと」
「うむ。…しかしそれもここまでになりそうである。麻呂はあまり難しいことはわからぬが、それでも肌で感じるものはある」
いつもの気弱な言葉尻と、どうしようもないほどに迷いに迷う弱々しい視線が俺に向けられている。
義元公がお師匠様の死後、間をとらずに慌てて上洛を目指されたのはこの態度が原因であったと考えている者は家中に大勢いた。決して口には出せないが、明らかに今川家の最盛期を義元公がその代で成そうと機を見誤られたのだ。
しかし今川家は天下一苗字の都合上、跡取りとして養育されているのはたった1人だけ。
つまり御屋形様がどのような性格であったとしても、この大きな今川家を継ぐことは確定であった。そしてそれがもはや当然なのだから、義元公はどっしりと構えておくべきであった。
今ではもう遅すぎる話。これもまた誰も口には出せない。
義元公が今川の最盛期を築いた御方であることに間違いは無いからだ。上洛の夢こそ果たせなかったがな。
「正直に思っていることを話してほしい。信濃守は麻呂を裏切るつもりであろうか。蔵人佐に従うつもりであろうか」
ここでそのようなはずがないと言えば、きっと御屋形様は安堵の息を吐かれるであろう。
だがそれではだめだ。
俺が井伊谷を手中に収めるためにも、御屋形様にはどこかで井伊直盛を疑っていてもらわねばならぬ。
だが完全に敵と認識されても困る。ここは難しい調整が必要な場面であった。
「信濃守殿以外にも、此度名代を送り込んできている方々はおりました。それに井伊家の所領は三河からも近く、蔵人佐のとった独立騒ぎに便乗している三河の領主らも大勢おります。そうなると、変わらず御屋形様に付き従おうとしている者たちの城が襲われることもあり得ましょう。井伊や飯尾、他多くの三河国境部を預かる方々は名代を出しておられます。そう心配することも無いかと」
「…しかし信濃守には敵前逃亡をしたという話もある。此度、この機会に弁明し、そして汚名を晴らす。それこそが道理ではなかろうか」
「そうなりますと伊予守殿を倣っておられるということも」
「伊予守を?倣うとはなんのことである」
「伊予守殿はかつて義元公に北条内通の疑いをかけられ、一時期領地を没収されたことがございました。しかし伊予守殿は義元公に弁明などは一切行わず、ただ結果を示して内通の疑いが誤りであったことを認めさせたということがございます。信濃守殿はそれを真似しようとしているのやも」
まぁあり得ない話だ。そもそも両者には明らかな違いがあった。
それは器量・度量といった器の大きさである。やはり氏俊殿はさすが一門筆頭と言われるだけのことはある。
一方で直盛殿はそうではない。
総大将を放っての敵前逃亡に加え、その弁明も一切なく領地に引きこもっている。やはり近く強制的にその場を用意すべきであろう。
きっとその時が来れば後悔する。今回の登場命令に従っていれば、このような事態にならずに済んだのに、と。
直盛殿は我が父も裏切ったのだ。我ら一色家に恨まれたとしても文句を言われる筋合いなど微塵もない。家中はすでにそういった雰囲気で溢れている。まだ外には漏らすなと厳命しているだけでな。
「馬鹿馬鹿しい話である。麻呂と父上は違うのだと、いったいいつになれば理解するのであろうか。麻呂は目の前で起きたことしか信用できぬというのに」
また言葉尻が弱くなった。
そして茶の水面に映る自らの顔を凝視しておられる。「はぁ」と小さいため息を吐き、その湯飲みを床へと戻される。
「見た者のみを信じるということは決して悪いことではございません。たしかに判断が遅れると言った悪い面もございますが、その分堅実・確実な判断を下すことが出来ます。御屋形様に必要なものは、自身の判断に誤りが無いと思う心。つまり自信でございます」
「自信…」
「その通り。周囲の顔色ばかりうかがうというのは、そうとうに疲れるものでございます。ゆえに最初からすべての決断に自信を持てとは言いません。ただ少しずつでもよいので、自身の判断に間違いは無いと思う心を持つようにしてください。さすれば、いつかはその性格を煩わしいものだと思わなくなっていることでございましょう」
これは敵に塩を送った形になったのかもしれない。
だが気が付いた時には、熱心に弁をふるっていた。手助けしない、手を差し伸べないと決めていたにも関わらず、だ。
やはり御屋形様と2人で話していると、過去の思い出からなのか、あるいは俺が抱えた罪の意識からなのか、ついついこうした意に反した行いを無意識のうちにやってしまう。
これは正直、随分と怖い一面であった。肝心なところで打つ手を誤りそうで。
「出過ぎた発言でございました。どうかお許しを」
「…いや、そうやって正直に話してくれるのは右門くらいよ。麻呂はいつも誰かの言いなりであるゆえに」
「…1つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
今の御屋形様の発言から、ずっと疑問に思っていたことを問いかけてみることにした。
あの御屋形様の発言の真意を。
「右門からの問いであれば出来る範囲で答えよう。麻呂がわかることであればよいのだが」
「では。先ほどの評定にて、北条・武田両家を領内に迎え入れるという話。あれは御屋形様が考えられたものでございますか?それとも誰かがそのように申されたのでございますか?」
「内匠助よ。あの者がそれを提案してくれた。まさかあれほどまでに反発が起こるとは思うていなかったと申しておったが」
「…そうでございましたか。内匠助殿が」
「そういえば真っ先に反対の声をあげてくれたのは右門であったな。内匠助の言葉であったとしても、賛同したゆえに麻呂も同じよ。よくぞ止めてくれた」
決して自身の独立に際して、邪魔になると思ったとは口が裂けても言えない。
だが結果として今川家の大名としての地位を守ることには成功した。食らうなら弱っている状態でなければ、今の俺たちでは到底太刀打ちできない。
崩れかかった三河を食らうのとはわけが違う。それに三河を奪った元康には、かつて松平家が築き上げた地盤があったゆえに成功したのだ。
俺が同じように行動を起こしたとしても、現段階では失敗の確立の方が高い。
味方を作り、敵を減らし、主家を弱らせる。それをやってから、ようやく独立の第一歩が踏み出せるというものだ。
その統治者が武田や北条に置き換われば、もう俺に機はない。ゆえに両家を領内に招き入れることは何としても避けなければならないわけであった。
「いえ。私は私の考えのままに発言したのみでございます。それよりも」
「ん?如何したのか。そのように難しい顔をして」
「内匠助殿のこと、少しだけ疑っておいた方がよいやもしれません」
「まさか!?麻呂の傅役であった男であるぞ?そのような者が麻呂を、今川を裏切ろ」
ほとんど言ってしまわれたが、俺は慌てて口の前に人差し指を立てた。
すぐさま御屋形様も口を押えられたが、もし誰かに聞かれていれば間違いなく俺は邪魔な存在として命を狙われることになりかねない。
周囲を見渡しても人の気配は無いが、完全に安どの息を吐くことも出来ぬ。
今回、無事に大井川城に戻れてこそようやく安心できるのであろう。
「す、すまぬ」
「いえ。ですが一応用心だけはしておくべきかと。もし仮に発案者があの方であったとすれば、その危険性を見落とすとはどうしても思えませぬ」
「…北条も武田も」
「両家ともに弱った今川を食らおうとする理由はいくらでもあるかと。まずこの状況で御屋形様がすべきことは、関口家の嗣子として入っておられる助五郎殿を無事に北条に返すこと。その中で良好な関係を築き、仮に同盟が崩れたとしても味方であるように関係を変えることでございます」
「難しいことを言うてくれる」
「しかしそうせねば甲斐・伊豆の2方面。加えて信濃や尾張・三河まで敵となりかねません。今の我らは弱った獲物なのでございます」
「わかった。右門がそこまで言うのであれば、麻呂も今川家を立て直すための時間を稼いでみようと思う。だが右門」
「はっ」
また御屋形様の視線は弱くなられた。
心配事が尽きぬというのも大変な話である。
「右門は…。鶴丸は麻呂を裏切らずにいてくれるか?竹千代は麻呂を…」
「御屋形様を裏切るはずがございません。蔵人佐は三河岡崎へ帰還することを何よりも望んでいたのでございます。私とあの男とではそもそもおかれた状況が違います」
「…であるが」
「ならば如何いたしましょうか。証として人質を今川館に届けさせましょう。それで御屋形様の御心が休まるのであれば」
決して本心でそう言ったわけではない。
こういえば間違いなく御屋形様はやめさせられる。
「それはならん!一門である一色より人質など取れば、周囲がどのように受け取るのか、右門であれば十分に理解しているはずであろう!それに今の一色家から人質となると」
「兄弟も子も室もおりませんので、信頼の証といたしますと我が母になるかと」
「それだけは決して認められぬ!麻呂が悪かった。右門を疑うなど、どうかしておったのだ」
御屋形様が頭を下げられたが、さすがにこれこそ人に見られては困る。言いふらすとは思えないが、近くには氏詮殿も控えている状況だ。
「御屋形様に我が忠義心が伝わったようで安心いたしました。今後も変わらぬ心でお仕えいたします」
「う、うむ」
「ではそろそろ。我が初陣のためにもしっかりと用意をしなければなりませんので、このあたりで」
「そうであったな。右門もようやく初陣か」
「母上がまた騒ぐような気がいたしますが、こればっかりはそうも言ってはおれません。三河の窮地をお救いせねば」
「う、うむ。麻呂は出陣出来ぬが、丹波守の言葉に従っておれば問題はおきぬはず。存分に手柄を挙げるのだぞ」
「かしこまりました!」
これにて俺は今川館を後にする。
戻ればすぐさま戦の用意だ。こうなることも想定済み。
初陣の相手は元康の蜂起に付き従った三河東部の領主、西郷家の諸城となるであろう。
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