第3話 岡部兄弟の警告

 駿河国志田郡朝日山城 一色政孝


 永禄3年6月上旬


「単刀直入に問う。なぜ松平の人質探しに人を出さぬ」

「こちらも父政文を亡くしたばかりで混乱しておりましたので」


 この朝日山城は今川家重臣の1つ、岡部家の居城である。現当主は岡部丹波守元信殿。猛将として名高く、義元公がお討ち死にされ混乱する中でも、撤退中に織田家の城をいくつか落とすなど凄まじい戦果を挙げて駿河へと戻ってこられた。

 それだけ今川家に忠が篤く、そして何よりも相対してわかる。威圧感が尋常ではない。

 俺がなぜ今川館ではなくこの城にいるのか。簡単な話だ。

 志太郡に入ったところで待ち伏せられていたのだ。兵を率いた元信殿の弟である次郎右衛門尉正綱殿に。

 言い分としては松平の人質捜索のためだと言われていたが、俺たち一色の一団をみるなりすぐに接近してきたところをみると、十中八九俺の今川館行きを狙っていたのだと思われる。


「家中では一門衆すらも疑う声が上がり始めている。事実関口伊豆守殿の蟄居が周囲に与えた影響は計り知れぬ」

「私も驚きました」

「同じく不安視されているのが、三河東部に領地を預かる藤太郎殿である。あの男、義元公が討たれたと知って、真っ先に本領へと逃げ込んでおる。周辺はすでに松平の領地となっている場所も多く、一門でありながら真っ先に寝返るのではないかとな」


 藤太郎というのは、三河東部に位置する上ノ郷城の城主である鵜殿藤太郎長照殿のこと。義元公の甥にあたり、三河の東部をおさえる鵜殿家の地位は非常に高かったのだが、長照殿は平時において性格に難ありと常々言われており、良いうわさも聞く一方で悪いうわさも目立つ人物であった。

 元信殿の言うように、先日の戦いでは大高城の城代を任されていたのだが、その時は足りない物資の中でもよく耐えていた。そこは高く評価されていたのだが、問題はその後である。

 元康が物資を運び込んだことで城代が交代となったのだが、その後しばらくして伝えられた義元公のお討ち死にの報を受けるや否や、元康や他周辺に留まっていた今川隊をすべて放ったらかして上ノ郷城へと逃げ帰ってしまったのだ。これには鵜殿の一門すらも不満や疑問の声を上げたという。

 長照殿が置かれた状況は非常に悪いのだが、これに加えて元康の離反騒ぎである。これほどまでに評価をどん底に落とした男がこのまま今川家にとどまり続けるのかと、周囲は疑いにかかっている。

 改めて言うが義元公の甥であるから、御屋形様からすれば従兄弟だ。まぁそれは俺も同じであるがな。


「実は道中聞いたのでございますが、すでに蔵人佐は上ノ郷城の奪取に動いているようでございます。あの者たちからすれば、三河に根を張る今川一門は余計な影響力を発揮しかねないと不安視しているようで」

「まことか?それで?」

「竹谷松平の者が兵を動かしたとのことでございますが、とりあえずは追い払ったと」


 これは本当の話である。竹谷松平家は元康に従って今川より離反している松平分家筋の1つ。居城である竹谷城の目と鼻の先にある上ノ郷城はこの竹谷松平家からしても邪魔なのだ。

 従う姿勢を見せないのであれば落としてしまおう。元康はどうやらそう考えたらしい。

 機を逃したのか、あるいは元から寝返るつもりなどなかったのかわからぬが長照殿は家中から疑いの目を向けられている中でもどうにか城を守り切ったらしい。

 これは栄衆がいち早く情報を届けてくれたゆえに、こうして元信殿に伝えることが出来たものであり、いずれこのとりあえずの勝利は今川家中でも広く知れ渡ることになるはずだ。


「それが我らを欺く策でないのであれば、とりあえず東三河はどうにかなるのか?」

「それはわかりませぬ。ですが同じ一門として、どうにか藤太郎殿を支援したいと考えてはおります。そのためには」

「みなまで言わずとも分かっている。今橋城と牛久保城、これらの支援を進めねばならぬということであろう?両城より物資搬入、兵の駐留要請が出ているのだ。本来であれば我らはすぐにこれに動くべきであろう。しかし御屋形様からの登城命令も出ている。ここで名代などたてようものなら、離反の心ありと思われても仕方がない。その点、自ら登城しようとしている右門殿は信頼できる。幾分かはな。だが先の話でも勘づいたと思うが、多少なりとも疑いの目も持っている」


 正直に言えば元信殿はあまり謀略や裏での読みあいなどが得意ではない。決して馬鹿であると言っているわけではなく、とにかくまっすぐすぎるところがある。

 ゆえに城に迎えられて早々にあのようなことを聞かれたわけであるし、今も信用しきっていないと直接言われたのだ。

 そしてその直感は恐ろしいほどに当たる。今のように。

 俺に網を張って正綱殿を待機させていたのは、きっと何か俺に感じるところがあったのであろう。ここで誤魔化すような動きを見せれば、間違いなくしばらくは疑い続けられるであろうな。

 まったくもって厄介。ゆえにここは少しの真実と嘘を混ぜ合わせて語る。正直に話したと思われさえすれば、余計な勘繰りは避けられるであろう。

 先日、城で爺に言われたことでもあるが、俺はうつけほどではないにしても凡愚であると思われているらしいからな。


「一色家の家督を継いだ今、より関わることが増えると思われます。ゆえに腹の中を洗いざらいお伝えしておきます。丹波守殿であれば信用できると考えて」

「真実か嘘かは話を聞いてから判断する。まずは全て話せ」

「はい。たしかに当家でも松平の人質の行方を追うべきであるという声は出ました。ですが同時に師弟である蔵人佐と私の関係を心配する者も現れたのでございます」

「それは裏でつながっているからと、そういう話か」

「違います。あの敗戦以降、松平の人間が我が領内に入ったことなど一度もございません」


「ふん」と鼻を鳴らした元信殿。とりあえずはこれ以上突っ込んでこないと判断して、俺は再び口を開く。


「丹波守殿も感じておられたと思いますが、我が父は外様中の外様であり、斯波家臣時代、当時の当主が討ち死にするような負け戦の後で降伏したにもかかわらず、広大な領地の安堵をお許しいただいたうえ、さらに一門という地位まで与えていただきました。それによるやっかみ、妬み、嫉みがひどく半ば孤立もしておったのでございます」

「…そうであったな」


 元信殿はそのようなことは気にせず、父上と接してくれていた数少ない人物の1人である。

 派閥にも属さず、ただ一心に今川家に尽くすことだけを考えていた。


「同じように似たような境遇にあった者がおりました」

「…それが蔵人佐か」

「その通りでございます。此度の人質逃亡の捜索に消極的になったのは、私と蔵人佐のことがあったからだけではないのでございます。我が母と現在逃亡中の瀬名様は養女ということがあったとしても叔母・姪の関係。我が父と蔵人佐は同じ悩みを共有する者同士。そして私と蔵人佐は師兄師弟の間柄。家中で心配の声を上げた者は、それらすべてをひっくるめて配慮してくれたのでございます。私はともかく、夫を失ったばかりの母上の悲しみは、到底私などでは推し量れるものではございませんので」

「…疑ってしまって悪かった。たしかに大井川城には華様がおられる。兵を動かせば間違いなくその意味を感じ取られたであろうな」

「いえ。たしかに御屋形様に対して忠義を示すためならば、瀬名様やその御子らを捕えて連れ戻すべきなのでございましょう。ですがそれが私には…。母上の心中を思えばどうしても…」


 少しばかり声が上ずった。

 見た情報を第一とする元信殿であれば、俺が感情的になったこの話こそが真実であると信じてくださるはずだ。

 それにこれ以上の追及はボロが出かねぬゆえ、どうにか避けねばならない。


「わ、悪かった!いきなり疑いの目を向けるべきでは無かった!すまぬ、右門殿」

「いえ。そもそも誤解を招く振る舞いをしたのは我らでございます。それに丹波守殿が今川家に対して一心に仕えていることは、私を含めて多くの方々が知っておられましょう。この城に通された段階で、ある程度の追及は覚悟をしておりましたので」

「…そこまで気が回る男であったのか。いや、関わりが無かったとはいえ、知らずに責めたのは俺の落ち度だ。謝罪させてくれ、すまん」

「こちらこそ、心配をおかけしてしまったようで。申し訳ございません。ともに今川家を、御屋形様をお支えいたしましょう。これよりは父の志を継いで、私がその役目を果たすよう一層努力していくつもりでございます」


 正直決まったと思った。

 これで最も敵に回したくない人物からの疑いの目を逸らせることが出来たと。だがそんな状況の中で、一言も発さず、ただジーッと俺を見ている男がいることに気が付く。

 弟の正綱殿だ。

 猛将の元信殿の副官であり、岡部の兵の手綱を握る男。元信殿の影に隠れがちであるが、その才を父上も買っていた。

 酒宴の場で「あのような地味な役割をそつなくこなせる家臣が欲しい」とポロっと漏らしたことがあり、道房や佐助を大いに焦らせたことがあるくらいには一色家でも有名な人物である。

 そんな男が何も見逃さないという勢いで俺を見ていた。居心地があまりにも悪く、用意されていた茶に逃げるように手を伸ばす。


「ところで1つ参考程度に聞かせてくれるか」

「は、はい。私が答えられる範囲であれば」

「嫁は取らぬのか。そろそろ弱冠を迎えるころであったと思うたが。もう同じ年の頃の者たちは妻を迎え、子すらもおる。華様が見定めているという話もあるが、それはまことの話なのであろうか」

「…恥ずかしながら、事実でございます」

「俺の娘はどうだ。少しばかり幼いが、家族思いのおぬしであれば安心して任せられる」

「幼いと申されますが、いったいいくつくらいに」

「10だ。目に入れても痛くないほどに可愛い娘でな。俺も嫁がせる相手は慎重にならねばならぬと考えていたのだが、右門殿ほどの男であれば信用できる。そう思うであろう?」


 尋ねられたのはずっと黙っていた正綱殿である。

 正綱殿は即答せず、ただなんと答えることがこの場を丸く収められるのかを考えているように見えた。

 そしてふぅと軽く息を吐き、一度は元信殿に向けた視線を再びこちらに向ける。


「姪はまだ世間知らずで、どこに嫁入りさせるなど言っていられるような教育も間に合っておりません。華様が厳しく奥方選びに精を出しておられるのであれば、早々に候補から切られてしまうでしょう。その際の断り文句をこっぴどく言われるくらいであれば、今のうちに手を引いておくべきであると思います」

「相変わらず嘘が言えぬ口だ。だがたしかにそれもそうである。変に悪評がたっても困るゆえ、此度は諦めるとするか。すまんな、勝手に言い出しておいて、勝手に取り下げて」

「い、いえ。ですがたしかに丹波守殿と険悪な関係にはなりたくないと思っておりますので、手を引いてくださったことはよかったのかとも思います。実際、険悪な関係になった御家も少なからずございますので」


 誰も表立って母上の批判はしない。というか出来るはずがない。

 だが結果として巡り巡って父上に対する態度に現れる。それが恨みからくるものであることは百も承知であったが、父上は黙って受け入れていた。

 そもそも母上とて意地悪で断っているわけではなく、見極めた上で断っていた。しっかりとした教育が出来ていないと判断したうえでのことだ。一色家はたしかに嫌われていたが、この大井川と河口部にある港は魅力的であったために、どうしたってこの手の話は増えるのだ。縁だけでも確保しておきたいと。

 むしろ無茶苦茶な縁談申し込みすらもしっかりと母上は吟味していたのだから、文句など言う前に感謝すべきである。縁談というのも婚期を逃した娘を押し付けるようなものであったようであるしな。詳細についてはよく知らぬが。


「兄上、そろそろ」

「おう、もうそんな時間であったか。悪かったな。足を止めさせてしまって」

「いえ。こうして丹波守殿と話が出来てようございました。誤解もある程度は解けたようでございますので」

「間違いなく根に持っていることは、今の言い方でようわかった。今後はもう少し気を付けるといたそう。相手の心証を悪くして、よいことなど1つもなかったゆえに」

「そうしていただけると。丹波守殿の圧はあまりに強く、若輩のこの身では押しつぶされてしまいそうでしたので」


 そう伝えると、元信殿は気分よさげに笑っていた。

 しかしまったく笑わない、というよりも表情を一切動かさない正綱殿。兄弟でここまで違うのかと思ってしまうが、そんなのんきなことを考えている場合ではない。

 元信殿は騙せたが、正綱殿はまだまだ俺のことを疑っている。これだけははっきりした。

 もう少し今川家に忠誠を誓うような姿勢を形に示す必要がある。果たしてどうすることが効果的であるのか。

 少しばかり思案のしどころである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る