第2話 別々の道へ 二
「改めて具体的な話をしたい。これより先は主水に多く頼ることになるだろうが、他の者たちも積極的に協力してほしい」
俺が軽く頭を下げたことに爺の眉がわずかに跳ねた。
しかしこの瞬間は特に何も言わず、ただ名指しされた昌友だけが強く頷く。
「まず大まかに言ってこの3年以内に推し進めたいことは3つだ」
「3つ…。これから独立に向けて動く中でたった3つでございますか?」
「大まかに考えた時に、という前提がある。だが新左衛門も乗り気になってくれたようでうれしいぞ」
「い、いえ。ただ乗り気なのではなく、もはや我らは殿に従うのみでございますので。覚悟を決めておられるのであれば、もう信じてお支えするしか選択肢がございませぬ」
「それでもよい。いずれ、この選択が過ちで無かったと認めさせてやる」
「お願いいたします!」
新左衛門が頭を改めて下げたところで、俺は用意していたもう1枚の紙を4人の前で広げた。
そこに書かれているのは東海の簡易的な地図だ。しっかりと測量したものでは無く、俺が前世の知識からざっくりと書き記した程度のもの。
だが海岸線などは比較的細かく覚えているつもりであるし、今のこの段階において詳細であることはさほど重要では無い。必要なのは、大井川領が置かれた状況を説明できるだけのものである。
「まずこの大井川領は下流域が発展しているが、大きな街道とは接していない」
「たしかに。多くの者たちが通るのはもっと北の方でございますな」
「この辺りで一番大きな街道と言えば、大井川の上流あたりにまたがる街道でございますか。東の島田から大井川を渡り、西の金谷でございますな」
爺の言葉に頷きながら、昌友が扇子で両地域を線を引くように引っ張った。
いわゆる東海道と呼ばれる街道であるが、残念なことにこの大井川領は恩恵をあまり受けていないのだ。
だが新たに街道を引き込もうとすると、それはそれで人手も金もかかる。なによりも3年という制限がある中で、圧倒的に時間が足りないだろう。
だからこそ俺は考えた。
「この地で主に人を集める方法は船とする」
「船でございますか?しかし何故に船でございますか?」
「三郎、考えてもみよ。この大井川領の財源は父が制定した商人保護式目による献金がそれはもう莫大な額になっている。まぁ、たまたま暮石屋や染屋という豪商が領内にいてくれたからであるが」
「それは先々代当主様の尽力のおかげでございます。たまたまなどでは」
わずかであるとはいえ、祖父に仕えていた爺は慌てて訂正を入れる。もちろんそんなことはわかっている。
だがそれでもこの地に目をつけてくれたのはその商人たちなのだ。地盤を作ってくれた祖父にももちろん感謝はしているが。
「それもわかっている。心配せずともな。まぁそういうこともあって、この地に商人が集えば集うほど、俺たちの懐は温まるというわけよ。もちろん問題が生じれば一色家が責任を持って解決に奔走せねばならぬし、商人を優遇すると言っている限りは、それ相応の政策をせねばならぬが」
だがこれについては、すでに昌友が着手している。なんせ父上の代からの一大政策であるのだからな。
「だが豪商が1つ2つあったところでまだまだ足りぬ」
「足りませぬか」
「足らぬであろう。なぁ、主水よ」
「足りませぬ。新左衛門殿はご存じでございますか?大井川領の活気を維持し、さらに栄えさせるために、年間どれほどの銭が必要であるのか。これから殿がさらに大きく領地を増やせば、それだけ金は必要になります。商人からの献金に頼っているようでは先は暗いでしょうが、それについては政を一任されている私もどうにか動くつもりでございますので」
「そういうわけだ。ゆえに保護下の商人をさらに増やしたい。この地の評判を日ノ本全土に広げ、多くの商人を一色の保護下とすれば」
「それだけ多くの献金が年始にあるということでございますか」
「その通りだ」
佐助が正解にたどり着いた時、さぞ俺は得意げに頷いたことであろう。
「大井川の河口部に築いた港町は、幸いにも随分と立派なつくりとなっている。主水に加え、水治奉行の彦五郎が港の発展に尽力してくれたゆえにな」
「もったいなきお言葉でございます。彦五郎殿にも改めて伝えておきましょう」
林彦五郎
初代の水治奉行は清善の父だったのだが、役目の最中に海に落ちて腰を強打しそのまま溺死。急遽倅であり補佐役であった清善が跡を継ぐことになった。だが傍から見ている限り、おそらく清善にとっては水治奉行こそが天職であったように思える。
とにかくこだわりが凄まじく、一切妥協が無い。また港によく通い、民との交流も積極的である。
これは仕事に熱心というよりも、『海に関わる』仕事に熱心なのだと最近になって理解した。
「そうしてくれるか。だが決して気を緩ませるな。今は時間が無いゆえ、先ほどの話に関してはすぐにでも動く。他国に噂を流し、保護を受けたがっている商人を迎え入れるのだ。その者たちには徹底して式目を守らせる。こちらの期待にさえ応えてくれれば、俺たちはその者らを全力で守ってやる」
「しかし殿。数が増えるとなると、統率をとることも一苦労になるのではございませんか?」
「三郎、そこは心配するな。爺に頼みたいことがある」
「儂に?いったい何をさせようというのでございましょうかな」
突然話を振られた爺は驚いていたが、どこか嬉しそうでもあった。政の話ともなれば、昌友が主体となることは一色家の場合当然のこと。
まだ比較的若い佐助と道房(とは言っても、両者ともに30歳は越えている)は、わからぬことを積極的に尋ねてくるため話の輪には残っていたが、爺は年齢を理由にそれをしない。
ただジッと話を聞いているだけであった。
これはいつものことであったゆえ、知らぬ間に疎外感を覚えていたのかもしれない。
「暮石屋の旦那である庄兵衛は爺の茶飲み仲間であると聞いている。庄兵衛に新たに作る組合の長を務めてほしいと頼んでもらいたい」
「組合、でございますか?それはいったいどのようなもので」
「簡単なことだ。増えすぎた商家を一色家でまとめ上げるとなると、どうしても人手が割かれてしまう。主水にはやってもらうべきことが多くあるゆえ、そのような余裕などないし、下手なものに任せれば商人の巧みな話術で操り人形とされてしまうやもしれん。そこで保護下の商人らで1つの組織を作り、俺たちと対等に語り合える立場の者を用意する。保護下にある商人らが抱える問題は組合を通して俺たちに訴えさせることが出来れば、最低限の時間を割くだけで話が済むというものだ。あらかじめまとめてもらえるのだから、こちらとしても助かる。その組合を構成するうえで、ある程度の権限を持つ者を数人と、その長としての地位を持つ者1名を置こうというのが俺の考えだ。簡単に言えば堺や博多の会合衆を想像してもらえればわかりやすかろう。そして庄兵衛はこの大井川領で最も権力と人脈を持つ豪商。ゆえになにかと都合が良い」
「…はぁ、すでにそこまで考えておられましたか」
「これは独立云々の話ではなく、いずれ跡を継げば実現したいと考えていたものだ」
これが実現すれば、こう名付けつもりである。『大井川商業組合』と。絶対に上手く行く自信がある。
武家に対して要望が伝えづらくとも、商人同士であれば言いやすいこともある。それを長が代わりに伝えてくれるのだから、これほど気楽なものはない。
「かしこまりました。では明日にでも暮石屋を呼ぶといたしましょう。ですが問題は…」
「領内にいるか、ということであろう?だが代理の者には伝えられぬ。本人がいなければ戻るまでは待つつもりでいる。間違いなく、必ず本人にこの話をしてくれ」
「かしこまりました」
爺が頭を下げたことで大まかな予定の1つは終わり。
ようは主要街道が通っていない領内をどう潤すのか問題。導き出した答えは、今もなお発展している港を利用して、保護下に入る商人を増やすというもの。
加えて組合を結成させて、より密接な関わりを持つ。決して近づき過ぎず、離れない。そんな関係が望ましい。
「続けて2つ目だ。これは市川の家にすでに依頼済みだ」
「市川と言いますと、武器商人の市川でございますか?」
「あぁ、その通りだ。もう1度地図を見てほしい」
俺は手にしていた扇子で大井川領の一部を指す。
「三郎、ここに何があるのか知っているか?」
「…たしか広大な竹藪があったかと。近くに小川があり、空気も澄んでいて気分が良くなる場所でございます」
「しかし誰も手入れする者もいないため、人がまったく近づきませんな」
「その通りだ、新左衛門。まずはこの地の一部を切り拓き、新たに集落を作る」
「…集落でございますか?このように人目のつかぬ場所に?」
「そもそも大井川領には無駄な土地が多すぎる。せっかく大井川という天からの恵みがあるにも関わらず、どうしてそれを積極的に活用できないのだ。俺はそれをずっと考えていた。そして領内を散策して気が付いた」
「その答えが無駄な地が多い、でございますか」
「あぁ。今現在、三河では蔵人佐が起こした離反騒動で小競り合いが連日起きており、巻き込まれた民が隣国へと流れている。これを大井川領内に引き込みたい」
「無駄な地に流民を住まわせるのでございますね!」
昌友が膝を打って喜ぶ。
領内に人が多く住めば、流民であるからこその問題も生じるが、それよりもやはり受けられる恩恵が多い。
誰も管理していない土地は一色家のものとして、再び民に分け与えるのが最も合理的な方法であると思う。荒れ果てていくよりはよほど良い。
「そうだ。そしてその中でこの辺りにはとある者たちをいずれ住まわせる」
「それが市川の依頼と関係していると?」
「その通り。市川には種子島の鍛冶師を買うようにと依頼した。連れ帰ればこの切り拓いた地に住まわせて、種子島の一大産地を作る」
「…種子島を買うのではなく、鍛冶師の方を買うと?」
「そう言うたのだ。他より買っていては、いくら金があっても足らぬであろう。どこもありえぬ銭を要求してくるに決まっている。それならば自領で作った方が、よほど安くつく。いずれはかけた銭よりも、得る利の方が必ず大きくなることは間違いない。そのための金は主水より作ってもらっているゆえ、あとはこの話に乗ってくる鍛冶師がいるかどうかだ」
「なんとも…。殿がこれほどまでに政に熱心であるとは知りませんでした」
「爺は不真面目な俺しかしらぬであろうでな。お師匠様とてこのような俺の一面は知らぬはずである。下手をすれば御屋形様や、蔵人佐もな」
そう言うと、爺はわざとらしくため息を吐いた。
そしてもう諦めたと言わんばかりに、力なく俺を見る。
「みなに隠しておられたのでございますか?うつけとまでは言われておりませんでしたが、殿の素行の悪さは御方様だけではなく大勢の者たちが心配しておりました。初陣が遅れたのも、そこに原因がございます」
「…まぁ、そのおかげで俺は死なずにすんだのだがな」
これはある程度経ったころに浮かんだ考えであった。
立派な嫡子としての道を歩もうと思えばできていた。少なくとも大井川城に戻ってからは。
だが俺はそれをしなかった。
馬鹿をしていれば、間違いなく母上が不安がる。一色本家の子は俺1人であるため、下手に戦で死なれては困ると。
また俺も御免だった。一色家という存在がどこまで歴史に影響するかもわからない中で、誰もが知る桶狭間の結末に巻き込まれることが。
ゆえにだらけた嫡子を演じていた。決して口が裂けても言えぬ話である。これだけは死ぬまで誰にも言えぬであろう。言えば爺に殴り飛ばされる程度ではすまない。
「「…」」
「まぁまぁ、殿も氷上様も。暗い話はそこまでに」
「すまぬ、主水。気を遣わせた」
「いえ。それよりもさきほどの話の続きをお聞かせくださいますか?」
「あぁ。市川がどれだけの鍛冶師を連れ帰ってこられるかにもよるが、数が少ないうちは金木らの集落に済ませようと思っている。その間に弟子をとらせ、さらには外からも職人をそろえる」
「なるほど。では少なくとも独立を果たすまでは存在を隠しておいた方がよさそうですね。それに堺からの鍛冶師買収ともなると、あちらの者たちには相当恨まれるような」
「それについては心配するな。独自に商人をまとめ上げている一色と、武家に属さない堺の商人らが上手くいくとは思っていない。この独立が上手く行き勢力を拡大させていけば、いずれ奴らとはぶつかっていただろう。あと鍛冶師を隠すことについては主水の言うとおりである。独自に軍備強化をはかっていると言われると一気に敵視されてしまうからな。ある程度完成した形になれば、少なくとも独立を果たすまでは全て一色で買い取り、人目につかぬように蔵で保管する。だが手入れだけは怠らずにやらねばならぬが」
そう言うと、佐助と道房がほとんど同時に手を挙げた。
そして互いにそれに気が付いて、激しくにらみ合う。
「「殿!その役目、お任せください!」」
「ふむ。随分と見事に揃ったな」
「新左衛門殿には兵の修練を監督する役目がございましょう。怠れば一色家の戦力低下に繋がります。ここはまだ決まった役割を与えられていない私に」
「なにを!?三郎殿とて同じ役目を与えられているはず。なぜ自身は何も与えられていないと嘘をつくのか」
「いやいや」
「いやいやいや」
「やめんか、2人とも!殿の前でみっともない」
爺の一喝で我に返った2人は慌てて頭を下げた。
まぁこれも俺の心証を下げないためのものであるというのは言われずともわかる。だがこう言っては悪いが、すでに俺の中で種子島管理の人選は決まっていた。
そもそもまだ出来てもいない話に盛り上がりすぎである。市川が無事に鍛冶師を買収できるとも限らぬし、そうでなくとも上手くいく保証もない。
この話題で盛り上がるのは少なくとも年単位で先の話だ。
「まぁいずれ伝える。あとは刀鍛冶であったり、鉱物の加工が出来る職人を領内に招き入れたいところであるが、それは急を要するほどでは無いゆえにおいおいな」
「そういえば金木の区画に種子島の者たちを住まわせるという話でございましたが、それについて金木はすでに知っているのでございますか?」
「まだだ。だがたしかあの職人町もまだ土地が余っていたであろう。近く人をやって話をせねばならぬな」
「ではその話は儂の倅にやらせましょう」
「藤次郎か。まぁそれが無難でよい選択だな。ならばそのように伝えてくれ」
「かしこまりました」
爺の倅である藤次郎時真はすでに道房や佐助よりも年上であるにも関わらず、未だに氷上家嫡子という立場である。
本人曰く、爺が死ぬまでこの状態を維持すると言っているらしい。爺もさすがにそれは困ると伝えているようであるが、これが長年一色家を支えてきた男に対する敬意なのだそうだ。
とは言っても、当主ではないという状況に甘えているわけではない。
政の指揮系統で言えば、昌友に次ぐ実質ナンバー2であり、領内で実際に政策を行うのは時真の役目だ。
それゆえに爺よりも顔が知れ渡っており、多くの者が氷上の当主だと勘違いしているのだという。そのたびに時真は「まだまだ父の背中は遠い」と否定しているのだそう。
そういった立場であるゆえに金木らとの交渉にはもってこいだ。あちらも時真であれば気を許してくれるであろうからな。
「あぁ、それと先ほどの話を金木にも話してもらいたい。組合には船を使う商人以外にも、職人であったり別の方法で金を設けている者たち全てが対象であると」
「ならば宿屋などもそうということでございますか?」
「その通りだ。すでに大井川領内にある宿屋は東海屋がまとめ上げているが、それをまるっと組合に引き込みたい。何かと都合がよいゆえにな」
「かしこまりました。ではそれも倅に話を通しておきましょう」
「頼む」
これで大方この話は終わったであろうか。
これが2つ目の予定である。
つまりは領内での軍備強化。さらに軍備という点で言うのであれば、領内の人口が増えれば民の間から銭で兵を雇うつもりである。
民の徴兵ではすぐさま兵が動かせぬ上に、時期によっては後手に回りかねん。とくに農繁期は厳しいだろう。
これを実現することが出来れば、圧倒的に周囲に対して有利になる。
敵方の兵となるはずの民が米を収穫している間でも、俺たちは兵を動かすことが出来る。史実で信長がやったことであるが、間違いなくこれは有用な手段だ。
このためにも人を多く迎え入れねばならぬ。
近く栄衆を使って噂を広めさせよう。さすれば遠江を目指してやってくる者が増えるやもしれんでな。
「さて、これが最後だ。最後は政ではなく、策略・謀略の類」
「謀略…。つまり先ほど申しておられた井伊谷と犬居谷のことでございますか?」
「そうだ。まずこの場で問う。お前たちは信濃守殿を信用できるか?」
「それは…」
真っ先に声を上げかけ、そして口を閉ざしたのは佐助であった。そして声にこそ出さなかったが、道房もまた苦々しい表情で口を閉ざしている。
だが明らかに憎悪の感情は持っているようであった。
「犬居谷はよい。いずれ今川家より離反しようと動き出すことは必至だ」
「つまり現状家中で起きている騒動について、安芸守様が敗れると。そう殿は考えておられるのでございますな?」
「改めて言わずとも爺も同様に考えているのであろう?御屋形様であれば平等・公平に判断されるはず。しかしそれはつまり、天野惣領家の交代にまで発展しかねぬ。さすれば天野家の、少なくとも惣領家は今川から離れようと動くであろう。そこを俺が上手く引き込むゆえ問題は無い。だが問題は井伊家だ」
「…井伊谷のおかれた状況を見ても静観でございましょうか」
「三河からも近いうえに、遠江北部の抑えともなる城だ。蔵人佐は間違いなく声をかけるであろう。だがかの地は非常に危険である。ゆえに静観だと俺も見ている」
こういった話に爺は強い。
武一辺倒の佐助と道房はまたも置いて行かれ気味である。すでに昌友は別のことで頭がいっぱいなようであるしな。
「だがそれだと俺が困る。今川に残ると決断された場合、あの城を落とすのは骨が折れる」
「殿は先ほど信濃守様に恩を返してもらうとおっしゃられましたが」
「その通りだ。父上を犠牲にしてまで生き残ったのだ。その命を懸けて、恩を返してもらうとしよう」
「い、命を懸けて…」
そこで目を付けたのが、井伊家の家老である小野但馬守政次である。家老でありながら、井伊家の一族とは因縁深い男だ。
こいつを利用して井伊家の心を今川から遠ざける。
「『信濃守に離反の心あり』。これを井伊谷領内で広める」
「ま、まさか!?」
「そうだ。信濃守殿の弟らと同じ騒動を起こさせる。間違いなくこの噂を耳にすれば、但馬守は御屋形様にこの話を報せに走るだろう。真実かどうかはさておき、小野家は代々今川家に忠誠心が篤いようであるからな。そして道中、あるいは城内で今川の手になりすまして暗殺だ」
俺が首を刎ねる仕草をすると、3人はそろって口を閉ざした。
最初に我に返ったのは爺である。
「表沙汰になれば一大事でございますぞ。それでもやられますか」
「井伊谷は必ず落としておかねばならぬ。そもそも義元公亡き今川に武田が遠慮するはずがない。武田は内陸部にしか領地を持っておらぬため、南北どちらかに進出したがっている。だが北は長尾家と争って進出も厳しい」
「それゆえの南下でございますか。同盟を切ってまで進出してきましょうか」
「武田が今以上に大きくなるためには東西か、あるいは南しかない。だが海を目指すならば南の一択。すでに何度も長尾と川中島で戦っているのだ。決着がつかぬとなれば、急ぎ南に兵を出してくるであろう。三国同盟締結中の北条は、関東管領を擁している長尾家と争っている最中であるゆえな」
だが御方様である春様と、御屋形様の夫婦仲は良好である。北条が敵になることは少なくともすぐには無いとは思うが、関東の諸大名らが敵となっている状態で今川に助け舟を出すことは絶対にありえない。そんな余力は絶対に無い。
井伊谷・犬居谷を押えたいのは、これに巻き込まれる形で武田が遠江に進出してきては困るからだ。
さすがにこの状況で武田の相手は出来ない。戦力差がありすぎるゆえに。
「俺はやるぞ。そしてこの騒動が起きればすぐさま行動を起こす。跡を継ぐのは但馬守の父親に親を殺された彦三郎殿で間違いない。そこに接触し、今川に対する憎悪を煽りつつ、将来的に味方になってくれるよう説得するつもりだ」
「勝算はいかほどでございますか」
「絶対に失敗はさせぬ。分家筋の有力者も使って煽り立てるぞ」
一番有効な分家当主は奥山家である。なにがよいと言われれば、現当主の娘らが多くの有力な御家に嫁いでいる。
井伊家の嫡子である直親殿や、その後見人である中野家当主、東三河の有力者である西郷家、井伊家の家臣で後に井伊谷三人衆に数えられる鈴木家など。
内1人の娘が政次の弟に嫁いでいるが、この者は桶狭間で死んだとのことであるから問題ない。近く娘は実家に戻されるはず。
だがことが起これば井伊谷が攻められる危険もある。そこで元康の出番だ。
井伊谷を手土産に、最悪の場合はしばらく守ってもらう。元康とて、この井伊谷の重要性は十分に理解しているはず。掌握を果たしたのは西三河だけであるが、東三河にも元康の手は伸びているのだ。何かしらの助け舟を出すことも出来るであろう。
「この流れはまさに一度あるか無いかの好機だ。絶対に逃せぬ」
「もし失敗すれば」
「領地を捨てて逃亡か、あるいは城を枕に武士らしく果てるのみ。だが領地を捨てれば、もう武士を名乗ることも出来ぬであろうな」
この大井川領であるからこそ、俺は夢を見られているのだ。他の地であれば、そもそもこのような大それたことは考えない。
そして揺らぐ遠江と三河。
これ以上の好条件が他のどこに転がっているというのか。だからこそ危険を承知で俺は動くのだ。
だがそれは少なく見積もっても数年後の話。
まずは地盤固めからである。
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