東海の覇者、桶狭間で没落なれど ー異伝ー ~天下を統べた男の軌跡~

楼那

桶狭間の戦いの後

一色政孝、立つ

第1話 別々の道へ 一

 ※お試し投稿です。

 本編が終わらない限りは、気分のままにゆっくりあげると思います。



 遠江国榛原郡大井川城 一色政孝


 永禄3年5月下旬 


 永禄3年5月19日、大軍を擁して上洛を目指していた今川義元公が桶狭間の地にてお討ち死にされた。

 相手は尾張一国すら掌握していない織田弾正忠家の当主、大うつけこと織田弾正忠信長だ。

 後の世で桶狭間の戦いと呼ばれるそれは、遠江一色家というイレギュラーな存在があったにも関わらず、変わらず史実通りの展開となった。

 一色家の先代当主、つまり俺の父もまたこの戦で討ち死に。報せてくれた者曰く、味方が散り散りになる中で、義元公のおられる陣にはりつき、最期の最期まで敵に背を見せずに戦ったとのことである。

 そんな父を俺は誇りに思っている。だがその志を継ぐかどうかと言われれば、話は別であった。

 当主討ち死にによって急遽一色家の当主となった俺は、大井川領で暮らす民を、父亡き一色を支えようと俺に尽くしてくれる家臣たちを守る義務がある。

 そのためには。


「若。いえ、殿」

主水もんど、いい慣れぬうちはどちらでもよい。いずれ慣れてくれたらな」


 桶狭間の敗戦が知らされてから数日後。敗走した者たちも城に戻り、ようやく一色家再建に動き始めようかと、そんな空気になり始める、わけが無かった。

 この敗戦で失ったものは一色家の当主。つまり俺の父だけではない。他にも多くの家臣や民を死なせてしまったのだ。

 すぐにでも再建に動こうという雰囲気になど微塵もならない。

 そんなよどんだ空気の中、俺は自身の部屋を一色お抱えの忍び集団『栄衆』に守らせたうえで、とある男たちを集めていた。


「では改めまして、殿。我ら四臣のみを呼ばれたということは、今後の事についてということでございましょうか?」

「その通りだ。駿河を含めた東海三国が揺れている今、我らがどうすべきであるのか。この場で俺の考えをお前たちにだけ伝えておきたい」


 一色家の数少ない一門衆の1人、一色主水昌友は真剣な顔で頷く。この男、すでに先代である父上の死から切り替えているようであった。仕えるべきは一色であるという認識を持っているのだと以前言っていたのを聞いたことがある。

 一方で一色家の筆頭家臣である氷上新九郎時宗は父上の死の報が届けられてから数日経った今でも未だ目の周りが赤く、そして一目見てわかるほどにやつれている。俺は歳の離れ具合と、よく世話をしてくれたゆえに親愛の意を込めて“爺”と呼んでいたが、たった数日のうちに呼び名相応なほどに老け込んでしまったように見えた。


「織田のうつけは赦せませぬ。ここはひとつ、儂も戦場に舞い戻り、政文様の仇を討ちたいと」

「爺、俺の話を先に聞いてくれ」

「…ははっ。逸りました、申し訳ございませぬ」

「構わん。こうした閉じられた場であるから正直なことを言う。これは一色家を長らく支えて来てくれたお前たちであるから打ち明けるのだがな。俺は今川家に先は無いと見ている」


 言葉を言い切るよりも先に、空気を凍らせるほどの衝撃音が部屋に響き渡る。音の主は仇を討ちたいと訴えていた爺ではなく、父の亡骸を命を懸けて大井川城に連れ帰ってきてくれた秋上新左衛門佐助であった。

 この者の父親も桶狭間の地で討たれており、さらにその亡骸は行方不明であるという。それゆえ、爺に隠れるような形で黙っていたが、根底には爺と同じ感情を抱えているのであろう。

 同じく父の亡骸を守って帰ってきてくれた尾野三郎道房は、ただ静かに話の行く末を見守っているように見えた。


「新左衛門殿、少しばかり落ち着かれよ」

「主水殿、すまぬ。取り乱した。…しかし殿はご存じでございますか?すでに松平が旧臣と散っていた分家を集い、西三河の大半を制したという話を。しかも自らが落とした大高城や丸根砦は放棄して、まるで織田家にそのまま返すような動きを見せたことを」

「聞いている」

「三河国内の多くの者たちは松平の動きを察して、城を捨てて逃亡するか、籠城して今川家のために戦おうとするか、松平につなぎをつけて助かろうとしているそうでございます」

「らしいな」

「もしや今夜の話とやらは、殿も松平に与すると、そういった話でございましょうか。松平家の当主である蔵人佐様は、かつて殿と勉学に励んだ間柄。もし松平よりそういった話があれば、師兄である御屋形様を見捨てて、師弟である蔵人佐様に与すると。そういうことでございますか」


 蔵人佐は松平元康。史実で言うところ、後の徳川家康だ。

 この元康、すでに岡崎城を中心に三河西部を掌握したという。なんせあの辺りにはまだ独立していたころの旧臣が多く集まっており、さらに元康の生家は多くある松平の家の中でも宗家とされる家柄。

 元康の呼びかけに多くの分家や旧臣が呼応し、瞬く間に三河西部を制圧してしまったのだ。それが桶狭間での敗戦から今日までのたった数日で起きた出来事である。

 また元康には独自の交友関係があり、今川家にとって因縁の相手である織田家とも繋がりを得ることが出来る。それを知っている者たちが、これから先は今川ではなく松平であると寝返りを画策している。佐助はまさにそのことを言っていた。


「新左衛門殿!その言い方はあまりにも殿に失礼でございましょう!殿はまだ本題に」

「三郎、そう声を荒げる必要は無い。すべてが合っているわけではないが、大筋は合っているようなものだ」

「…まさか本当に御屋形様を裏切られるのでございますか!?」

「声をもう少し落とせ。栄衆が周りをかためているとはいえ、誰の耳にも届かぬというわけではない」


 道房に注意しつつ、声を荒げかねぬ爺と佐助にも注意の意味も込めて視線を移した。これから先に述べることに対して、そういった行動に出る危険があったからである。


「俺は思うのだ。御屋形様はこの乱世を生きていくうえで、あまりにも優しすぎる。義元公もお師匠様もおられぬ今川家では、周囲の大国から向けられる圧には耐えられぬであろう」

「それをお支えするのが我ら家臣の役目でございましょう!それを政文様はっ」

「新左衛門、まことにそう思っているのか?一色家は元々越前・尾張・遠江三国の守護である斯波武衛家に仕えていた一族だ。斯波左兵衛佐様が家督争いに勝利し、遠江を取り戻された際に一色家は大井川領を再びお預かりした。たった数代前までは今川家を敵と定めてこの大井川を境に何度も戦っていたではないか。仕えていた時間で言えば、斯波武衛家の方が明らかに長い。それに父上はたしかに今川一門であったが、それは枷としての意味合いが非常に強かった。この暴れ川として名高い大井川は今川家を西の脅威から守るために要所の1つとして定められているほどに重要な地。過去の遺恨をすべて水に流した上で島田以南の大井川流域に対する本領安堵、このような無茶な条件を認めていただいたために今川の盾となり矛となることが求められた。以降、何度斯波家との戦に駆り出されたと思っている。どれだけの民が今川家の無茶ぶりにすりつぶされたと思っているのだ」

 

 今川家と言えば、織田家との三河・尾張を巡る因縁がよく話として持ち出されるが、それよりも支配領地的に貧しかったころ。つまり今川家と斯波家の遠江の取り合い時期が一番一色家には厳しかったと言える。これは一門衆に列される前の話で俺の祖父の時代にまで遡るのだが、城に保管されている記録から相当に領内が疲弊していたのだろうと推測できる。

 このことは大伯父・祖父・父上の3代に渡って仕えていた爺が一番よく知っているはずだ。

 少し特殊な立場であったからこそ一門に列された後ですら、明らかに父上の今川家中での立場は悪かった。義元公の妹君、つまり母上を妻として迎えたにも関わらず。この輿入れの意味はさきにも述べた通り。

 他の家臣からは口にはされずとも間違いなく避けられていたし、同じ一門衆からは仲間外れにされていた。すでに家中において大きな派閥が複数形成されていたこともあり、かつて敵であった一色家がいきなり一門に列されることに大きな不満を持たれていたのだ。都合よくすりつぶされ続けていたにも関わらず。

 そこで父上は俺をお師匠様、つまり太原たいげん宗孚そうふ様に預けられた。すでにお師匠様に師事していた御屋形様(当時は嫡子)の弟弟子という形をとることで、一色の跡取りである俺が後々苦労しないように。御屋形様からの寵愛を受けることができるようにと手をまわされた。

 まぁ結果としては俺も今川館では随分と苦労させられたのだが、お師匠様も御屋形様も、そして後に人質としてともにお師匠様に師事した元康もよくしてくれた。

 それでも俺が恩を感じるかと言えばそこまでではない。過去のとある一件で御屋形様に対して強い罪悪感を抱えているものの、そのために今川とともに沈みゆくかと言われれば、それはお断りだと考えていた。

 ゆえに俺はここで改めて宣言する。


「蔵人佐に与するつもりはない。5日後、御屋形様より今後の方針を決めるゆえ、家臣らは今川館に登城するよう命が下された。これに何食わぬ顔で参加し、味方に成りうる者、敵と成りうる者を見極めようと思う」

「…いったいどうされるのでございますか?」


 道房の言葉に俺はわずかに頬を上げて笑った。


「腐っても今川家は三国近くを支配する大名だ。まずは支配の届きづらい場所を奪う。手始めに井伊谷だ。聞いたところによると井伊谷城の井伊殿は父上に生かされたそうではないか?」


 桶狭間で起きたことを知っている道房は即座にうなずく。

 この井伊殿とは井伊信濃守直盛殿のこと。史実だと桶狭間で討ち死にして、井伊家は混迷の時代を迎えることになるのだが、この世界線では父上のおかげで直盛殿は生き延びているとのことだ。

 というか、義元公を放って早々に持ち場を離れたということでもあるのだが、そこは追及しない。

 井伊家をどうしても味方にしたいわけではない。少なくとも今は。

 俺が欲しいのは、武田家が大部分を支配している信濃との国境を守るための堅城。井伊家の居城である井伊谷城である。

 間違いなくこの地は遠江の北部を守るために必要な地であり城だ。父上に恩を感じているのであれば。今川に不安を感じているのであれば。

 直盛殿が味方に付くべき相手を見誤らないように早々に手を付けておきたいところである。


「その恩をここでさっそく返していただこう。そしてもう1つ目をつけているのが天野家。今は家中で随分と揉めているらしいからな。噂では近く御屋形様にその裁定をしていただくなんて話もある、が」

「天野様は不利であると見ておられるということでございますか?」


 昌友の問いに俺は頷く。

 話を聞く限り、この揉め事の非は安芸守景泰殿にあると見える。対立相手は過去に因縁のある同族、天野宮内右衛門尉藤秀殿。天野惣領家は景泰殿の方なのだが、色々とあくどいやり方で惣領家の地位を奪ったような形になっているために両者はずっと揉めているわけだ。

 今回の揉め事に関しても、ほとんど景泰殿からふっかけた因縁のようなもの。

 いずれ大事になるだろうと踏んでいたが、このタイミングで御屋形様に助けを求めようとしているとのこと。

 こういった情報を集めてくるのが栄衆であり、城から出ることがなかなか出来ない俺の目となり耳となってくれる。非常に助かる存在であった。


「天野家の領地は犬居谷。かの地も味方となれば、信濃の抑えとなりましょう」

「主水もそう思うか?それゆえに俺はこの両名に目をつけている。すでに栄衆を潜らせているゆえ、何か動きがあればすぐにでもこちらも対応に出ることができる」


 3人は俺の話に聞き入っていたようだが、爺だけはずっと小刻みに震えていた。明らかにそれは怒っている。

 俺が今川家から独立を目指そうとしていることも、俺の話術に引き込まれている他の3人に対しても。


「殿!今であればまだ間に合いますぞ!今川館にて再度の上洛を進言し、御屋形様とともに尾張を平定することこそが、一色家に与えられた役目でございます!ここでの離反など、調略など、それこそ周辺の大国に付け入る隙を与えるようなもの!今川一門衆が手を取り合い、他の者たちの不安を払拭しつつ、さらに家中を今一度1つにすることで、この窮地を脱するのです」

「残念なことであるが、一門が団結することはもはやない。実は混乱を避けるためにみなには伝えていなかったのだが、昨夜今川館よりとある報せがもたらされた」

「…報せ?」

「関口伊豆守殿が松平の人質逃亡に手を貸した疑いで蟄居が命じられた。これより、より詳しく何かしらの関与が無いか調べられることになる。関口と言えば、瀬名家と並んで御一家衆に位置づけられる。加えて幕府の奉公衆でもある関口の分家当主がこのような扱いを受けているのだ。この状況を見てどうして一門衆が団結できる。むしろ疑心暗鬼の中で内より徐々に力を失っていくことになるであろう」

「なぜそれを黙っておられたのでございますか、この儂にまでっ」


 時宗は絞り出すような声で俺に問いかけてくる。

 これは想定していた問いである。ゆえに迷いなく答えることが出来た。


「知っていれば大騒ぎをしていたであろう。順序に従い説明すれば、爺も俺の覚悟を理解してくれると信じ、今の今まで黙っていた」

「そ、そこまで考えて…。殿、伊豆守殿はどうなりましょうか」


 すがるような声色で時宗は漏らした。一門団結を提唱した傍からのこれだ。

 他の一門衆がアテにならないとわかったとき、父上の復讐を今川家として果たすことが出来ないことは時宗もよく理解している。

 ゆえにあのような絞り出すような声になる。徐々に自身の理想が崩れていく様に絶望しながら。


「今回の松平の人質逃亡は間違いなく失態である。仮に人質を拘束できずに岡崎城に逃げ込まれれば、誰かがその責任を負う必要がある」

「…よくて隠居、悪ければ」

「切腹であろうな。さらに悪ければ関口の刑部少輔家は断絶させられるやもしれん」

「殿は…。殿は人質の捕縛に動かれませぬか」

「たしかに動けば御屋形様は当分俺のことを信用されるであろう。だが蔵人佐は間違いなく敵視する。もう手を結ぶことは出来ぬ。俺がいざ立ち上がった時、東西が敵となるのは好ましい状況であるとは言えない」


 人質とは何かあった際の担保だ。

 裏切りが発覚すれば当然殺されることだってある。すでに元康には2人の子がおり、この逃亡劇にも関わっている。まぁまだ生まれたばかりの赤子であるが。

 ゆえに捕らえること自体はそう難しいことではない。おそらくすでに追手が向けられているであろう。これを助けるかどうかは、今後に大きな影響を及ぼすことになる。見て見ぬふりをするも1つであるが、俺には1つ考えがあった。

 俺が駿河を奪うまで、元康には壁になってもらわなければならない。だからこそ信頼を得る必要がある。


「栄衆に岡崎までの道中を影より護衛させる用意がある。すでに落人には待機を命じている。ここでお前たち4人がこの策に賛同してくれるのであれば、すぐにでも落人に命じるつもりだ」

「仮にそれが表沙汰になれば、今川家はすぐにでも敵となりますぞ。桶狭間での敗戦は、我らにも大きな傷を残しましたので」

「三郎、それは当然分かっている。そもそも今の俺たちには味方がいない。すぐにでも兵を向けられれば、間違いなく滅びる。それゆえ数年はこの策を隠し通して、今川家に残り続ける必要がある」

「当然ですが我らが力を取り戻すころには、他も同様に力を取り戻しておりましょう。なおさら独立など難しいように思えますが」

「それも十分に理解している。ゆえに3年以内にことを起こす。領民を増やし、家中で金を貯え、独自で戦えるだけの兵力も揃えるつもりだ。さらにいざことを起こす際の味方づくりも同時に進める。そしてもう1つ。三河と遠江一帯を円滑に手中に収めるためにこれを利用する」


 俺は背後より1通の文を4人の目の前に広げた。


「殿、これはいったい?」


 佐助からの問いに答えず、俺は爺を見た。爺はこの文を知っているからこそ、スッと目を横に逸らしたが、俺からの視線に気が付いて小さくため息を吐いた後に観念したように話し始める。


「これは政文様が生前、義元公からの提案で進められた松平家との縁談の契りでございます。松平家の先代当主、岡崎三郎様の娘である久姫を殿に嫁がせるというもので、新参の一門同士で強い結びつきを作り、今川家中に新たな三河派閥、言い方を変えますと旧松平派閥でございますな。これをつくるために政文様は吞まれたのでございます」

「久姫と言えばたしか」

「おそらく三郎の考えている通りであろう。久姫は非常に利発な女子とのことで、時期は違えど崇孚そうふ様が随分と可愛がられたという話もある。その利発さはかつての弟子である蔵人佐様以上とまで言われたこともあり、松平家中で変な気を起こされてはかなわぬとこの縁談が進められたのでございます。輿入れの時期は殿がご立派に初陣を果たされた後とされておりました」

「つまりちょうどよいのだ。蔵人佐は久という姉を家中から追い出したく、俺は目に見える形で蔵人佐との縁を得たい。この文が残っている以上、この話は立ち消えてなどいないはずだ」


 俺も久姫とやらも、そこそこの歳であるにも関わらず未婚だ。

 俺の婚姻が遅いのは、過保護な母上が嫁選びに異常なまでに慎重であったからである。義元公もさすがに一門の跡取りに嫁がいないことを気にしておられたようで、それでこの縁談を提案されたという事情もあったらしい。一方で尾張平定の最前線を担うことが出来る元康が、家中の揉め事で衰退することを恐れた。利害の一致がまさに両家にあった。

 そしてこの松平の後継者問題は独立を果たした今も残り続けているはず。逃げ遅れていなければ、元康の人質らとともに駿河を出たはずであるからな。


「…とても公になど出来ませぬな」

「あきらめたか、爺?」

「殿は昔から変なところが頑固でございました。商人優遇の御触れにしても、政文様と殴りあうまでの言い合いをされておりましたな。あのときは驚きでひっくり返りましたぞ。まったく、普段はさほど政に興味もなさそうでございましたのに」

「関心が無いわけではないのだがな。難しいことは頼りになる者に任せておくべきであろう。政において、主水の右に出る者はいない。領主である俺は最低限さえわかっていれば、あとは主水に託すのみよ」


 爺は唖然とした様子でため息をこぼし、他2人は苦笑い。当の本人はうれしげに笑みをこぼす。


「だが商人の保護を謳うあの触れに関しては決して譲れぬところがあった。商人らがいかに一色を頼りにするか、俺たちがいかにあの者たちを守るのかが重要であるにもかかわらず、父上はそこを理解しておられなかった。主水が困り果てていたゆえに、俺が声を上げたにすぎぬ。政に関してはやはり主水の方が信頼できる。父上よりもな」


 そもそも頑固なのは父上の方であった。条文の変更はありえぬと言い張るゆえ、こちらもむきになって、結果として取っ組み合いになったのだ。爺はその最後だけを目撃したゆえに俺が頑固だと勘違いしている。

 決して俺が喧嘩っぱやいというわけではない。断じてな。


「しかし爺が心変わりしてくれたことは俺にとっても歓迎すべきこと。これから3年の間、家中立て直しを大義名分として力を蓄えるつもりでいる」


 4人はついに力強く頷く。

 3人はすでに懐柔済みであったのだが、爺だけは特に長く父上に仕えていたこともあってなかなか頷いてくれなかった。

 どうしても納得しないようであれば、倅に当主の座を譲るように求める覚悟も決めていたのだが、とりあえずは一安心だ。


「夜は更けた。ネズミも寝ている時間であろう。これより具体的な話をする」

「その前に1つだけ」


 意気込んだそばから爺に話の腰を折られる。


「御方様は如何されるおつもりでございますか。生まれは今川であり、御屋形様は甥御でございますぞ」

「時期が来れば俺から話をする。縁を切ると言われれば、俺は止めるつもりもない。身の安全を保障し、無事に今川館まで送り届けるつもりだ。もしこのまま一色家に残ると言ってくだされば、どのような状況になろうとも必ず母上は守り抜く」

「…そう、でございますか。もはやそこまでの覚悟をお持ちであるならば、爺はこれ以上何も言いませぬ。誠心誠意殿にお仕えし、一色家のために生涯をかけるとお誓いいたします」

「「「氷上様に同じく」」」


 改めて4人が頭を下げてくれた。


 これにより俺たちは新たな一歩を歩み始める。今川家とは別の道を歩く。

 なぜか2024年を生きていたはずの俺が転生したこの世界。遠江一色家というおそらく実在しないであろう謎の一族で生まれ育った俺は、桶狭間で大きく混乱する主家を見捨てて自らの足で立って天下を目指す。

 生き残るために、そしてこの乱世を終わらせるために。

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