第5話 ユキちゃんの遺伝子ー1



「こんばんは、まだ起きてる?」


鈴の音のように透き通った声が聞こえて、月を遮るように、誰かが私を覗きこむ。

霞む視界でもはっきりと分かるほど、美しい女の人だった。雪のように白い肌。長い睫毛に囲われた、聡明さを秘めた紫がかった瞳。すっとした鼻。桜色の唇。

銀糸のような長い髪は、月の光を吸い込んで、少女漫画のヒロインみたいにキラキラと粒子を振りまいていた。


年齢は多分、私より少し歳上、22、3歳くらいだろうか。

この世の人間の憧れの全てを詰め込んだような、女神が存在するというなら、きっとこんな見た目をしているのだろうと確信するような、完璧で一点の曇りもなく、十人いたら十人が振り向くだろうと、たった今目にしたばかりの私ですらそう確信するほどの、美貌だった。


「あ……あ、」


もしかして、天使? そう喋ろうとしたけれど、脳の損傷が酷いせいか、言葉が上手く出てこなかった。


「うん。今日の月は、とっても綺麗だね?」


お姉さんがゆるく微笑んで、私の前にしゃがみこんだ。色素の薄い、銀色めいた長い髪がすだれのようにふわりと私の身体に掛かり、毛先が血で赤く染まる。


「ねえ。あなた、宇宙人?」


綺麗な女の人は、脳が飛び出し身体があり得ない方向に曲がっている死にかけの私に、狼狽える様子もなく、そんな頓珍漢な質問を投げかけてくる。

「いや、そんなわけ無いでしょ。というか、この状況で聞くことがそれ?」と、死にかけだということすら忘れ、私は思わず突っ込みたくなった。


すると、お姉さんの質問に呼応するかのように、ぴくりとも動かない、感覚すら失われた私の腕が動き、人差し指をお姉さんに向かって差し出した。

信じられない目でそれを見ていると、お姉さんも人差し指を差し出し、私達の指先が触れる。その瞬間、ビリッと私の身体に、電流のようなものが走った。


驚いてお姉さんを見る。お姉さんは何事も無かったかのように私を優しく見下ろしたまま、指先を離した。


「うん。そっか。分かった。こんな風になっちゃって、可哀想に。すごく痛いでしょ。今までだってずっと……辛かったね?」


お姉さんの掌が、血塗れの私の頬を優しく撫でる。その温かさに、優しい言葉に、涙が溢れ出して、止まらなくなった。




「きっとあなたは今、私の人生、何も良いことがなかった。辛いことばかりだった。どうしてこのまま死ななくちゃいけないんだろうって……そう思ってるよね」


私の気持ちを代弁したようなその言葉に、全力で頷こうとした。だけど、首がぴくりとも動かない。

それでもお姉さんは、私の意思を汲み取ったかのように微笑みかけ、私の涙を指先で拭って、頭を撫でてくれた。


「うん。そうだよね。あなたは今までずっと、すごく頑張ってきた。辛いことと苦しいことばかりが続く中で、自分のこともままならないくらい、頑張ってきたんだよね? 私はね。これからはその分、あなたは自分の為に、自分自身を幸せにする為に生きるべきで、その権利があるんだと、そう思うんだ……ねえ、あなたはどう? 自分の人生を、ちゃんと生きてみたい?」


お姉さんの甘やかな言葉が、心が蕩けるような美しい微笑みが、私のスカスカの胸に染み込んでいく。視界がどんどん霞んでいく中、私は必死で目を開き、お姉さんへと焦点を定める。


生きたい。生きていたいよ。幸せにだってなりたい。でももう駄目なの。

私……もう死んじゃうんだもん。

別に死んでもいいと思っていたはずなのにな。何だろう。今ものすごく死にたくない。死にたくないの。


だって私、まだお姉さんの存在を感じ取っていたい。見つめていたい。声を聞きたい。触りたい。お姉さんを──一度でいいから、抱き締めてみたい。


だから、絶対に──。


「いき、たい……、」


最期の力を振り絞り、私は心の叫びを口にする。するとお姉さんは頷き、私の前髪をかき分ける。醜い火傷痕が丸見えになった。お姉さんの唇が、ゆっくりと私の顔に近づいてくる。


その艷やかな唇が額の火傷痕に触れた瞬間。私の意識は、ブラックアウトした。






ふわふわ。ふわふわ。


ちょうちょが飛んでる。広い草原の中に、真っ白なちょうちょ。

わたしは走って、そのちょうちょを追いかけた。はぁはぁと息を切らし、手と足を目一杯動かして、ちょうちょを追いかける。


ちょうちょはそんなわたしを弄ぶように、ゆらゆら、ふわふわとわたしの前を飛んでいた。


「まって、まってよぉっ!」


半泣きのわたしは、白いワンピースを着ていて、子供の頃の姿をしていた。

だめだよ。もっとがんばらなきゃ。そんなんじゃ追いつけない。がんばって、がんばれ。

わたしは自分自身をはげましながら、大きく飛んで手を伸ばす。


空へと差し出したおさない両の手のひらが──ついにちょうちょを捕まえた。


ぶわり。


手の中のちょうちょが大きくなって、わたしを包みこむ。食べられちゃうのかもしれないと思った。

こわいはずなのに、なぜかわたしは、すごく安心して、ちょうちょのきれいな羽にほほを寄せる。


あたたかくて、やさしくて、すごくあんしんする。


おかあさんって、もしかしたらこんな感じなのかな? ……会いたいな。おかあさんに。


おかあさん。おかあさん。







「おかあ……さん、」


寝言を呟きながら、心地の良い夢から目覚める。緩やかに意識が覚醒し、ぼんやりと目を開けると、焦点の定まらない視界に、知らない景色が映った。


ここ、どこだろう。というか私、何してたんだっけ……あ、そうか。私、トラックに轢かれて、死んだんだっけ。

じゃあここは……天国?


「あ、起きた」

「……え、」


頭上から降ってきた声に、寝返りを打って顔を上げる。すると、この世の存在とは思えないくらい美しい女の人が、微笑みながら私を見下ろしていた。

誰だろうこの人、すごく綺麗……あ、そうか。死ぬ前に出会った、女神様だ。


「おはよう哀ちゃん。よく眠れた?」


にこりと微笑む女神様は、さっき会った時と少し格好が変わっている。なんというか、服装がかっちりしていた。

銀色の長い髪は上品なハーフアップになっていて、見るからに質の良い白のワイシャツに、胸元にはブラウンのリボンタイをしている。

まるで何処かの国のお姫様みたいだ。


思わずその美しさに見惚れてしまい、そのままじーっと見上げていると、頭の下がずいぶんと柔らかいことに気づく。どうやら私は、お姉さんに膝枕してもらいながら眠っていたらしい。


でも、良かった。本当に良かった。私、もう会えないと思ってた女神様に、もう一度出会えたんだ。


「あ、あのっ、あなたの名前は……?」

「私は吹雪冬華ふぶきふゆか。冬華って呼んでいいよ。あなたは……刃金哀ちゃんだよね?」

「あ、はいっ! 哀。はがね……あいです」

「敬語じゃなくても大丈夫だよ。私、哀ちゃんと仲良くなりたいもん」

「じゃ、じゃあ……冬華。私も哀って呼んで欲しい……かも」

「うん。じゃあよろしくね? 哀ちゃん」


鈴の音のような透き通った声が、にこりとそう告げる。私はそれに返事すらできずに、呆けた顔で見上げるばかりだった。

ああ、どうして綺麗な人は、声まで綺麗なんだろうか。お姉さん──もとい冬華は、返事がないことに首を傾げながら、にこやかな笑みを浮かべ、私の頭を優しく撫でた。

ふわりと、なんとも魅惑的な甘やかな香りが鼻をくすぐり、意識が再び夢へと落ちてしまいそうになった。


ああ、何だろう、この夢みたいな状況。幸せだなぁ……そっか、これが天国ってやつか。私、死んでよかったかも。


ふと周囲を見回してみる。

ドラマとかでよく見る、偉い人が使ってそうな木製のデスクと、そこに収まった座り心地の良さそうな革張りの黒い椅子。大きな観葉植物、難しそうな本がたくさん詰まった木製の本棚。

私が冬華に膝枕してもらいながら身体を預けているソファもふかふかで、三人は座れそうなサイズ感だ。

なんか、ドラマとかでよく見る『会社の偉い人の部屋』といった感じだ。


天国って、思ったより現実とそう大差ない環境なのかもしれない。



というか、今って一体どういう状況なんだろう?

後頭部になる柔らかい太ももの感触が名残惜しいけど、一旦起き上がり、冬華に問いかける。



「ねえ冬華、私……死んだの?」

「うん。死んだね」

「じゃあここは、天国ってこと?」

「ううん。ここは、私の執務室だよ」

「執務室?」

「うん。哀ちゃんが今いるのはね──自衛隊の駐屯地なんだ」

「じっ、じえいたい?」

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