第3話 ギラギラー3
「あ~スッキリした~! 刃金、じゃあまた始業式にね~」
「なぁ、ちょっとやりすぎじゃね? 親にバレて先生にチクられたりしねえかな」
「大丈夫大丈夫っあいつ親いないし、家でおじいちゃんにもボコられてるらしいよ~」
「マジかよそれ! ウケるわ~!」
冷えたタイルに身体を預けたまま、馬鹿笑いしている三人組の声と足音が去っていく。
その不快な音が完全に遠のいたのを確認してから、私は起き上がった。
ぽたりぽたりと髪から水滴が落ちる。バケツで盛大に水を掛けられたせいだ。呆然としたまま身体を起こし、女子トイレの窓から外を見る。
もう三月も終わりだというのに、季節外れの雪がちらついていた。
制服だけじゃなく、下着までびしょびしょだ。芯まで冷え切った身体は、ガクガクと震えが止まらなかった。
寒さに震える手で、散らばっている水浸しの教科書と文具を拾い集めながら、トイレの床に突っ伏したのは、これでもう35回目か。なんて、ぼんやりと考える。
ようやく全て拾い集め、あいつらが散らかしていったお菓子のゴミや、バケツやデッキブラシを片付け、のろのろと立ち上がる。
すると洗面台の鏡に、自分の姿が映った。
そこには、私がクラスメイトやその他の人々から嫌悪される理由が、ありありと映し出されていた。
顔の右半分から首筋までを覆う、引き攣った火傷跡。それを隠すために伸ばした、幽霊みたいな黒くて長い髪。栄養失調一歩手前の、猫背気味の貧相な身体。
この火傷跡は、昔鈴音ちゃんと喧嘩になって頬を叩いてしまった罰として、おじいちゃんに煮え湯を浴びせられて出来たものだ。
すぐには適切な処置をしてもらえず、三日三晩の高熱と壮絶な痛みに苦しんだ後、ようやく病院に連れて行ってもらって処置を受けさせてもらえた。当然のように、跡が広範囲に残った。
その時処置してくれた先生が、火傷や体の傷を見て虐待を疑い、私に事情を聞こうとしていたけれど、ここは片田舎で、おじいちゃんは大地主。
誰も文句なんて言えない。逆らうこともできない。いつものようにおじいちゃんが圧力を掛け、結局うやむやになってしまった。
助けてくれる人なんて、この町にはいないのだ。この街から逃げなければ、私はずっとこのままなんだろう。
まあ、逃げるって言ったって、私には他に身を寄せるような場所もあても、無いんだけれど。
この世界はどうしようもなく不平等で、その不平等さはこの世に生きる人々にとって平等に作用していると、私は思う。
その最たるものが、常識と錯覚するほど浸透してしまったカテゴリー分けであり、どんな人間だってひとつの例外もなく、たった二種類に分けられてしまう。
持つ者と、持たざる者。
蔑む者と、蔑まれる者。
持つ者は持たざる者を見下し、蔑み、持たざる者は、持つ者へ逆らう権利すら与えられない。この世界の基本原理。
その法則に私を当てはめるとするならば、私は産まれたときから、逃れようもなく──圧倒的に後者だった。
家に帰って急いで晩御飯の支度をし、三人で食卓を囲む。二人はテーブルで、私は床に正座して食べる。いつもの夕食の風景だ。
「あたしさぁ。いじめっていじめられる方に問題あると思うんだ。なよなよウジウジしてる奴がいるとさぁ。それだけで雰囲気悪くなるじゃん? だから陽キャのあたし達が、イジって面白くしてあげてるって感じ」
「そうじゃな。鈴音の言う通りじゃ!」
「ねえ、哀はどう思う?」
ふいに話を振られ顔を上げる。鈴音ちゃんが得意げな顔で私を見下ろしていた。
「うん……私も、そう思う」
「でしょ? あたし、見た目ってすごく大事だと思うんだよねぇ。いくら『人間は中身』なんて綺麗事言ったって、結局み~んな見た目で判断してくるんだもん……は~あたしは可愛く産まれてよかったなぁ。もし顔の右半分に火傷痕があったり、お風呂も3日に一度しか入らせてもらえない陰気な雰囲気の女だったら、学校でぜ~ったい虐められてただろうしぃ」
「あはは……そうだね。鈴音ちゃんは、本当に綺麗だと思うよ」
このくらいの嫌味じゃ、もう心も痛まない。鈴音ちゃんは今までだってずっとこうだった。私を目の敵にするように、おじいちゃんに折檻されるよう仕向けたり、見下したり馬鹿にするような発言をしたり、見た目とは違って、かなり性格がキツいのだ。
四月から鈴音ちゃんは、私と同じ高校に入学する。絶対ちょっかい掛けてくるに決まってる。私の学校生活は、より一層過酷なものになるだろう。
すべての家事が終わり、就寝時間になった。
私は自分の部屋に戻り、ベッドの下に収納してあるラックを引き出す。そこには漫画がぎっしりと詰まっていた。元は私の物ではない。漫画なんて買ってもらえないし。
鈴音ちゃんが読み飽きた少女漫画を、邪魔だからと私の部屋に持ってくるのだ。
その内の一冊を取り出し、カビの生えた薄っぺらい布団に寝転び、ページを開く。
そこには私と同世代の少年少女の、なんとも甘酸っぱい恋愛模様が描かれていた。私は夢中になってページを捲り、その世界に没頭する。
ああ、素敵だな。心臓がドキドキと心地よく高鳴る。こんな素敵な世界、本当にあるのかな?
好きな人と両想いになるって、一体どれだけ幸せな気持ちなんだろうな。
漫画を読み終えて、私は勉強机に向かう。秘密のノートを引き出しから取り出し、頭の中に出来上がった空想を、ペンに乗せて走らせた。
少女漫画を読むことと、『刃金愛』としての架空の日々を書くことが、私にとっての唯一の娯楽。心の安息の時間だ。
もしこの趣味がなければ、私はとっくに死んでいただろう。
小さい頃は、いつか私もこんな素敵な恋愛をしてみたいと、そう思ってた。顔に火傷を負って、家でも学校でも虐められ続けて、今じゃそんな事無理だって、なんとなく分かってきたけど。
叶うことなら、友達と遊んだり、好きな人を想って想われる。そんな幸せな人生を、経験してみたかったな。
ある日突然白馬の王子様が現れて、私をここから連れ出してくれたり、しないだろうか。そんな日を、私はずっと待ち焦がれている。
そうだ。今日の話は、自分の理想を詰め込んだ白馬の王子様が『愛』を連れ出す話にしよう。
気が済むまで日記を書いた後、ふうと一息つく。勉強机のカレンダーがふと視界に入り、「あ」と声が漏れた。
「そうか。私……もうすぐ誕生日だ」
四月一日で、私は16歳になる。
高校を卒業するまで、後二年。18歳になったら、この家を出ることが……出来るのかな?
「遅いッ!」
春休みも半ばの三月三十一日。
私はいつものように、怒号とともに殴られ吹っ飛んだ。頬を押さえて見上げると、凄まじい剣幕のおじいちゃんと目が合う。
「一体いつまで掃除しておる! さっさと済ませて、次の家事をやらんかぁッ!」
「うっ!」
足でお腹を踏みつけられ、お腹を押さえてうずくまる。
「俺がお前を、何のために置いてやってると思っとるんだっ! 身寄りのない所を拾ってやった恩を忘れるな! このっ! くそガキがぁ!」
散々踏みつけられた後、仰向けに蹴り転がされる。ぐったり倒れていると、胸を思いっきり踏まれた。
「い゛っ!」
鈍い悲鳴を上げると、おじいちゃんの表情が変わる。まるで何かを確かめるように、その足が胸をぐりと踏みしめた。
「哀、お前……少し胸が膨らんできたんじゃないか?」
「……え、」
ぐり、と確かめるようにおじいちゃんの足が再び私の胸を踏む。そしておじいちゃんは、ニタリと嫌な笑みを浮かべて足を離し、私に手を差し出してきた。
「哀よ。乱暴してすまんかったのう……ほれ、手を貸してやる」
「え、あ……ありがとうございます」
混乱したままその手を握り立ち上がる。次瞬間、今まで感じたことのない悪寒が身体をぞわりと走った。下を見る。おじいちゃんの手が、私の胸を掴んでいた。
「ひひ、貧相なばかりだと思っておったが、ようやく実ったか。そうかぁ……よかったのう」
ニタニタしながらそう言って、硬直したままの私を残し、おじいちゃんは廊下を歩いていった。
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