第7話 夏風

 彼らがいる四方広町よもひろちょうは上空から見るとひし形をしている。少し南北に長いが、それもほとんど誤差であり、正確に言えばその形はほとんど正方形だった。


 病院、高校までの複数ある教育機関など、一通りこの国で生活するための施設が設けられており、町の中心にある駅前は休日に限り人で賑わっている。

 これといったショッピングモールのようなものはないが、東西に延びる商店街で大抵のモノが揃うため基本的に不自由することもない。


 半端な田舎町と言われればその通りなのかもしれないが、どちらかといえば住宅地が立ち並ぶベッドタウンの方がイメージとしては近かったりする。

 東と西を分けるように南北を走る河川や、北東に聳える小山など、人工物だけでないのがこの町の特徴であり、小学生が外で遊ぶ環境としては最適だと言えた。


 今の小学生は外で遊ばないなんて世間の大人たちは嘆くものの、環境さえ整っていれば子供たちは元気良く遊ぶ。

 神社に続く階段を二段飛ばしで駆け上がっていく大地とそれに続く鏡花と終夜がそれを証明していた。


 神社の階段は手すりもないのに五十段近くあり、段差そのものは小さいといっても一気に駆け上がれば流石に、力有り余る小学生であっても息は荒れる。

 もうちょっと階段を減らすことができなかったのか、と。頂上で膝に手をついて息を整える大地は珍しく愚痴をこぼした。

 だからいつ来ても参拝客が少ないんだよ、など近い将来廃れ行く神社の光景までしっかり思い浮かべて、それから振り返る。


 風が通り抜けた。

 その日の猛暑には似つかわしくない、涼しみを帯びた爽やかな風だ。汗の存在を強く感じる。

 そこにあるのは、全力で走ってきたという事実。

 それを祝福するかのように、夏空からは風が贈られ、そして眼下に広がる町の景色がまるで拍手をするかのように煌めいていた。


 そういえば。

 ここから町の光景をちゃんと見たことはなかったな。

 大地の眼に映る町に、変わりはない。いつも通りだ。

 先生が消えたことにも気が付かないし、小学生三人が必死に駆けても町は我関せずと無言を貫く。

 その町の広大さ、無関心さに自分自身がちっぽけである認識と普遍の日常の確認を繰り返した大地は、やがて遅れて上って来た東鬼しのぎ 鏡花きょうか九十九つくも 終夜しゅうやを迎えた。


「遅えよ」

「いや、大地君が早いだけだって……」


 前方を走っていた大地の姿は、神社の階段を上る前から既に豆粒のように縮んでおり、その差は彼の階段二段飛ばしでさらに開いていた。

 ようやく追いついた二人、息も絶え絶えながら辛うじて言葉を発した終夜は精一杯に深呼吸をし、その隣で玉のような汗を浮かび上がらせている鏡花は終始無言のまま息を整える。


 そこに会話は無い。かといってそれが静かであるということもなく、朝方よりも大分落ち着いた蝉時雨はもちろん、時折吹く風の音。それによって一瞬木の葉が擦れ合い、そしてまた蝉時雨だけが空間を埋めていく。


 膝に手をつく鏡花は、石畳に彩られた黒い影をぼんやりと眺めた。その影は立体的に見えてしまうほど、くっきりとその輪郭を描いている。

 しかしそれはまるで自分自身とは程遠かった。陽射しの向きも関係していたが、鏡花の姿形は綺麗なまでに潰されていて、まるで自分の全てを否定されているよう。


 いや、あるいは。それこそが正しい姿なのだろうか。

 玉になって落ちる滴が、地面に生まれた出来損ないの鏡花を濡らした。


「大丈夫か、東鬼」

「え、うん……。ごめん」

「大丈夫? えっと、お茶飲む?」

「ん、ありがとう……」


 銀色の魔法瓶水筒から注がれた麦茶を一気に飲み干す。キンキンに冷えた液体が口内から体内へ。干上がった喉はその息を吹き返し、混線気味だった思考が幾分落ち着いた。

 味はよく分からなかったけれど、いつも家で飲むお茶よりも薄かった気がする。

 舌の上でしばらく麦茶の味を転がしながら一息をついた彼女は姿勢を正し、終夜にコップを返した。


「もう大丈夫よ。ありがとう」

「神社はすぐそこだからさ、のんびり行こう」


 参道に立ち並ぶ榊の影を踏みながら、彼らは進む。

 この神社は参道もまたそれなりの長さを有しており、祭りの時期になると毎年この道には数多くの屋台が並ぶ、八月中頃にあるその祭りにはまだほど遠く、現在神社は朝も昼も人の気配とやらを感じさせず、まるでその一帯が貸切状態であるかのように誰もいなくて何も無い。


 石畳を歩けば硬い感触が足に跳ね返り、視界は榊の緑と陽光を遮る木陰とのコントラストで埋められていた。

 大地はふと、声を上げた。間延びする蝉時雨が支配しているこの空間に、ついに耐え切れなくなったのだ。


「なあ、今年の祭りどうする?」

「どうするって?」

「だから、予定とかあるのかって話だよ」

「あ、僕はおばあちゃんの家に帰ってるかも」

「なんだよ、終夜はいないのか」

「私もいないかもしれないわ。あと一週間ぐらいあるし分かんないけど」

「なんだよー、じゃあ俺独りじゃん」


 盛大に溜め息を溢す大地。終夜は乾いた笑いを飛ばし、鏡花は、未定だけどね、と。一言そう付け足した。

 毎年お盆前に行われる四方広祭。そこそこの規模でそれなりの人数が訪れるその祭りには当然、地域の同級生も多く集まる。

 大地がそれに参加する目的というのは基本的に、夏休み中に会えないクラスメイトと顔を合わせたいからで、何も本気で祭りを楽しもうなんて思ってなかったりする。彼の思い描く祭りの風景は常にそれそのものであり、そこに終夜や鏡花の姿がないのは、少し寂しいものがあった。


「……大地は帰ったりしないの? お爺ちゃんの家とか」

「わっかんねー。もしかしたら俺も爺ちゃん家に行くかもな。あんまり行ったことないから、久しぶりに行ってみたいし」


 憶えている限りでは過去に二度ほど訪れていた。

 一度目が小学校に上がった夏休み。そしてそのまた翌年の夏休みに行ったきり、母方の祖父の家には顔を出していない。如何せん距離が遠すぎて、中々時間も取れないらしい。


 もしかするともっと幼稚園入園以前から訪れていたのかもしれないが、とにかく綺麗に忘れてしまっていた。

 記憶の中ではかれこれ四年間行っていないことになる。

 久しぶりに従姉妹とも顔を合わせたいな、なんてぼんやりと考えてみるものの従姉妹の顔が微妙に思い出せず、大地はそこで記憶の散策を止めた。


「や、やっと着いたわね……」


 参道をひたすらに進み切り、木陰の色が濃く変わっていく錯覚を覚え始めた頃合いに、目的のそれは姿を現した。

 荘厳、なんて言葉を大地は知らない。

 ただそれがそこにある重々しさや風光明媚な情景が彼らから言葉を奪い、しばらく呆然と、佇むことのみを強いていた。


 朱色に塗られていたであろう本殿の塗装は既に剥がれつつあり、そこに豪奢や神々しいといった文言は決して似つかわしくないと、大人たちは口を揃えるかもしれない。

 しかし大地らの視界にはその神社一帯がまるで異世界にでも包まれたかのような、あるいは人間のモノではないような。そんな不可思議な空間に満ち溢れているとしか感じられなかった。


「……行くぞ、二人とも」


 誰かの喉が鳴った。緊張と興奮。彼らの顔つきは恐怖に彩られたものではない。

 寧ろ子供特有の好奇心、それに突き動かされているようだった。

 それが悪か善か。難しいところだろう。好奇心は猫をも殺すのだ。その感情をどちらに批評することは、現状不可能だった。

 一歩ずつ。

 まるで地雷原を進んでいるかのごとく三人の足取りというのは遅々としており、ようやく拝殿へと辿り着き賽銭箱を抜けた頃には、額の汗が雨のように顎から滴っていた。


 しかし後は本殿へと入るだけ。そこで先生が消えた真実が分かるかもしれないのだ。

 先頭にいた大地は蝉の音に急かされるように、格子戸へと手を掛け、そして意を決して勢い良く開く――


「こりゃあ! お前らか、落書きをした悪ガキどもは!」


 果たしてそれは雷鳴か怒号か。

 深く考えるまでもなく後者だと結論付けることができたが、同時に肩を跳ねさせた三人からすれば、どうだってよかった。いや、まだ雷の方がマシだったのかもしれない。

 その声に、蝉時雨が鳴り止み、神社という特殊な空間が作り出す厳かで張り詰めた空気が生まれる。

 あるいは。それは人間同士でだけ感知できる気まずさだったのかもしれないが。


 恐る恐ると、振り返る大地に続いて、他二人もその声の主を見た。

 袴を着た男だ。

 髪は白い。その男の鋭い眼光で小さな生き物ならば根絶やしにできてしまうんじゃないかというほどに、纏う雰囲気というのは威圧的で、軽い怒気を孕んでいる。


「ワシらがどれだけ苦労しとると思っとるんじゃ!」


 やばい怒られる。というか既に怒ってる!

 春夏秋冬ひととせ 大地だいちは野性的感かつ現状把握能力を以て、起こり得る未来を幻視する。

 話せば分かってくれるだろうか。知り合いが神隠しに遭ったと言って、目の前の神主はその怒りを治めてくれるだろうか。


 いや、怒られる。

 やはり避けようもない結論を導き出した大地は傍二人に目配せで全てを伝える。

 逃げるぞ、と。

 その意志は無事共有された。神主が一歩二歩と大地らに近付いて足を進めたその瞬間、三人は拝殿から脱兎の如く駆け出した。


「あ、こら! 何処へ行く!?」

「いやいや、爺さん。俺らなんもやってねえから!」

「嘘つけ! じゃあ逃げるな!」


 至極的を射た正論を背中に浴びながら、それでも彼らはその足を止めなかった。誰だって怒られると知りながら、話をしようとはしない。

 とにかく、走る。あれだけ長く感じられた参道を瞬き数度で駆け抜けて、三人は階段を慎重かつ大胆に下って降りていった。風はその身に強く当たり、汗は飛び散りまた流れ出る。夏の陽射しはどこまでも眩しく熱く。

 三人の影は踊るように、楽しむように。

 コンクリートへと溶けて混ざっていった。

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