第4話 夏姿
さしもの、好奇心旺盛な少年としての素質が強い彼でも神聖な神社本殿に忍び込むという事はしなかったのだ。
それどころか、春夏秋冬 大地という少年は悪性を善しとせず、その悪性に立ち向かい続けてきた経歴を持っている。
それはまた別の機会にでも語ることとして、つまり端的に言えば正義心への意識が常人よりも数段高いのであった。
そんな彼が、普段入ることさえ許されていない神社本殿へと足を踏み入れたのは、好奇心以上に、鏡花が見かけたらしい先生のことが気に掛かっていたからに他ならない。
わざわざ
場合によっては担任教師の日常を暴くチャンスだと、意気揚々と入った彼が見たものは、しかし目的の人物ではなく椅子一脚だけ。
あまり足の長くも無いそれが、ポツンと置かれていただけだったのだ。
「あ、あれ……?」
意を決して格子戸を開いたのに、この有り様である。
拍子抜けというか、落胆というか、大地は
「なんだ先生いねーじゃん。東鬼の見間違えか?」
「そ、そんなはず……」
鏡花が狼狽えて室内を見回すが、そこに人影が無いのは一目瞭然だ。
視界を遮るものがない。精々が真ん中に設けられている、何のためにあるんだか分からない椅子ぐらいなもので、それ以外に何も無い。
ガランとした空虚が、そこに広がっているだけだった。
「でもさ、やっぱりいねーよ? 隠れるような場所もないし」
「だって本当に見たのよ! 天鈴先生がここに入ってくの!」
その彼女の声は蝉の声に混じる勢いで飛び出した。
東鬼 鏡花という少女は嘘を吐かない。性格の面において、気取ることはあっても嘘をその身に預けないのが彼女の特色であり、鏡花の流儀でもある。
思い返してみても記憶と照らし合わせてみても、彼女が虚偽報告を行っていた憶えがない。
大地が正義感に溢れているのであれば、東鬼 鏡花は常にブレないのだ。
曲がることもなく、歪むこともない。偽るという選択肢がそもそもない人間として、彼女は生きてきた。
だから鏡花が天鈴 永を見たという報告は事実なのだろう。大地自身はそう思っていたし、別に本気で見間違いだと思っていたわけじゃない。
ただ事実を確認してみれば、彼女が見たという担任の姿はどこにもなかった。
彼女が嘘を吐いていないとして、それならば天鈴 永はどこへ行ってしまったのだろうか?
大地の視線の先にあるのは、ひたすらに空ろ。夏の昼前だと言うのにその空間は薄暗く、若干の湿り気と涼しさが肌を撫でて行く。
古びた木造の内部はそこかしこが埃っぽく、独特の臭いが鼻を突いて、駆け抜けた。
「でも、やっぱりどんだけ見てもいないぜ?」
大地の味覚を除く感覚野は既に麻痺し切っていた。
皮膚は太陽から迸る熱線と本殿から流れ出る冷気とで曖昧に。
視界は陽光と日陰とでぼやけてしまう。
鼻は嗅いだことも無いカビ臭さにやられてしまっていた。
耳に至っては虫捕りの段階で異常を来している。
最早判断できる脳が暑さによって溶けてしまっているんじゃないか。それほどまでに、コンディションは最悪で最低だった。
だからだろうか。背後で聞こえた声への反応に、ワンテンポ遅れてしまった。あるいは、単に蝉がうるさかっただけかもしれないが。
「どうした? 終夜」
終夜が蝉に負けないぐらいの声音を上げるなんて珍しい。
大地が本殿に浮かぶ暗がりから青白く光る外界へ視線を移すと、終夜がおっかなびっくりといった表情で佇んでいた。
皮製の靴をその手に持って。
「なんだよ、その靴」
「えっと、入り口にあったんだけど……」
サラリーマンが履いてそうな黒靴がどうしてこんなところに?
首を捻っても頭を振り絞っても明確な答えが出てこない。誰かの忘れ物だろうか?
「ちょ、ちょっとそれって先生のじゃない!?」
「は? どれが?」
だからそれが、と。傍にいた東鬼 鏡花がその靴を指差す。
いやなんで先生の靴だって知ってるんだよ、なんて感想が浮かび上がったけども大地はそれについてとりあえず考えないことにして、ならば先生の靴がそこにあった理由について考察する。
今終夜が手にしているそれが本当に天鈴 永のモノであるのであれば、鏡花の見間違いでも何でもなく、先生は確かに靴を脱いでこの本殿に上がったことになる。
しかしその可能性しか残っていないとしても、なら肝心要の先生は何処に行ったんだろうか。物的証拠が残っているのであれば、この件は誰かの勘違いでも事故でも何でもない。正真正銘の事件になる。
大地は俄かにその身を強張らせた。
「か、神隠しじゃないかな……?」
「……神隠し?」
終夜の言葉にオウム返しで、大地が視線を向ける。彼は戸惑った様子で、自分の発言に自信が無い表情を隠しもせず、口を開いた。
「うん。えっと、本で読んだだけなんだけど。こういう神社とかだと、人が消えることが多いんだって。何でも神様が、違う世界に連れて行っちゃうらしいんだけど。詳しいことは分かってなくて……」
「え!? 先生まさか、本当に……」
鏡花の叫びにも似た悲鳴が響き渡った。それはまさに悲鳴。哀しい、泣き声に近かった。
だから大地は、そこで二人に視線を送る。彼は彼として、このいつも遊んでいる顔ぶれのリーダー的存在として、提唱した。
「じゃあさ、訊いてみよう。ウチの姉ちゃんにさ」
彼の声は本殿内部で反響し、蝉の鳴き声に交じり合って消えた。
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