第3話 消夏

 春夏秋冬ひととせ 明智あけちは人工冷気をその全身に浴びながら、カーペットに倒れ伏していた。

 ついに終わったのだ。姑息で醜悪で存在する価値なんて一つもない、夏休みの課題が。

 一時は日本生まれの日本育ち、生粋の日本人である明智にとって理解し難い謎言語を使った文字列が立ちはだかったが、彼女はこれを二時間掛けて攻略。全ての労力を使い切った明智は、そうして今に至っていた。


「明智、宿題終わったの?」


 母の声が天から降りてくる。実際に母が天に召されたわけじゃないが、明智としてはどちらにしても同じことだった。あるいは、その母の詰問は地獄からの呼び声だったのかもしれないが。


「……終わった、終わったよ」


 テキスト一冊だけだけど、と。内心でそう付け加える。

 今しているこれは休息なのだ。怠惰ではなく、先延ばしでもない。集中力のリセットで、次に最高のパフォーマンスを発揮するための準備段階である。

 自身にそうして言い聞かせて、明智は寝返りを打つ。

 というかぶっちゃけるともうペンも持ちたくない。テキストも読みたくない。課題のことを一ミリも考えたくない。春夏秋冬 明智はリビングでダラダラしながら、午後の予定を夢想する。


 とりあえずお昼を食べたら机の上に積み上げている本を消化していこう。暑いから外に出たくないし。

 部屋の温度が設定された温度と同じになったのだろう。クーラーの駆動音が少し弱まった。

 BGM替わりにと、流していたテレビの音が鮮明に耳に届くようになり、外から漏れてくる蝉時雨がその存在を主張し始める。


 ここは楽園だ。地獄にいるような灼熱に曝されることもないし、時間になれば母が昼食を作ってくれる。

 モノ申すとすれば連日続く素麺攻めに対して文句しか出ないが、そもそも料理しない明智に小言を言う権利などなく、今日も麺つゆ多め、薬味たっぷりのアレンジを効かせて乗り切らねばならないことだろう。


 しかしやはり、そのことを差し引いても自宅が一番である認識に変わりはない。

 これで課題さえなければ、と。長期休暇による学力低下を防ぐ措置にぶつくさと呟いて、その自堕落根性を見つめ直す気もない明智は、ふと外から入り込んでくる声に気が付いた。

 蝉の声に混じり、電波の悪い場所でラジオを聞いているかのように断片的にしか聞き取れなかったが、声の主が弟のものであることを看破した彼女は、特に出迎えるわけでもなく寝転んだままで顔をカーペットに埋める。


 やがて帰宅の旨を伝える文言と、数人の足音が床を通じて耳に響いて鳴った。

 どうやら弟は友人も連れて帰ってきたらしい。

 慌ただしく床を蹴る音が止み、リビングと廊下を繋ぐ扉が勢いよく開かれる。

 まるで平和を破砕する銃声のようなそれは、明智の興味を惹くのに十分過ぎるぐらいの効力を発揮し、事実彼女は唐突の闖入者に視線を奪われた。


 弟である春夏秋冬ひととせ 大地だいちが忙しないのはいつものことだ。特別驚愕するほどのことでもないし、それに友人と遊びに来るのも良くあること。

 ただ、振り向いた明智が驚いたのは大地含む三人の表情があまりにいつもと違っていたから。

 触れてしまえば爆発してしまいそうな、あるいはたった一滴で溢れてしまう満杯のグラスのような、いつ決壊してもおかしくない堪え切れない様相で、彼ら彼女らは息を切らしていた。


「どうしたの? そんなになって」

「せ、先生が……」


 先生? と。そう訊き返して明智は自分の担任教師を思い浮かべたが、すぐさま弟の担任のことであると認識をスライドさせる。

 確か名前が天鈴とか言ったっけ。綺麗な名前だからなんとなく憶えていたけど、その先生がどうしたのだろうか。


 彼女の好奇心は特別口に出ていたわけじゃない。ただ放つ雰囲気とか、表情としてそれが表に出ていたのだろう。

 大地の言葉を引き継ぐように少女、東鬼しのぎ 鏡花きょうかが明智の胸中に浮かび上がった疑問を振り払った。


「天鈴先生が消えちゃったんです……」


 消えた? そんな質問を口に出す前に、少女がさらに続けた。

 まるでその言葉を明言するのも嫌だと言わんばかりに、表情に苦渋に歪め、声は拙く震えていた。


「か、神隠しです。先生が神社から、消えちゃったんです……!」

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