第2話 夏蝉
蝉の声がうるさい。右耳へも左耳にも、とにかく上からけたたましいその音が時雨となって降り注いでいる。友人の声が隣から聞こえた気がするが、何を言っているのか微塵も聞き取れなかった。それぐらいに、周囲からの雑音が凄まじい。音の檻に囲まれてしまったような錯覚を覚えてしまうほどだ。
「ねえ、蝉なんて集めてどうするのよ?」
乱立する木々にへばり付く音の主に網を振り降ろしながら、すぐ傍で紡がれた声を耳にする。網が幹に当たる感触をその手に覚え、同時に捕らえようとしていた対象に逃げられた事実を目の当たりにしてから、振り返る。
外で遊ぶことを趣味とし、オシャレやらファッションなんかは他の女子小学生と同じくらいに興味はあるみたいだが、そんなことも霞むレベルで、男子といることが多かった。
だからこそ、彼女はこうしてここにいるわけで。
「ロマンだろ、オトコのさ」
「意味分からないんだけど」
「俺たちには分かる! なあ終夜」
大地が首を回し、少し離れたその少年へ視線を移す。網をゆっくりと振り下ろしていた少年、
「ほらな」
オトコなら誰だって分かるもんだ。蝉を捕りに行くっていうことの重大さがな。大地は彼の返答に自己満足し、再び蝉捕りを開始する。
「いや、あれどう見ても絶対話聞いてなかったわよ……。九十九君適当に返事しただけじゃない?」
呆れたような疲れたような、そんなやる気の無い反論は、この蝉時雨の中では上手く届かない。夏の暑さよりも白熱している二人の昆虫採集に飽きた鏡花は、しばらく木陰に寄り添うことにした。
神社の境内を埋めるように自生する榊が、時折その葉を揺らし、その後木立の隙間を縫うようにそよ風が通り過ぎていく。
木々がなびく都度に、地面にへばり付いた影は形を変えて、湯気のようにフラついていた。
まるで現代社会から異次元にでも連れてこられた、そんな幻でも見せられている気分に浸れるが、絶えず上から注がれる蝉の鳴き声がその幻覚を打ち破る。
一人で風景に浸るには、あまりに妨害が多かった。
他二人に話し掛けても虫捕りに夢中。呆然と佇むには環境が最悪過ぎる。
鏡花は新しい興味の対象を探すべく、周囲に視線を向けた。
どこまでも榊の木々が広がり、ほんの少し先に神社の本殿が見える。控えめな造りではあるものの、本殿そのものは荘厳な雰囲気を放ち、その神々しくもある存在感が鏡花のいる距離からでも感じ取れた。
思えば朝から何をやっているのだろうか。
本来なら家で夏休みの宿題に取り掛かっている時間帯で、朝のラジオ体操が終わった後、今日も変わらずそうなるんだろうなという確信めいた予定を立てていたのだが、なんの因果か町にある唯一の神社に来ている。
鏡花は視界の端に時折映るこの状況へと誘った張本人へ呪念を送った。
かれこれ二時間は虫捕りに夢中になっているはずだ。よくもまあ飽きないものだ、と。最早呆れが関心に変貌していく中、少女はその視線の先に一人の人物を見つけた。
遠くからでよく分からない。
恐らく視力検査で一番下のランドルト環の向きを見破れる人間しか、その人影の正体を当てることができなかったはずだ。
特別視力が良いわけでもない東鬼 鏡花が神社本殿に立ち入ろうとしているその人の特徴を詳しく知れたのは、単に知り合いだったからに過ぎない。
長身痩躯。髪は耳に掛かるか掛からないかの長さで、墨汁を溢したような黒色が特徴的な頭髪と雪のように淡い白のシャツがコントラストを描きよく似合っていた。その人物は、やがて本殿内部に続く扉を開き、鏡花の視界から姿を消した。
「ね、ねえ。今先生が……」
溶けるように漏れた言葉は蝉が奏でるオーケストラに掻き消える。
蝉に囲まれているという実感こそないが、しかし言語伝達を度々阻まれ、少女には嫌気と鬱憤が蓄積されていた。
当然網を振り回す大地と終夜の耳に届いた様子もなく、一番近くにいた大地へと近づき耳元で叫ぶ。
「ねえ聞いてる!?」
「うわっ、びっくりした! なんだよいきなり」
器用に網を持ったまま耳を塞ぐ大地。
耳元でわざわざ大きな声を上げなくてもいいんじゃないかと思わないでもなかったが、春夏秋冬 大地は過去を振り返らない少年だ。おまけに心優しい。
特別そのことに怒ったり不機嫌になったりせず、呼び掛けてきた鏡花へと向き直った。
少女の瞳からいつもの突き刺すような力強さは感じ取れず、戸惑いを含んだものだった。
まるでこの天を覆う青空とは真逆の陰鬱とした曇天のような、いつ雨が降ってもおかしくないような、そんな不安定な瞳がそこにあった。
これは只事じゃない。少し離れた場所にいた終夜にもそれが伝わったのか、虫捕りを止めて近寄ってくる。
「どうしたんだ、東鬼。腹でも痛くなったか?」
もちろんそんなことな筈がないことぐらいは、大地本人としても分かっていたがどうにもこういった真面目っぽい雰囲気は苦手だったのだ。
それを打破したかったわけで、その真意が果たされたかと言えば全く以て微妙な空気を緩和する役にも立たなかった。
鏡花はそれに対してしおらしく首を横に振る。その仕草も彼女らしくない。こういう時、春夏秋冬 大地の知る東鬼 鏡花は真摯に受け答えない。
この状況ならば呆れからくる溜め息か馬鹿にしたような小言を並べるぐらいはしてきてもおかしくないはずなのだが、やはりそれもなかった。
いよいよをもって、大地と終夜の間に緊張が走る中、鏡花の口がゆっくりと開かれた。
「天鈴先生を見たの。あの本殿の中に入っていったわ」
「はあ? 天鈴先生が?」
大地は一人の青年男性を思い浮かべる。
不思議な雰囲気を持った、ある意味で優しくしかしその優しさが不気味で、違和感を覚えてしまうような。そんなチグハグな印象を、大地はその人物に抱いていた。
それが東鬼 鏡花が見かけた男の名であり、今この場にいる三人の担任教諭でもあった。
「どうして天鈴先生、こんなとこにいるんだろう?」
虫捕り網の長さを標準サイズに戻し、終夜は疑問を口にした。
それに答える声は無い。というよりも、誰一人として答えられなかった。
今は夏休み。担任教諭と出会う機会は限りなく少ないし、そもそも天鈴 永という人間は、三人の知るところではプライベートが一つとして見えなかったのだ。
夏休みという黄金の期間に入ってもそれが解消されることはなく、けれども永遠の謎というレベルではないその疑問の種を誰も気に掛けてこなかった。
だからこそ、今ここで天鈴 永に出会ったことは三人の探求心に否応なく火を点けてしまい、その焔は炎天下に立ち込める陽炎の如く燃え上がる。
「なあちょっと見てみようぜ」
「……そう、ね。ちょっと心配だし」
「え、辞めといた方がいいんじゃないかな……?」
三者三様の意見が、バラバラに砕けてもまとまらないことはない。
クッキーが粉々に散ったところで、それは元を辿ればどこまでもクッキーであることに変わりがないように、その意見は、どこまでいっても天鈴 永への興味が根源としてあった。
三人ともがお互いの顔を見つめ合い、そして頷く。そこに生まれる音といえば耳をつんざく蝉のこだま。
ただそこに芽生えた興味の種の成長は留まることを知らず、三人の意見は自然と一致していた。
少年少女の知的好奇心というのは何よりも尊重されるべきであり、彼ら彼女らもそれを自覚しているのか自覚していないのか存分にその若者らしさを発揮する。
中でも春夏秋冬 大地は知的好奇心の塊とも言える少年であり、興味を持てば大地自身その対象を理解、納得できるまではその好奇心が消えることはない。
過去彼は小学校の定番とも言える七不思議に自ら足を踏み入れ、かた田舎に属するこの町に起きた小さな事件を解決するのに一役買っていたりしている。
要するに何事にも全力で首を突っ込むのだ。
周囲を巻き込むのも厭わず、誰よりもそれを知りたがる。
理性よりも思考よりもリスクよりも何よりも先に、自分の中に育まれた僅かな違和の払拭をしたがる。
それこそが春夏秋冬 大地という少年の行動原理であり、最大の特徴と言えた。
故に、その三人が神社本殿へと移動した事実は最早自明の理であり、その先頭を大地が指揮していたのは水が重力に従って落ちるような当たり前のことだった。
神社本殿前に、少年少女は立ち塞がる。
目の前に聳え立つ木造の建築物は齢十二程度の大地らにとって、あまりに壮大であり崇高であった。
日頃の疲れやらストレスやらから解放されたかのような、そんな清々しい爽やかさに襲われる。
無論そんな鬱屈とした負の要素を大地たちが抱えているはずもなく、およそ彼らに過った感情は「凄い」といったようなそんな簡素なモノだった。
だが、確かにその本殿を改めて見た大地は、目を奪われていた。
夏の陽射しが降り注ぐ。
八幡造りの本殿へと続く石段に木々の影が伸び、賽銭箱が祀られているその奥は陰影が濃く黒い。
不思議な雰囲気が、その周囲一帯には漂っていた。
例えば人ならざるモノがその奥に潜んでいるのではないか。
例えば自分たちはここから戻れなくなるんじゃないか。
そんな根拠も無い不安が、大地に忍び寄るものの、しかし彼の瞳はまっすぐに、神社本殿を見据えていた。
蝉の声が止まない。まるでもっと本殿に近付けと急かされているような錯覚にさえ陥る。
そんなに言うなら行ってやるよ、と。それが大地の意志を決定付けた瞬間だった。もちろんそのことを露も知らない終夜と鏡花の二人は、無言で歩み始めた彼に戸惑い、けれども同じく黙って続く。
石段をゆっくりと昇る。たった十段程度の階段が、その時は途方も長く感じられた。
それはこの荘厳な雰囲気がそうさせたのか、それとも天鈴先生のプライベートの詮索という禁忌を犯してしまっている気になっているからか。
どちらにせよ賽銭箱の前、拝殿へと辿り着いたのはすぐのこと。
目の前には内部へと続く木製の格子戸が取り付けられており、その中の様子は暗くて視認できない。
向拝によって造られた日陰が、夏なのに妙な薄ら寒さを与えており、三人は息を殺してしばらく立ち尽くす。
どうするか。
ここまで来たら、天鈴 永の日常を暴きたい。
しかしそれを心の底では否定したがっている。踏み込んではいけない領域だと、本能が告げていた。
それは何も大地だけが導き出せた結論ではなく、終夜も鏡花もその表情に現れ出して、見るからに躊躇っていた。
「……行くぞ」
それは誰に掛けた言葉だったか。大地はもう覚えていないし、気にしてもいなかった。
彼は格子戸に手を掛ける。
ひんやりとした感触が反射して、まるでこの世から隔絶されたんじゃないかと、そう思ってしまう異質感が三人を覆う。
一層、引き返したくなった大地は、そして扉を開く。
果たしてそこには。
「誰も、いない……?」
薄暗く、冷気が溜まった内部に人の姿はなく。
ただそこには豪奢な椅子が一脚だけ、寂しげに鎮座していた。
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