第3話 第二の悪夢、消えた伝票

 翌朝。ズキズキと痛む頭を振りつつ、私は重たい身を起こした。自社製品のカプセルをコーヒーマシンにセットしつつ、腫れぼったい目元に冷したタオルを当てる。いつもより入念に化粧水を肌に押し込んでから、私は目の下へコンシーラーを乗せた。


 いつものパンツスーツに着替え、空っぽの胃にまだ熱いコーヒーを無理やり注ぐ。私は履き慣れたローヒールのパンプスに足を入れながら、ふと、手を止めた。


 はっきり言って、あの二人の顔なんてみたくない。だがここで休んだら、あちこちで処理が滞るのだ。何より、あの元カレにショックで仕事を休んだなどと思われるのが、悔しかった。


 ――だから、可愛げがないって言われるのかな……。


 私はどんよりと曇る気持ちを払うように顔を振ると、扉を開けて部屋を出た。


 早めに着いてデスクに向かうと、まだ隣は出社していないようだった。少しだけほっとしながらPCを起動していると、経理課の女性が慌てたようにやってきた。


「静山さん、大変! 水野印刷から一昨日予定の入金がまだ確認できないってメールが来てたから経理システムを調べてみたんだけど、出金伝票がきてないのよ!」


「水野印刷って継続的契約のものですよね? いつも通りに今月分も作ったはずなんですが……」


「でもね、ないものはないの。今日の出金分に入れてあげるから、すぐに伝票送ってね!」


「はっ、はい!」


 慌てて経理システムを立ち上げると、確かに未払リストに渦中の契約と紐づいた仕入伝票が、まだ残っていた。この会社では五伝票制を採用していて、仕入れが決まった時点では、まず仕入伝票を起票して予算を確保する。そして実際に銀行から現金が動くタイミングで、出金伝票に振り替える仕組みになっているのだ。だが、先日確かに起票したはずの出金伝票は、跡形もなく消えていた。


 ――なんで、確かに作って承認に回したはずだったのに!


 混乱しつつも、先日と同じように仕入のデータを呼び出して、出金伝票を新しく起票する。出金日の日付を今日に修正したところで、隣に座る気配があった。


「おはようございまーす」


 いつもの調子で聞こえた声へ、私は一瞥いちべつもくれずに答えた。


「おはよう!」


 急いで登録ボタンを押して立ち上がると、どこか詰まらなさそうな顔でPCに向かう横顔が見えた。だが私は身をひるがえすようにして、達也さ……的場課長のもとへゆく。


「課長!」


「なんだ」


 明らかに不機嫌そうな課長へ、私は深く頭を下げた。


「大変申し訳ございません! 水野印刷への支払い処理に漏れがありました。出金伝票の再作成を行ったので、承認処理をお願いいたします!」


「再、作成だと? なぜ消したんだッ!!」


 昨日ケンカ別れしてしまったせいか、怒声がフロア中に響き渡った。いつも快活な的場課長の珍しい姿に、フロアは一瞬しん――と静まり返る。


「消した覚えはありません。ただ、いつの間にか消えていて……」


「起票したユーザー以外、削除権限がないはずだろう!」


「課長は、水野印刷への出金が承認画面にまわって来ないことに、気づかなかったんですか?」


「自分のミスを俺のせいにする気か!? 俺は静山を信用して一任していたんだ!」


 最近では経理もペーパーレス化が進んでいて、プリントアウトはしていない。つまり、何も証拠はないのだ。


 それに確かに的場課長の言う通り、私は登録ボタンを押しったっきりで放置していた。出金処理が終わった頃にちゃんと支払済になっているか念のため確認すべきだったところを、いつものことだと怠ってしまっていたのだ。それに、本当に私のミスじゃないとは、言い切れないだろう。


 唇を噛んでうなだれると、いつの間にか背後でヒソヒソと言葉が交わされていた。


『あの的場課長が怒鳴るなんて、初めてみたんだけど』

『え、静山さん、いったい何やらかしたの?』

「あの人プライド高いから、また・・自分のミスを認めなかったんじゃない?」


 その中に河合さんの声をみつけて、私の肩はぴくりと跳ねる。


『ああー、ありそう……って、また・・なんだ』

「そうそう」

『うそー、静山さんってそんな人だったんだ……』


 また・・、なんて覚えはないと反論したかったけど、そんな風に思われることをしてしまっていたのだろうか。私が泣きそうになりながら黙っていると、課長はデスクから立ち上がった。


「全く! 新しい伝票は承認したから、後は経理課に任せて先方に謝罪しに行くぞ。静山、それと河合さん、すぐに準備しろ」


「はい!」


 待ちかねていたように、河合さんがバッグを持って立ち上がった。

 なんで、河合さんが……?


「静山ぁ、ボケっとするな!」


「はっ、はい!」


 私も急ぎバッグを手に取り、的場課長の後をついてオフィスを出た。



 * * *



「このたびは、本当に申し訳ございませんでした!!」


 先方のオフィスで私が深く頭を下げると、的場課長が隣で腰を曲げながら言った。


「この度は入金が遅れご迷惑をおかけしまして、大変申し訳ございませんでした。静山には重々注意しておきます」


「いやいや、わざわざ来ていただいちゃって、逆に申し訳なかったですねぇ。静山さんにはいつもきちんとご対応いただいていますから。このぐらい、どんな人でもたまにはあることですよ」


「しかしミスをした人間が担当のままでは、水野社長もご不安でしょう。今日からはこちらの河合が、御社を担当いたします」


「えっ……」


 思わず驚きの声を上げそうになり、私は慌てて息を呑んだ。


 ――まさか、河合さんは仕事まで私に成り代わろうとしているの!?


 全身から、ざぁっと血の気が引いてゆく。だがここで問い詰めたら、取引先に不信感を抱かせてしまうだろう。私は理性を総動員すると、顔を伏せた。


「河合ですぅ。これから担当させていただきますね。どうぞよろしく――」


 私の代わりに前に出て、河合さんが挨拶しようとした。そのとき。


「いやいや、交代には及びませんよ。これまで静山さんにはずっと真摯にご対応いただいてきましたし」


「しかし」


「私どもも、連絡し慣れた静山さんに担当を続けていただいた方がありがたいのでねぇ」


 そう言って、スーツの上だけ水色の作業着を羽織った水野社長は、私の方へと穏やかな笑みを向けた。


「ありがとうございます。以降、重々気をつけて参ります!」


「いえいえ、迅速に対応いただきありがとうございます。今後とも、よろしくお願いしますね」


 課長はまだ何か言いたげだったが、取引先の意向であれば仕方ない。愛想笑いを貼り付けた河合さんと共に、三人は水野印刷の社屋を出た。


「ったく、いつの間に水野社長に取り入ってたんだ? 女だから甘く見てもらえたんだからな。自分が仕事できるからだなんて勘違いするなよ」


「ほんと、真面目なフリしてびっくりです。せんぱい、取引先へのこびの売り方も、ちゃんとOJTで教えておいてくださいよぉ」


 不機嫌を隠そうともしない二人からの嫌味に反論できないまま電車に揺られること、三十分ほど。ようやくオフィスに帰着した私はデスクに向かって経理システムを立ち上げ、急ぎ他の処理に問題がないかのチェックを始めた。


 伝票リストを確認すると、作業したはずの日付の前後に、いくつか伝票番号の抜けがある。番号は起票した順に連番で作成されるけど、不要になったり間違っていたりなどで削除すると、そこは欠番になるのだ。


 先日、課長は『起票したユーザー以外、削除権限がない』と言ったが、それは正確じゃない。承認権限を持つ課長には、課員が作成した伝票の修正・削除権限が与えられているはずだ。


 ――まさか、的場課長が河合さんのために消した!?


 一瞬恐ろしい考えが頭をよぎり、私は打ち消すように小さく頭を振った。そんなことを言ったら、『また責任をなすりつけようとしている』と言われるだろう。なにより、本当に自分がうっかり消してしまった可能性もあるのだ。次からは小まめにチェックしようと反省して、私は経理システムを閉じた。――その時。


「静山さん、ちょっとよろしいですか?」


「はい、なんでしょう」


 まだ、問題が残っていたのだろうか。慌てて斜め後ろを振り向くと、そこには年上後輩の才原さいばらくんが、遥か上から座ったままの私を見下ろしていた。


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