第2話 全て忘れてしまいたい。けれど……
その日は結局十九時頃まで機械的に働いて、オフィスを出た。三月とはいえすでに日が落ちた通りは、まだコートが必要なほど寒い。
「静山さん!」
足早に角を曲がったところで聞き覚えのある声に振り向くと、必死の形相をした達也さんがいた。
「ちょっと、ここは人が多いから……」
確かに、この駅に向かう通りは同じ会社の人の往来も多い。余裕なさげな様子で手招きする彼の後を渋々ついて、横道を歩く。すると間もなく、桜並木が包むように立つ坂道に出た。
ここは新人の頃、まだ先輩だった頃の達也さんに連れられて『ここがあの歌に出てくる桜坂らしいよ』と、教えてもらった場所だった。だが今年の蕾はまだ固く、ほころぶ気配もない。
「あのさ、これは、なんというか……」
言い出しにくそうに頭を掻きむしる彼から少しだけ距離を取って立ち止まると、私は口を開いた。
「私のことは気にしないでください! どうぞ二人で、お幸せに」
そこまで淀みなく言うと、ニッコリ笑みを貼り付ける。そうだ、こんな男、熨斗をつけて差し上げよう。三十歳を迎え、プライドばかり育った私には……もう全ての想いを忘れてしまうしか、自分の心を守る方法がないのだ。
「んなっ……美景、たったそれだけで終わりなのか!?」
「的場さんがこんな人だったなんて、結婚する前に知れてよかったです」
私がやれやれといった様子で返すと、彼は吐き捨てるように言った。
「ったく、そういうところが可愛くないんだよなぁ!」
じゃあ、どうしろっていうのだろう。無様に泣いて、どうか捨てないでと縋りつけばよかったのだろうか。
――こんなの別に欲しくないんだって、どうでもいいんだって、意地を張りでもしなければ、自分が惨めで仕方ないのに……!
涙があふれそうになって、私は奥歯をぐっと噛む。思わず嗚咽を漏らさぬように、私は低く唸るように言った。
「貴方のスマホ、私からのメッセージが残ってますよね」
「そ、それがなんだよ」
どうやら怒って見えたのか――確かに怒ってもいるのだが――彼は少しだけたじろいで言った。スマホにはお互いにとって良くないデータもたくさん残されていることに、ようやく思い至ったらしい。
「
「分かった、後で消しておく」
「信用できないので、今私にやらせてください。スマホ貸していただけますか?」
河合さんは、私のプライベートも「参考にしたくて」と言い、何度も話をねだっていた。私はカッコいいと言われてすっかり浮かれていたけれど、内心では今日のように嘲笑いながら聞いていたのだろうか。
――あの様子なら、私たちのメッセージアプリのやりとりも見ようとするかもしれない。七年ぶんの想いを全部あの子に見られるなんて……それだけは、絶対にイヤ!
思い詰めた私が右手を差し出すと、彼は怯えたように後ずさる。
「なっ、なんでスマホ貸さなきゃならないんだよ!」
「なんでって、信用できないからです」
「証拠の転送とかして脅すつもりじゃないだろうな!?」
「そんな必要ないですよ。脅すなんて、こちらのスマホに残っているもので充分です。ただ、貴方のスマホに私からのメッセージを残したくないだけです」
「だ、だが……」
まだ尻込みをする彼に、私はバッグから自分のスマホを取り出しながら言った。
「じゃあ私のスマホに送ってくれたメッセージ、本部長に見せましょうか?」
「わ、分かったよ……」
渋々差し出された最新型のスマホを受け取ると、私は淡々と履歴の消去を始めた。彼はそわそわと辺りを見渡しては、腕組みしながら爪先で小刻みに地面を叩いている。本当はカメラフォルダも全部確認して削除したいけど、そこまでするのはさすがに申し訳ないだろう。
「終わりました」
達也さんなら、そんなに変なものは撮ってないだろうし……なんて考えながらスマホを返すと、彼は苛立たしげに言った。
「ったく、お前のその冷静ぶって可愛げのないところが嫌だったんだよ! 新人の頃は初々しくて、まだ可愛げがあったのにな。三十すぎて捨てたらさすがに可哀そうだし、泣いて縋ったらお前を選んでやろうと思ってたのに!」
……なんだか、ちょっとだけ申し訳なく思った自分がバカみたいだ。
「では、これでサヨナラですね。お疲れさまでした!」
私は後ろ髪を振り切るように言うと、駅への道を駆け出した。
駅に向かう地下通路にもぐると、道すがらにバックライトの入った綺麗な広告パネルが目に入った。もうすぐ新しい高層ビルが建ち、上層階はレジデンスになるのだという。一方で私が今住んでいる会社の借り上げアパートは、三十歳になった年の年度末が入居期限だ。だからもうすぐ、追い出されることになる。
古い会社だから、三十歳未満の若手や世帯主への住居の補助は、今どき珍しいぐらいに手厚い。だが三十歳を過ぎた単身者の存在は、全く考えられていなかった。しかしバブルの頃に作られたおかげで手厚い福利厚生だから、今改革されたら福利厚生自体が縮小されそうで、皆文句が言えないでいる。
――結婚して出るものだと思っていたのに……早く部屋を探さなきゃ。
ふと脳裏に、達也さんの顔が浮かんだ。だが彼は顔を歪めると、嫌悪をあらわに吐き捨てる。
『ったく、そういうところが可愛くないんだよなぁ!』
――なによ。三十にもなって可愛げだけで生きていけるわけないじゃない!
私の母は、昔から愚痴の多い人だった。幼い頃は、母の愚痴を延々と聞かされるのが嫌だった。だが母のことは大好きだったし、それが彼女の我慢の裏返しであることと、結婚で打ち込んでいた仕事を辞めざるをえなかった時代背景のせいであることも、理解できたつもりだった。
だから自分は愚痴を言わずにすむように、『自立した人間』を目指した。時代や価値観もそれを助けるように変わってきたのだと、そう信じていた。でも根底に流れるものは、何も姿を変えてなどいなかったのだろうか。
「わたし、いったい何のために頑張ってきたんだろ……」
社会人になってからずっと、公私のどちらにも達也さんの姿があった。全てを忘れてしまうことなんて、本当はできるはずがない。
私はぐっと涙をこらえると、駅へと続く長い通路を歩き続けた。どこか良い香りのする通路には、ガムひとつ落ちてない。その道の途中にはこれまた傷ひとつない自動ドアがついていて、中から私と同年代の女性が姿を現した。
ラフなのにどこか洗練された格好の女性は、同じ通路の向かいにある高級スーパーの入口へと消えてゆく。あのドアは、この駅の上に立つビルの住居エリアへと続く通用口になっていると、同僚から聞いたことがあった。
いったいどんな仕事をすれば、赤坂のレジデンスになんて住めるのだろう。昼間にここで働いている私はこれから一時間以上も満員電車を乗り継いで、郊外のアパートへ帰るというのに……。
どんどん自分の考えが卑屈になっていくことに嫌気がさして顔を上げると、鏡のように磨き抜かれた銀色の壁が目に入った。
――私、こんなに老けてたっけ?
目の下のくまに恐る恐る手をやると、指先にぽちりと水滴が落ちた。途端にぬるい流れとなり、私は帰宅を急ぐ人々の間をすり抜けるように走り出す。
間もなくホームに着いた私は、一本前の地下鉄に滑り込んだ。
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