SE探偵 才原衛の注意喚起

干野ワニ

第1話  三十歳、誕生日プレゼントが悪夢を呼んだ

 三十歳の誕生日。 今日こそプロポーズしてくれる――なんて、なぜ期待してしまっていたんだろう。


 都心の五十七階にあるレストラン。 予約されていたのは、美しい夜景に臨む席だった。


美景みかげ、誕生日おめでとう」


 さり気なく差し出された黒い小箱は革張りで、金のラインが入っている。


「ありがとうございます」


 子どもみたいに跳ねようとする心臓を必死になだめながら、私は思わず顔をほころばせた。


 新人だった七年前、私――静山美景しずやまみかげのOJTで指導にあたってくれたのが、この的場達也まとばたつや先輩だった。その後、異例の若さで宣伝課長となった彼は、今でも私の上司にあたる。見た目も行動もスマートな達也さんは、私にとって何より自慢の彼氏だった。


 もっとも、自慢したくてもできなかったけど――とある理由で、私の職場は社内恋愛をおおっぴらにできない場所だったからだ。でも、その秘密の関係も、きっと今夜まで。社内結婚は、むしろ大歓迎されている。


 一時期は距離が開いてしまったけれど、ここ数か月は、また昔のように優しくしてくれるようになった。資格の勉強が忙しいとかで社外で会える日は僅かなままだけど、一緒に住めば、毎日会えるようになる。


 私は逸る気持ちを抑えつつ、震える指先を小箱の縁にかけた。そっとふたを持ち上げると、そこにはキラキラと輝く一粒ダイヤモンドが――


 ――ふたつ。


「あの、これって……」


「そう、一粒ダイヤのピアス。『三十代になったら私もそういうしっかりとしたものを身につけたい』って、前に言っていただろう?」


 どこか得意げに笑う達也さんに、私は笑みを返した。


「はい。覚えていてくれたんですね!」


 ――達也さんは悪くない。むしろ何気ない会話の内容を覚えていて、しかもプレゼントしてくれたんだから。なのに勝手に期待してガッカリするなんて、せっかくの好意に失礼だ。


 私は内心で自分を責めると、誕生日デートを楽しむことにした。



 * * *



 あの夜から、一週間が経った。いつものように出社すると、パタパタと駆けよって来る影がある。彼女は河合さんといって、私が去年OJTを担当していた後輩だ。


「せんぱぁい、おはようございまーす!」


「ああ、おはよ――」


 返事をしつつ顔をむけ、私は思わず目をとめた。彼女の両耳に、私が付けているものと全く同じシンプルな一粒ダイヤのピアスが輝いていたからだ。 だが私が何かを言う前に、彼女は満面の笑みで口を開いた。


「先輩と同じピアスにしちゃいましたぁ! どうですか? 私も先輩みたいにカッコよくなりたくてっ!」


 得意げに笑って耳元を見せる彼女に、私もつられて思わず笑う。


「カッコいいかな? ありがとう」


 こんな風に可愛く自己申告されたら、『せっかく彼氏からもらったのに、真似してほしくないな……』なんて、思えなくなってしまった。


「河合さんも似合ってるよ。すっごく可愛い!」


「ええー、カワイイよりカッコよくなりたいのにぃ……」


 小さく口を尖らせる彼女を、私は微笑みながらオフィスの奥へと促した。


「ごめんごめん。さ、そろそろカップテストだよ」


「はぁい」


 我が社――カルマコーヒー株式会社は、豆の焙煎・販売業から始まった古いコーヒーメーカーだ。スーパーに並ぶ家庭用の豆やインスタント、そしてホテルや喫茶店への卸売の他に、刈間珈琲店という直営のカフェチェーンも運営している。


 そんなコーヒーメーカーの朝は、事務方含む社員全員による簡易版のカップテストから始まる。スタートは、白い器に広げた豆の外観を、痛みがないかチェックするところから。良くない豆を除けたらミルで挽き、まずは粉の状態で小さなグラスに入れて香りを確認。次いで湯を注いで三分待ってから表面に浮いた粉を取り除くと、香ばしくローストされた奥に隠れていた果実味が、ふわりと現れた。


 最後にスプーンで上澄みを取ると、ズーッと音を立てて啜り、味わいをチェックする。一見お行儀が悪いようだけど、蕎麦と同じで風味がより引き立つらしい。


 実のところ、私は特にコーヒーマニアというわけではなかった。この会社に入った理由も、就活情報サイトでなんとなく見つけたという縁だけだ。けれどもオフィス全体が挽き立ての豆特有の甘い香りに包まれるこの朝の儀式がなければ、もう一日が始まった気がしない。


 最後に、普通に淹れたコーヒーをもらってデスクに向かうと、私は河合さんの隣の席に並んで腰かけた。座っても明らかに分かる私たちの身長差は、二十センチ近くあるだろうか。私は身長が百七十をゆうに超えている上に、骨格診断はストレート、つまりがっしりしやすい体型である。骨が丈夫なのは良いことなんだけど、少し太ればすぐクマのような存在感になってしまうから、油断は禁物だ。


 今日の作業を渡しに改めて横に座る河合さんを見ると、やはり私に憧れたのだというショートボブの横顔が目に入った。ボブの隙間からダイヤがチラチラ光るまでは同じだけれど、小柄で華奢な彼女がすると、とたんに愛らしく感じるのはなぜだろう。


 声をかけると、彼女はすぐにこちらを見て「はいっ」と歯切れ良く返事する。そして早速ファイルを開き、中身の確認を始めた。




「せんぱぁい、ランチどうします?」


 お昼休みのチャイムが鳴ると、すかさず河合さんがこちらを向いた。


 宣伝課のオフィスは赤坂マークヒルズの裏手にあたる、こじんまりとした自社ビルの二階にある。歴史ある建物と言えば聞こえがいいが、白塗りの壁がくすんでしまっているのは御愛嬌だろう。


 五階建てで社食はないが、代わりに売店のお弁当が充実している。うちは古いメーカーだからか、社員の平均年齢も高めだ。そのせいか、地味だけどヘルシーなお弁当が揃っている。牛丼チェーン以外のランチ代が軽く千円を超える赤坂エリアでは、お手頃価格で美味しいお弁当は懐に優しいのがありがたい。


「今日も売店にしようかな」


「じゃあ、あたしも~!」


 私が財布を持って立ち上がると、河合さんも同じブランドロゴの入った財布をバッグから取り出した。いつもながら徹底してるなぁと、つい感心してしまう。どこか小走りで付いてくる彼女が可愛くて、私は歩調をゆるめた。


『先輩みたいにカッコよくなりたくて』が口ぐせの彼女だけれど、私はむしろ彼女みたいに可愛く産まれたかったと思う。要はみな、無いものねだりをしているのだろう。


 売店横の広い飲食スペースで、私はマグロと大葉のからあげ弁当の蓋を開けた。向かいに座る河合さんは魚が苦手らしく、バゲットサンドを食べている。さすがの彼女も、こればっかりは私と同じにできないらしい。


 雑談しつつも食べ終えて早々にオフィスに戻ると、達也さんがスマホを手にした女性社員に囲まれていた。どうやら近隣の部署からも集まっているようで、隣の総務の女性たち、さらには本来なら一つ上のフロアにいるはずの営業本部長の姿もある。


 何ごとかと近寄る私たちに気がついて、中にいた河合さんと同期の女子が声を上げた。


「あ、ご本人登場! ねぇ、なんで付き合ってること隠してたの!?」


 ――え、バレた!?


 私がどう言い訳しようか迷っていると、すかさず横から声がする。


「だってぇ、職場では秘密にしようって言われたんだもん」


 声の方に顔を向けると、河合さんが不満そうに唇に人差し指をあてていた。


 付き合っているって、相手は一体誰なんだろう。この場にいる男性は二人だけで、本部長は既婚者だ。それって――。


「だからってこんな投稿するなんて、匂わせ、つーかお知らせでしょ~? ホラ、静山先輩もみてくださいよ、これ!」


 楽しそうに向けられたスマホには、『彼氏にもらったピアス♪』というタイトルのSNSへの投稿写真が表示されていた。ダイヤがよく見えるように左手を耳に添え、右腕はスーツ姿の男性にぴったりと絡めている。男性の顔は画面外に見切れているが、そのネクタイは達也さんお気に入りの一本で、スーツもいつも着ているピンストライプが入った細身のものだ。


「いやぁ、二人が付き合っているなんて、ちっとも気づかなかったなぁ!」


 達也さんは一瞬チラリとこちらに目線を向けたあと、満面の笑みの本部長へ向き直り、しどろもどろに答えた。


「いやあの、職場の和を乱すとよくないので……」


「いやいや、和を乱すなんてとんでもないさ! めでたいことじゃないか。仲人はぜったいに俺に任せてくれよな!」


「は、それは……」


「きゃー、お願いしますぅ」


 歯切れの悪い返事に被せるよう河合さんが喜びの声を上げると、刈間営業本部長は満足そうにうなずいた。


 名字から分かる通り、この刈間営業本部長は創業者一族の人間で、今の社長の弟にあたる。戦前から続くカルマコーヒーは業界二、三位を争う規模で、日本人ならだれでも知っているような会社だ。だが株式を上場した今でも、経営陣は創業者である刈間一族が占めていた。


 とはいえこの刈間営業本部長は、昭和の体育会系でちょっぴり圧が強いことを除けば、面倒見の良い、まさによき上司だろう。だが一つ、大きな問題点があった。それはやたらと社内結婚を推奨したがるという点だ。


 おつきあいが本部長にバレたが最後、お祝いムードで外堀がどんどん埋められ、もう結婚するしかなくなってしまう。と言っても別れたからと怒られるわけではないが、露骨にしょんぼりされてしまって申し訳ない気分になるのだ。だから我が社では、みな社内恋愛禁止でもないのにお付き合いを秘密にしていた。


 昼休みはとっくに終わっているのに、今このフロアで一番偉い本部長には誰も注意ができないらしい。だが小走りで迎えに来た部下が来客予定を耳打ちすると、ようやく解散となった。


 隣席の河合さんと並んでデスクに向かいつつ、私は思わず呟いた。


「ふたり、付き合ってたんだ……」


「はい!」


 すると、思いがけず楽しげな声が返って来た。もしかして、この子は達也さんが何年も前から私と付き合っていることを知らなかったのだろうか。ならばどうやんわり伝えようか迷っていると、河合さんが口を開いた。


「あたし、センパイみたいになりたくてぇ」


 グロスで艶めく唇が、きゅっと深い弧を描く。 首筋から氷を入れられたように、冷たいものが背を伝った。


 ――知ってて、これも真似したの……?


 凍りつく私にフッと小さく失笑すると、河合さんはいつも通りPCに向かい始めた。


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