第4話

「……貴方は何もしていないわ。それよりも、貴方の方こそ私に何か思うところはないの? その、例えば不満とか」


 イグナーツが視線を上げ、ぱちぱちと瞬きをする。


「不満なんか……」


 ぼんやりとつぶやいた後、イグナーツは「あ!」と声を上げた。


「不満、ある!」


 エッダはどきりとした。聞かなければよかったと、後悔する。

 イグナーツはわずかに眉をひそめた。


「エッダが、いつも俺より早起きなところ」

「え?」


 思いもよらない言葉に、エッダの口から疑問の声がこぼれる。

 イグナーツが口を尖らせる。そのすねたような顔つきは、いかにも子供であった。


「なでられるのも好きだけど、たまには俺もエッダの寝顔を愛でたい」


 はたまた思いもよらない言葉がイグナーツの口から飛び出してきて、エッダはうろたえた。


「な、な、何よ、その不満。私の顔なんか愛でて、何がいいのよ」


 エッダの顔はあばただらけだ。多くの人から醜いだの汚いだのと言われてきたとおり、美しさとはほど遠い。一般的には愛でる対象にならない造形だ。


「いいに決まってるだろ。絶対、幸せな気持ちになれる」


 小さく笑いながらイグナーツが見つめてくる。子供らしい表情が一転、その大人びた流し目は「そうじゃないの?」と、エッダに問いかけているようだ。


 エッダは言葉に詰まった。心当たりがあり過ぎる。エッダは毎朝、眠っているイグナーツに触れている。その行為に、美醜は関係ない。イグナーツの顔立ちは整っているが、美しいから彼に触れるのではない。それはエッダもよく分かっている。先ほどの発言は、照れ臭くてとっさに口をついて出てしまったのだ。


 恥ずかしさを取り繕うように、エッダはお茶を飲んだ。冷めたせいか、渋味が増している。その苦みは舌だけでなく、エッダの心にも広がる。ふわふわと浮き上がった気持ちが、また落ちた。

 さっきのは照れ隠しとはいえ、ひねくれていた発言だ。どうして、こうも素直でないのだろう。彼に想いを返せないのも。

 普段はここまで気にかからないのに、今日はどうしても引っかかってしまうエッダである。目標が達成できなかった、という負い目があるせいだろうか。ティーカップを置くと同時に、また息がこぼれた。


「エッダ、手を出して」


 ふいにイグナーツが言った。ちらりと見やれば、彼は手を差し出している。その彼の手に、エッダは手を重ねた。すると、イグナーツはエッダの手の甲に、そっと口づけた。


「好きだよ、エッダ。誰よりも」


 イグナーツが告げる。

 エッダは顔が熱くなるのを感じた。彼の言葉はまったく嫌ではない。だが、まったく慣れていないのだ。


「と、突然、何を言ってるのよ」


 おろおろとするエッダとは対照的に、イグナーツは落ち着いている。


「不満はないのか、とか聞いてくるから。好きって気持ち伝え足りてなくて、エッダのこと不安にさせたんじゃないかと」

「貴方、毎日言ってるじゃない」

「うん。だけど、不安って些細なきっかけで湧きあがる時があるでしょう?」


 イグナーツがエッダの手に頬をすり寄せる。ふわりと、イグナーツのぬくもりが手のひらに広がった。


「何かあったなら、言ってね。こうしてそばにいられるようになったんだから」


 そう言いつつも、「言いたくなかったら無理しないで、言いたくないって教えてね」と、イグナーツは笑った。

 とたんに、エッダの胸がきゅっと締めつけられる。

「自惚れではないか」だなんて、どうしてそんな愚かなことを思ってしまったのだろう。それは、彼の気持ちを踏みにじる行為だ。そもそも、そんな風に思ってしまった発端は、エッダ自身にあった。彼に「好き」と気持ちを伝えられない自分が原因なのである。

 エッダは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。イグナーツの頬を、指先でなでる。イグナーツが目を閉じる。


「……ありがとう、イグナーツ。その、それから、ごめんなさい」

「何がごめんなさいなの?」


 静かな声で問いかけながら、イグナーツは目を開けた。一瞬答えに詰まったエッダは、少し遅れて言う。


「その、貴方の気持ちを疑って変なことを聞いてしまったから、自分が不甲斐ないと思ったのよ」

「エッダのせいじゃないよ。俺の方が至らなかったんだ」

「違うわ。本当に違うの。全部私のせいなのよ」

「どうしてそうなるの?」


 エッダは唇を引き結んだ。今度こそ完全に答えに窮する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る