第2話

 試しに今、言ってみればいいのではないか。イグナーツがいないところで「好き」と言う練習をしてみるのだ。


 エッダは目を開けた。じわじわと心に満ちる恥ずかしさ。無性に手持ちぶさたなように思えてきて、エッダはローズヒップを指先でつついた。そうして赤い実をもてあそびながら、言ってみる。


「え、ええと……。その、イグナーツ」


 愛しい夫の名前を口にした瞬間、脳裏にはその彼の姿が浮かぶ。言ってみようと思った肝心な言葉が、出てこなくなる。この場に彼はいないのに。練習なのに、このざまである。

 エッダはローズヒップを一粒摘み取った。


「す、好きよ……」


 どうにか言葉を絞り出した。しかし、とんでもなく小さい声だった。それなのに、エッダは頬どころか耳まで熱くなるのを感じた。恐らく、顔中真っ赤だろう。目の前のローズヒップに負けないくらいに。

 やはり、恥ずかしい。たまらなく恥ずかしい。たった一言言うだけなのに、どういうわけかこれでもかと恥ずかしい。

 エッダは採ったローズヒップをかごに入れた。それから、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。きっと、こんなにも恥ずかしいのは、言い慣れていないからであろう。それならばもう一度と、エッダは再び口を開いた。その時。


「エッダ、戻ったよー」

「きゃああっ!」


 突然イグナーツの声が聞こえて、エッダは思わず悲鳴を上げてしまった。


「エッダ!」


 また、イグナーツの声がする。先ほどよりも鋭い声音だ。

 エッダは振り返った。だが、イグナーツの姿はない。イヌバラの茂みから身を出して辺りを見てみると、ちょうど屋敷の角から人影が飛び出してきた。イグナーツである。彼の方もエッダに気がついたようで、いたく慌ただしく近づいてくる。


「エッダ、大丈夫? 何かあった?」


 かなり焦っているのか、血相を変えたイグナーツはエッダに掴みかからん勢いで迫ってきた。たじろいだエッダは、数歩後ずさる。


「な、何もないわ。ええと、ちょっと棘が刺さって驚いただけよ」


 エッダは口早にごまかした。まさか、「貴方に『好きだ』と言おうと練習していたら、突然声が聞こえたから驚いた」などと、恥ずかしくて言えるわけがない。

 イグナーツが眉を跳ねあげて、エッダの右手を見る。


「大丈夫? どこに刺さったの? 血は出てない?」

「だ、だ大丈夫よ。痛かったけど大した傷ではなかったわ」


 伸びてきたイグナーツの手から逃れるように、エッダはぱっと右手を後ろに回した。イグナーツがわずかばかり目をみはって、まじまじと見つめてくる。「本当に、大丈夫よ」とエッダは微笑んだ。頬が引きつっているような気がしたが、それでも強引に笑顔を保つ。


「そ、う。……それならいいけど」


 イグナーツが手を下ろしながら言う。しかし、わずかではあるが眉をひそめており、納得はしていない様子だ。

 言葉が途切れる。沈黙がやってくる。居ずまいの悪さを感じて、エッダは内心焦った。何か言った方がいい気がするが、上手いごまかしの言葉はこれ以上浮かんでこない。つい視線をそらしたら、イグナーツの背後に人影があることに気がついた。

 使用人のマヌエラがたきぎの束を手にして立っていた。


「マヌエラ、どうしたの?」


 エッダが声をかけると、イグナーツも振り返る。

 マヌエラが手にした薪を揺すってみせた。


「イグナーツ様。ご心配なのは分かりますが、薪を放り投げてゆくのはいかがなものかと」

「ああ! ごめんなさい!」


 イグナーツは急いでマヌエラに駆け寄ると、薪の束を受け取った。エッダの悲鳴にイグナーツの方も驚いて、薪を放り投げて駆けつけたようだ。さらにエッダはいたたまれなくなる。そんな心配されるようなことは何一つなかった。あんなに叫んだ己が恨めしく思えてくる。

 老使用人の方を見やれば、彼女はじっとエッダを見つめていた。その視線はエッダを見透かすようだった。さらに居ずまいが悪くなる。

 つと、マヌエラが顔をそらした。つられてエッダも、彼女と同じ方向へ視線を向ける。庭のブドウ棚が見えた。


「……イグナーツ様も戻ってこられたことですし、少し休憩されてはいかがですか。ずっと作業なさっていたのでしょう」


 落ち着いた声でマヌエラが言った。その言葉はエッダにとって大きな助けだった。話をそらす絶好の機会である。エッダは大きく頷いた。


「そ、そうね。お茶でも入れて休憩にしましょう。イグナーツ、お茶は何がいい?」


 エッダが尋ねると、イグナーツはぱっと破顔する。

「紅茶がいいな」

「分かったわ。気持ちのいい天気だし、外でお茶にしましょう。ブドウ棚のところで待っていて」

 

 そう言うやいなや、エッダはそそくさと屋敷の方へと向かった。

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