第13話

 エッダは固唾かたずを飲んだ。落ち着いていたはずの鼓動が、徐々に速くなってくるのを感じる。

 イグナーツと結婚するとなれば、相応の覚悟が必要だ。

 イグナーツと結婚したら、エッダは王都で暮らすことになる。そうなれば、自分に関する嫌な噂や悪口が、今よりもずっと多く耳に入って来るだろう。はたから見れば、皆が憧れる明星の騎士を奪ったようなものだ。もしかしたら、フォルツの家を追い出される前よりも、ひどい言葉を言われるかもしれない。それに、エッダだけではなくイグナーツも悪く言われる可能性が高い。


 エッダは目を伏せた。すると、エッダの手を包むイグナーツの手に力がこもる。痛くはない。むしろ優しくて、温かい。

 イグナーツはきっとすべて分かっている。そのうえで、覚悟をしてくれた。ならば、エッダも迷いを断ち切って、覚悟を決めなければならない。

 再び、辛い思いをすることになるだろう。すでに、エッダはその苦渋をさんざんなめた。

 けれど、そばにイグナーツがいるならば。

 どんな苦しみも乗り越えられる、とは簡単には言えない。しかし、彼と共に乗り越えたい、とエッダは思う。自身の苦しみもイグナーツの悲しみも、二人で分かち合い、共に人生を歩んでゆきたい。

 それに、きっと幸せだってたくさんあるはずだ。

 なぜなら、イグナーツがそばにいるのだから。


 また、エッダの胸が大きく脈打つ。

 もう蓋をすることはできない、とエッダは確信した。それに、どれだけ時間が経ってもイグナーツに対する想いは変わらない、と。

 エッダは視線を上げた。イグナーツを見つめ、おもむろに口を開く。


「分かったわ。貴方との結婚、約束するわ」


 エッダが言うと、イグナーツの頬がうっすらと色づく。彼はふっと息を吐き出すと、握りしめたエッダの手をそっと自身の額につけて、ささやいた。


「ありがとう、エッダ」


 まるで、祈りをささげるかのような切実な声だった。

 お礼を言いたいのは、エッダの方だ。しかし、想いがあふれすぎてしまったのか、上手く言葉にならない。

 やがて、イグナーツが手を離す。ぬくもりが遠退く。名残惜しいけれど、エッダは手を伸ばさない。きっと次があると、信じることにしたから。


「さて、それじゃあ張り切って行ってきますか」


 イグナーツはすっくと立ち上がると、テーブルに置いてある薬の入ったかごと薬草の袋を手に取った。

 ところが言葉とは裏腹に、彼はそれ以上その場から動こうとはしなかった。目を伏せて、かごの取っ手をしきりに握り直している。

 薬瓶を見つめながら、イグナーツはぽつりと言った。


「本当は、結婚のことは魔王討伐から帰ってきてから話そうと思ってたんだ。……無事に魔王を倒して帰ってこれるか、多少不安なところもあったから」


 その言葉を聞いて、エッダははっとした。大事なことを思い出した。

 彼が赴くのは魔王討伐だ。魔王は人間とは比べ物にならないほど、膨大な魔力を持っているという。その魔王の魔力の影響によって魔物は凶暴化する。昨今、魔物による被害は徐々に増加傾向にあった。魔王を倒すことはもちろん、そのための旅路も厳しいものになるだろう。勇者やイグナーツを含め、討伐隊の面々が選りすぐりの精鋭であっても、今回の遠征はそう簡単なものではないのだ。

 思わずエッダは立ち上がった。


「イグナーツ」


 呼びかけると、イグナーツが振り返る。その彼の瞳を見つめながら、エッダは言った。


「どうか無事に戻ってきて」


 エッダの言葉に、イグナーツはかごをもてあそぶ手を止めて、大きく頷いた。


「うん。もう不安はないよ。だって、エッダと約束したからね。俺はちゃんと生きてここに帰って来る」


 イグナーツは朗らかに笑うと、すっと人差し指を立てた。


一月ひとつきでけりをつけて戻ってくるよ」


 軽やかに宣言して、イグナーツはかかとを鳴らす。すると、その足元にあかがね色に輝く魔法陣が広がった。きらきらと赤光の粒が舞う中で、イグナーツはとびきりの笑みと共に「行ってきます」と言ったかと思うと、次の瞬間には姿を消していた。同時に魔法陣も跡形なく消滅していた。


 急にがらんとした居間に、エッダは一人立ちつくす。

 恐らく、今のは転移魔法だ。空間を操る魔法を会得したというイグナーツであれば、転移魔法を使えたとしてもなんらおかしくない。だが、実際に魔法を使うところを初めて目の当たりにしたエッダは、ぽかんとしてしまった。

 あんなにも鮮やかに魔法を使うだなんて、明星の騎士の名は伊達ではない。魔王討伐も軽々とやってのけてしまうのではなかろうか。


「い、行ってらっしゃい……」


 遅ればせながら、エッダはぼんやりと言った。

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