第10話

「エッダが結婚してくれるって約束してくれたら、いつもより何倍も力が出せる。魔王討伐なんかすぐに終わらせて戻って来るよ」


 改めてイグナーツが言ったところで、エッダは我に返った。呆れた気持ちを引き締めて、表情を作り直す。眉をひそめて、イグナーツを見る。とくとくと、脈が速いのは無視をした。


「何、馬鹿なことを言っているの。冗談はよしなさい」

「冗談じゃないよ。俺エッダのこと好きだもの」


 すぐさまイグナーツが言う。そのはっきりした声音に、迷いは感じられない。

 エッダの鼓動がさらに速くなる。最早暴れ回るかのような勢いである。脈打つ音も大きく感じる。だんだん素知らぬふりができなくなってきて、エッダは内心焦り始めた。頭の中で言葉が浮かんでは消えてゆく。冗談はやめてほしいのに、エッダの口からは何一つ言葉が出ない。どうしてなのだろうか。ただただ焦りが募る。

 エッダが何も言えないでいると、イグナーツが少しばかり声を潜めて聞いてくる。


「エッダは、俺のことが嫌い?」


 そんな質問をしてくるなんてイグナーツはやはりずるい。エッダはそう思った。

 相変わらずエッダの思考は空回るばかりで、上手い答えを見つけられない。けれど、イグナーツは黙っている。エッダの答えを待っている。

 しばらくの間の後、エッダはどうにか声を絞り出す。


「……私は貴方にふさわしくないわ。王都には貴方に合うご令嬢がいるでしょうに」


 イグナーツは肩をすくめた。


「身分や血筋という面では、そうかもね。でも、本当にそれだけだし、俺はそんなもの求めていないから」

「わがままね」

「わがままだよ」


 イグナーツがほんのりと笑う。知っているでしょう、と言わんばかりに見つめてくる。

 その甘い表情を直視できず、エッダはうつむいた。拳をさらに強く握りしめる。エッダは声を張った。


「本当にこの顔に関しては、貴方が責任を感じることじゃないのよ」

「そんなんじゃないって言っただろ」


 イグナーツの声に不満の色がにじむ。顔は見えないが、きっと怒った顔をしているに違いない。

 再びやって来た沈黙は重かった。コマドリの鳴き声も聞こえない。

 エッダは己の膝の辺りを睨みつけていた。身につけている茶色のチュニックはだいぶ色が抜けている。その上に置いた自身の手には、うっすらとあばたが見える。顔が一番ひどいが、病気のあとはエッダの手足にも残っている。


「こんな私のどこがいいのよ……」


 エッダはぽつりとつぶやいた。すると、すぐさま対面から柔らかい声が飛んでくる。


「いいところ、たくさんあるよ。例えば、優しいところ。俺が病気を移したのに、エッダは俺のことを一度も責めなかった」

「なんで貴方を責めるのよ。私が移されに行ったようなものなのに。自業自得じゃない」

「ほら、責めない」


 エッダは唇を噛んだ。

 責められるわけがない。そもそも、イグナーツは何も悪くない。

 それに、エッダは病気のことをイグナーツにとやかく言わないと決めた。

 疱瘡ほうそうが治って数か月後、一度だけイグナーツに会うことが許されたあの時。彼は、エッダを一目見るなり泣きじゃくった。「ごめんなさい」と、わめきながら。

 病気のことについて、エッダは両親から怒られてばかりだった。「どうして言いつけを守らなかったのか」と父親からはひどく叱責された。父の怒りは母親にも向き、その辛さゆえか母親もエッダに辛く当たった。

 そんな中で、イグナーツだけが泣いたのだ。

 だから、自分のために泣いてくれた彼を、もうこれ以上泣かせないために、あばたのことでどんな気持ちになろうとも、エッダはイグナーツを責めないと決めたのだ。


 何も言えないままエッダが黙っていると、イグナーツは「それに」と続ける。


「自業自得ってエッダは言うけれど、それって俺のことを心配してくれたんでしょう? あの時のこと、意外と覚えてるんだよね。エッダが来てくれて、ずっと俺の手を握ってくれていたこと。必死に声をかけてくれたこと。あの時、エッダが来てくれなきゃ、俺は絶対死んでた。寂しくて苦しくてたまらなかったから」


 イグナーツが小さく息を吐く。笑いをもらしたかのような息遣いだった。

 エッダはぶっきらぼうに尋ねた。


「何がおかしいのよ」

「ううん。そうじゃなくて、懐かしいなって思って」


 イグナーツはまた小さく笑った。それから、さらに話を続ける。


「昔のことは置いといて、エッダのことだけど。エッダは、俺の手紙に丁寧に返事をしてくれるよね。鳥や植物のこととか、楽しい話題をたくさん書いてくれる。エッダが紹介してくれる本も、全部面白いし勉強になる。それに、俺の身を案じてくれる。……俺、エッダから手紙、いつも楽しみにしてるよ」

「……返事、返さなかったことだってあるわ」

「それは、騎士になった俺のことを気にして返さなかったんだろ」

「そんなこと、ないわ」


 エッダはぎこちない声で言った。そう言うのが精いっぱいだった。

 エッダの心はざわめく一方だ。もうイグナーツとは話をしたくなかった。これ以上聞いたら、決意が鈍る。変な気持ちになってしまう。このままではいけない。いけないのだ。


「突然会いに来ても、いつも美味しいお茶でもてなしてくれる。お茶がなくなれば、すぐにカップに注いでくれる。俺の誕生日を覚えててくれて、おいしいパイを焼いてくれる。いつも俺の話を聞いてくれる。今日だって、こうして」

「やめて……」


 エッダは掠れた声で言った。しかし、イグナーツはやめなかった。


「エッダ」


 あの濁りない綺麗な音で名前を呼ばれる。


「俺はエッダのことが好きなんだ」


 もう一度イグナーツが言う。心地よい響きの声が、エッダの耳をくすぐる。

 たまらず、エッダは叫んだ。


「お願いだからやめてちょうだい! 私みたいな醜い石ころ女は、貴方のそばにいてはいけないのよ!」


 声を荒らげたとたん、エッダははっとする。「そうじゃない」と心が強烈に訴えかけてきたのだ。

 エッダは彼との関係を断つと決めた。それをついに告げたのに、そうではない。本当はそうではないのだ。イグナーツともう話したくないだなんて、大嘘だ。

 エッダはうろたえた。

 ひどいことを言ってしまった。イグナーツのことを拒んでしまった。それは彼のことを思えば正しい。正しいかもしれないが、それは違うのだ。

 まるで、心が弾けたようだった。胸の奥に閉じ込めていた想いが、あふれてくる。けれど、その想いを上手く言葉にできない。今更なんと言えばよいのか、分からない。


「……それが、エッダの本当の気持ち?」


 対面から聞こえてきた、寂しげな低い声。エッダの胸に熱いものが込み上げてきて、ようやく言葉がこぼれた。


「違う……」


 イグナーツは何も言わなかった。彼がどんな顔をしているのか、怖くてたまらない。エッダはぎゅっと目をつぶった。


「違うの。そうじゃないの。本当に違うのよ。でも私は醜くて、だから……」


 人の気配を感じて、エッダは口をつぐんだ。顔を上げれば、すぐ近くにイグナーツがいた。彼はひざまずき、エッダを見つめていた。その顔に浮かぶ微笑みは、優しい。

 イグナーツが手を伸ばし、エッダの頬に触れる。とても、温かい手だった。


「エッダは美しいよ。誰よりも」


 イグナーツの言葉は、真っすぐエッダの心に入り込んだ。エッダの胸がさらに熱を帯び、涙があふれる。

 エッダの瞳からこぼれる雫を、イグナーツが指先でそっとぬぐう。その手つきはたおやかで、頬を包む手と同じく温かい。

 エッダはイグナーツのぬくもりを感じながら、しばらく泣き続けた。

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