第9話

「女神」と慕ってくれるのも、やたらとエッダのことを気にかけてくれるのも、イグナーツは「自分が病気を移してしまったからだ」と、責任を感じているためだろう。罪滅ぼしと言うには大げさだが、そのような気持ちがどこかにあるに違いない。イグナーツの優しさに、いつまでも甘えていてはいけない。

 エッダは意を決して、イグナーツを見た。


「本当に、もう私のことは気にかけなくていいのよ。そもそも、病気のことなんてもうだいぶ昔のことじゃない」


 はっきりとした口調でエッダは言った。しかし、イグナーツが納得する様子はまるでない。彼は眉を上げたまま、エッダを見据える。


「責任を感じてるとか、そういうのじゃない。そうじゃないから、こんなにも腹立たしいんだ」


 どきりとエッダの胸が跳ねた。とっさに「それじゃあ、なんなのか」と言葉が出かかったが、すんでのところで止めた。

 エッダは一度深呼吸をした。これでは話がそれてしまう。今優先させるべきなのは、魔王討伐である。


「……腹立たしくても、今すぐ王都に戻りなさい。もう用事はすんだでしょう」


 エッダは薬の入ったかごをイグナーツに向けて押す。けれど、イグナーツは触れようとしない。それどころか、そっぽを向いてしまう。


「嫌だ、行きたくない。あいつ嫌いだもん」


 イグナーツが口を尖らせる。

 感情表現が豊かなのは間違いなく彼の魅力だが、この表情と口ぶりは幼すぎやしないか。こんな時にこんな顔をするのは少しずるい、とエッダは思う。

 気が抜けそうになったエッダだったが、一つ咳払いをしてどうにか気持ちを保つと、表情を引き締めた。


「嫌いだもんって、子供じゃないんだから。貴方、もう二十三でしょう」

「まだ二十二だよ」

「もうすぐ二十三になるんだから、同じようなものでしょう」


 声を厳しくしてエッダが言うと、イグナーツはすねた表情をひっこめて、黒目がちの瞳を何度も瞬かせた。


「え? あれ? そっか。俺、来月誕生日だ」


 イグナーツはぼんやりとつぶやくと、突然エッダの方に振り返った。


「自分でも忘れてたけど、エッダは覚えててくれたんだ!」


 そう声を弾ませるイグナーツの顔に、満面の笑みが咲く。本当に花が――例えば白いダリアが、開いたかのような、佳麗で無垢な笑顔。

 エッダは素早く顔を背けた。どうしてか、ほんのりと頬が熱い気がする。頬杖をつくように、エッダは片手で顔を隠した。

 何か言い返さねば。そう思うエッダだったが、どうしてか上手く言葉が出て来ない。鼓動の音が、やけに大きく聞こえる。

 エッダが言葉に詰まっていると、「待って!」とイグナーツが大声を上げる。

 エッダがそろそろと視線をやると、イグナーツは目を見開いて身を乗り出していた。


「それじゃあ、今旅立ったらエッダに誕生日祝ってもらえないかもしれないじゃん! そんなの絶対嫌だ!」


 叫ぶイグナーツ。その声には悲痛の色が漂っていた。

 やはり子供じみているイグナーツの弁に、エッダはふいに落ち着きを取り戻した。

 彼のわがままにつき合ってはならない。このかごの薬が、最後なのだから。

 エッダは顔から手を離すと、きっとイグナーツを睨みつけた。


「誕生日くらい、我慢なさい」

「嫌だよ! またエッダのベリーパイが食べたい。去年食べたやつ、すごくおいしかったから」

「イグナーツ! いい加減になさい!」


 エッダはぴしゃりと言い据えた。イグナーツははっとした様子で開きかけた口を閉ざす。

 これ以上イグナーツの言葉を聞いていたら、またおかしな気持ちになりそうだった。それに、話がどんどんずれてゆく。大事なのは魔王討伐の話だ。どうして魔王がベリーパイになるのだ。

 エッダはイグナーツから視線をそらさずに、強気に見つめ続ける。すると、イグナーツは前かがみの体をひっこめて、力なくうなだれた。


「……ごめんなさい」


 イグナーツがぽつりと言った。

 エッダは小さく息を吐くと、姿勢を正した。背筋を伸ばして膝の上に手を重ねる。


「嫌な気持ちはよく分かったわ。けれど、皆貴方の力を必要としているのよ」


 エッダは語り出した。おもむろに。諭すように。


「魔王討伐は難しいことでしょう。けれど、貴方がいればきっと成し遂げられると、皆信じている。だって、貴方は明星の騎士。輝く希望なのよ。大勢の人の思いを背負うことは大変だと思うけれど、それでも私はその気持ちに応えてほしい。貴方の持つその力は確かなものなのだから」


 エッダは知っている。今や国一番の騎士となったイグナーツだが、そうなるに至るまで彼が懸命に努力してきたことを。


 イグナーツの手紙には、時に剣術や魔法の修練に対する悩みが綴られていた。「思うように魔法が使えない」「剣術の模擬試合で勝てない」「師範に怒られた」など。イグナーツの師範はかなり厳しい人で、修練はそれこそ血の滲むようなものだったらしい。

 それでも、イグナーツは修行をやりきり、師に認められた。彼は悩んだり弱気になったりしながらも、諦めずに努力を重ねたのだ。そうして積み重ねて身につけた力や知識は、間違いなく本物だとエッダは信じている。イグナーツにはもともと剣や魔法の才能があったのだろうが、それだけではない。だからこそ、「明星の騎士」と呼ばれるまでになったのだ。


「私だって、貴方の力を信じているわ」


 エッダがそう言うと、イグナーツの肩がぴくりと動いた。だが、イグナーツは黙ったままだ。顔を上げようともしない。

 エッダはそっと拳を握ると、さらに言葉を連ねた。


「……王都に、仲間のもとに戻りなさい。貴方の居場所はここではないでしょう。こんなところではないの。私のことで腹が立つなら、私のことは忘れなさい」


 そう告げたとたん、エッダは心が急に冷たくなったように感じた。同時に、イグナーツが遠くにいるように思えた。しかし、手は伸ばさない。エッダは静かにイグナーツを見つめた。


「……それは、違うよ。間違ってる」


 うつむいたまま、イグナーツがぽつりとこぼす。


「何が違うの?」


 エッダは問いかけたが、イグナーツは答えなかった。

 部屋がしんと静まり返る。鳥の声も風の音も聞こえない。エッダはイグナーツを待った。

 やがて、イグナーツは大きく息を吐いた。


「……分かってる。エッダの言うとおりだって。みんな俺の力を必要としてることは、分かってる。逃げるつもりはない。……こんな、絶好の機会もないしね」


 イグナーツはそう言うと、顔を上げた。先ほどまでの子供のような無邪気な表情とはほど遠い、凛とした青年の顔つきで、彼は真っすぐエッダを見つめる。

 エッダの鼓動が速くなる。


「だから、エッダ。俺に力を貸して」

「……その薬とはまた別のことかしら?」


 ちらとエッダは薬に視線を投げる。

 イグナーツは頷いた。


「うん。薬や薬草とはまた別。約束してほしいことがあるんだ」

「約束?」


 エッダが言葉を繰り返すと、イグナーツは口を閉ざして目を伏せた。言いよどんでいるような様子だ。

「イグナーツ?」


 エッダが呼びかけると、イグナーツは視線を上げた。吸い込まれそうなほど美しい鳶色とびいろの瞳で、再びエッダを真っすぐ見つめてくる。

 イグナーツが口を開く。


「魔王を倒したら、俺と結婚して」


 イグナーツに対する決意も、心の冷たさも何もかもがふっ飛ぶ。

 エッダは絶句して固まった。

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