第8話

「やっぱ無理! 嫌だ! エッダを侮辱した奴と一緒に戦うとか絶対無理! 行きたくない!」


 イグナーツはぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。整っていた美しい亜麻色の髪が台無しだ。

 エッダはとっさに腰を浮かして、イグナーツに手を伸ばした。


「ちょっと、落ち着きなさい」

「落ち着けないよ。思い返すたびに腹立たしくてたまらない」


 唸るようにイグナーツが言う。

 もしかしたら、エッダが予想した以上にひどい言われようだったのかもしれない。「薬ではなく毒ではないか」と疑われたこと以外にも、何かあったのだろうか。

 そうだとしても、イグナーツには関係ない。そうあらねばならない。

 エッダは、浮かせた腰をもとに戻すと、努めて冷静に言った。


「私のことで貴方が心を乱す必要なんてないのよ。もう気にしないで……」


 エッダが言い終わらないうちに、イグナーツががばりと顔を上げる。眉を吊り上げたその表情は明らかに怒りのそれだ。強い光を湛えた瞳がエッダを射る。

 エッダは息を呑んだ。


「何言ってるんだよ。乱すに決まってるだろ。エッダは俺の女神だ」

「……もう、その呼び方やめてちょうだい」


 エッダはイグナーツから目をそらすと、ぽつりとつぶやいた。


「病気のこともこの顔のことも、貴方が責任を感じることじゃないのよ……」


 エッダの顔に広がるあばた。これは、もとをたどればイグナーツがきっかけだった。疱瘡ほうそうにかかったのはイグナーツの方が先だったのだ。

 エッダが九歳、イグナーツが五歳の時だ。

 イグナーツが疱瘡を患った時、エッダは母親と彼の屋敷を訪ねた。イグナーツのお見舞いに行くという母に無理を言って、ついて行ったのだ。

 エッダはイグナーツのことが心配だった。どんな調子か気になったし、一目でいいから彼に会いたいと思った。しかし、イグナーツの屋敷に到着するなり、自身の母親やイグナーツの母親、さらには屋敷の使用人たちからも、「イグナーツには会わせられない」と強く言われてしまったのだ。

 イグナーツに会うこと叶わず、その日エッダは使用人たちとお茶を飲んだりボードゲームをしたりして過ごした。その際、使用人たちにイグナーツの病状を尋ねたが、皆言葉を濁してはっきりと答えてくれなかった。

 母親たちは別室に行ってしまい、どこにいるか分からない。

 屋敷の雰囲気もどんよりとして暗い。ひどく不安になるひと時だった。


 エッダはいても立ってもいられなくなった。もしかしたら、イグナーツは大変なことになっているのではないか。死んでしまうのではないか。何も分からないゆえか、そんな嫌な考えが湧きでてきて怖くてたまらなくなってしまったのだ。

 エッダは使用人たちの目を盗み、イグナーツの部屋に向かった。正確には、彼がどこにいるのか分からず屋敷中を探し回った結果、イグナーツの寝ている部屋を見つけた、というのが正しいが。イグナーツは母屋ではなく、離れにある一室にいた。

 その離れの部屋には一見人影がなく、誰もいないようだった。ただ「苦しい苦しい」という呻き声がベッドの方から聞こえくる。エッダはその声がすぐにイグナーツの声だと分かった。エッダは急いでベッドに駆け寄った。


 ベッドを覗くと、イグナーツがぐったりと横たわっていた。顔には濁った色の大きな発疹がたくさんできており、口元からこぼれる苦しそうな声は止みそうもない。

 まるで泣いているかのような呻き声を上げる年下のはとこ。大好きな幼馴染。

 エッダはイグナーツの手を握りしめた。高熱のせいかまるで力がなく、加えてとても熱かったことを、エッダは今でもよく覚えている。

 エッダは手を握ると、必死になって声をかけた。


「絶対によくなるから大丈夫。私がそばにいる。だから死なないで」


 そう、何度も何度も。

 呼びかけを繰り返していると、イグナーツははっきりとエッダの手を握り返してきた。

 そうしてイグナーツのそばにいることしばらく。様子を見に来た使用人が悲鳴を上げるまで、エッダはイグナーツを励まし続けた。


 その結果、エッダは疱瘡ほうそうにかかった。どう考えてもイグナーツから移ったものだ。そして、顔にあばたが残った。


 対するイグナーツであるが、彼はエッダが部屋に忍び込んだ日を境に快方に向かった。高熱がなかなか引かず、両親を始め屋敷中の人間は皆イグナーツの命を心配していたが、杞憂と言ってよいほどあっさりと熱が引き、発疹のあともほとんど残らなかった。

 イグナーツ曰く。自身の疱瘡ほうそうが治ったのは、エッダが励ましてくれたから。そして病気をもらってくれたから、とのことだ。


 そんなことではなくイグナーツの生命力が病に打ち克ったからだ、とエッダは思うのだが、そう言ってもイグナーツは全く聞かず、彼はエッダのことを「女神」と呼ぶようになったのだった。

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