第7話

 イグナーツは、エッダのことになると感情が不安定になる節があった。

 まだ、エッダがフォルツ家の屋敷で暮らしていた頃の話だ。

 社交の場でエッダの噂話――当然、それはよい話ではない、を語る貴族にイグナーツが怒り、食ってかかったという話をエッダは何度か耳にした。そのたびにエッダは父親に呼び出され、「イグナーツに何を吹き込んだ」と詰問された。


 エッダが北辺へ行くことが決まった時は、どこでその話を知ったのか、イグナーツはいち早くエッダに手紙を寄越し、「そんな不当な扱いをされるのはおかしい」と力説した。

 北に来た直後に届いた手紙には「ずっと遠くに行ってしまって寂しい」だとか「エッダが貧しい生活にならないか心配」だとか、イグナーツはそんなことばかり綴っており、その文面から落ち込んでいる様子がうかがえた。


 そうやってイグナーツの感情が乱れるたびに、エッダは「自分は大丈夫だから、そんなに煩う必要はない」と、粛々と諭すような言葉を手紙に書いた。

 すると、イグナーツは返事で謝罪をしてきた。ただ、謝りつつもそのすぐ後には、「エッダが侮辱されるのは許せない」と続けるのだが。


 そんな彼だったが、ここ数年は落ち着いていた。

 イグナーツに関する話は明星の騎士としてのよい話しか聞かなかったし、手紙も穏やかな筆致だった。日々の暮らしや騎士団での出来事、遠征先の珍しい動植物やそこで食べたおいしかった食べ物など、書き連ねてあるのはそのようなことばかり。たまに悩み事や相談事が書かれていることがあったが、それらはエッダとは関係ない事象であった。

 屋敷にやって来るようになってからも、そうだ。彼はエッダのもとにやって来ては幸せそうにお茶を飲み、エッダの暮らしぶりをにこにこと笑いながら聞く。イグナーツと過ごすひと時は、とても長閑のどかだった。


 しかし、落ち着いたとエッダが勝手に感じていただけで、実際はそうでもなかったらしい。

 貯蔵室で薬を選びながら、エッダは先ほどのイグナーツの様子を思い返す。

 不満そうな顔で黙りこくるイグナーツ。「魔王討伐が嫌になった」とはっきり言った割には口が重かったのは、エッダに気を使ったからだろうか。だとしたら、初めからごまかせばよいのに。

 「エッダが侮辱されるのは許せない」と手紙に書くイグナーツに対して、エッダはどんな風に侮辱するのか具体的に教えてくれと返信したことがあった。けれど、イグナーツははっきりと教えてくれなかった。

 そんなところも、昔のままだった。

 昔から、ずっとイグナーツはエッダのことを気にかけてくれる。エッダのことで、怒ったり悲しがったりしてくれる。


 エッダは棚に伸ばしかけた手を止めた。薬ではなく頬に触れる。あばたを確かめるように、指を滑らせた。

 もうこれ以上、イグナーツを縛りつけてはいけない。彼はもうすぐ二十三歳になる。いつ結婚してもおかしくない。

 かたや石ころ、かたや明星。貴族という立場は同じでも、エッダとイグナーツは生きる世界が違う。

 手紙のやり取りを止めるのはもちろん、直接はっきりと言うべきだ。もう、関係を断つべきだと。強い言葉で、それこそ縁を切るくらいの気持ちで。

 エッダは顔から手を離し、改めて薬瓶を掴んだ。

 ――この薬を最後にしよう。

 そんなことを考えたとたん、エッダの胸が詰まった。思わず、薬瓶を握りしめる。

 貯蔵室はいつも薄暗く冷たい。だが、どういうわけか今日は一層暗くて寒い。冷え冷えとした暗がりに一人取り残されたようで、エッダは急に心細くなった。

 とっさにエッダは首を横に振る。そうして気を取り直すと、手にした薬をかごに入れた。


 貯蔵室には、薬や乾燥させた薬草が置いてあった。

 薬や薬草の知識は、どうにか己の価値を高めようとやっきになっていた時に身につけた。

 この北の屋敷に来てからは、庭で実際に薬草を育てるようになり、その延長で薬も作っている。薬草や薬は近くの村に住む人々に売ったり、今回のようにイグナーツに譲ったりしていた。魔法薬の原料にもなる薬草は、時にイグナーツから王都の薬師の手に渡ることもあった。

 エッダにとっては趣味のようなものだった。だが、人里ではよく売れたし、イグナーツや薬師からの評判も上々だった。


 エッダは小さなかごに薬をいくつか入れると、薬草が詰まった袋を一つ掴み、急いで居間に戻った。

 居間では、イグナーツが難しい顔でじっとテーブルを見つめていた。かたわらのティーカップは空になっている。

 エッダはイグナーツの対面に座ると、テーブルの上に薬の入ったかごと薬草の袋を置いた。


「これが傷に効く塗り薬。こちらはお腹が悪くなった時の薬。それから、これは強壮剤。一時的に魔力を高める作用もあるわ」


 エッダはかごの中身を指し示しながら、一つ一つ説明を始めた。

 ところが、イグナーツはまるでこちらを見ていない。テーブルを凝視したまま石のように固まっている。


「イグナーツ?」


 エッダが呼ぶと、イグナーツは突然「あーっ!」と声を上げながら頭を抱えた。

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