第2話 謎の少年

 ケイトは大きなタライにお湯を張って、ロレンスの入浴の準備をした。この汚れ具合じゃすぐにお湯を変えることとなるだろう。それを考えてたっぷり用意しておく。


「体くらい一人で洗えますよ。どうして二人もいるの!?」


「こんなに汚れてるんだもの、手伝ってやるわよ。恥ずかしがらなくていいからほら、脱いで」


 ロレンスは抵抗も空しく、ケイトとアンゼリカの前で裸にむかれてお湯の中に放り込まれた。予想通りあっという間にお湯が真っ黒になる。ケイトは一旦お湯を捨てに行って、きれいな湯を注ぎ入れた。この作業を何度か繰り返してようやく本当のロレンスの姿が現れた。


 アンゼリカは、入浴を済ませたロレンスを見て驚いた。全身煤だらけでみすぼらしかった少年が、見違えるようにきれいになっている。それだけではない。艶やかな黒髪とヘーゼルの目が露わになり、顔立ちの端麗さもより際立っている。12歳というとまだ悪ガキのイメージなのに、育ちの良さをうかがわせる気品も備えていた。


「ねえ、ちょっといい?」


 母のケイトがアンゼリカを引っ張って、見えないところに連れて行ってから声を潜めて囁く。


「やっぱりあの子訳ありよ。髪の毛や肌のつやもいいし、いいとこの坊やに決まってるわ。もしかしたら貴族かも。どうしてそんな子があんな格好でこの辺をほっつき歩いてるわけ?」


 そんなことを言われても……とアンゼリカは答えに窮した。確かに身ぎれいになったロレンスは、前とは別人だ。小汚い格好は追っ手から逃れるための変装だったのかもしれない。とは言え、今更外に放り出すわけにもいかない。何より心配そうな目でこちらをちらっちらっと気にしている姿を見たら、とてもそんなひどいことはできない。


「時間が経てばそのうち教えてくれるんじゃないかな? 多分?」


 適当にお茶を濁してロレンスの元に戻る。アンゼリカのお下がりはぶかぶかで、長い袖から指先がちょこんと出ているのがかわいらしい。12歳という割には幼なげで、不安を隠せずおどおどしているところを見ると庇護欲がそそられる。実際は3歳しか離れていないのだが、妙にアンゼリカの心をざわつかせる要素を持っていた。


「お姉さん学校に行く途中だったんでしょ。迷惑かけてごめんね」


「そうだけど、何も言ってないのによく分かったわね?」


「だってこの時間帯にお姉さんくらいの人が急いで行くところと言ったら学校くらいだもの。職場だとしたら鞄が少し大きすぎるかなって。本が入ってそうだったし」


 確かにその通りだけど……。子供の割に鋭い観察眼を持ったロレンスに驚かされる。やはりただ者ではないのかも。


「他に何か分かる?」


「経営規模は小さいけど娘を中等学校に入れても困らないくらいに店は繁盛している。仕事ぶりは堅実で、地元の信頼も厚いと思われる」


「ちょっと! あなた本当に12歳? 年齢偽ってない? どこぞの探偵みたいなんですけど!」


 子供の見た目にそぐわぬ分析能力に、アンゼリカは目を白黒させた。この少年は何者なんだ?


「それだけ察しがいいならなら私の名前も知ってるんでしょ、アンゼリカでいいわよ。私もロレンスと呼ぶから」


 ロレンスは黙って頷く。と、その時彼のお腹がぐーっと大きな音を響かせた。真っ赤になってうつむく彼を見て、アンゼリカは全てを察する。そして、店の方に飛んで行って山盛りのパンを持ってきた。


「はい、これ。うちには売るほどあるから、って言うか売り物だから。近所ではおいしいと評判なのよ」


 ロレンスは目を輝かせてパンの山を見つめたが、アンゼリカに見られているのに気づいて再び顔を赤らめた。しかし、背に腹は変えられないのだろう、おずおずと一つ手に取り黙々と食べ始めた。一つ終わったら二つ目に手を出す。それが延々と繰り返される。アンゼリカが気を利かせて飲み物を持ってきたがそれもごくごくと飲み干し、またパンを手にした。


「よほどお腹が空いていたのね。うちがパン屋で助かったわ」


「おいしい。すごくおいしい」


「ありがとう。お世辞でも嬉しい」


「お世辞じゃないよ」


 急にロレンスはアンゼリカの方を向いて真顔で答えた。


「こんなにおいしいパン今まで食べたことがない。どうしてだろう。これよりいい材料で作られたものは散々知っているのに、ここまで感動したことはない。生きるために養分を体に入れるだけじゃなかったんだ。食べるって楽しいことだったんだ」


 殊更大発見のように深刻な面持ちで淡々と語るロレンスを見て、アンゼリカはどうしたものかと戸惑いを隠せなかった。いきなりこの少年は何を言い出すのだろうか。


「うちのパンを褒めてくれるのは嬉しいけど、そんなに大ごとに捉えなくていいのよ?」


「アンゼリカはこれを毎日食べてるの?」


「え? ええ。まあね」


「そうなんだ。いいなあ。これから僕も一緒に食べたい」


 真剣な眼差しを向けられたら嫌なんて言えるはずがない。言葉は少ないが、やけに圧のある言い方だ。元々そのつもりだったが、アンゼリカは首をこくこくと縦に振った。


「そんなの当たり前じゃない。事態が落ち着くまでゆっくりしてちょうだい」


 ロレンスは真面目な顔でありがとうと言った。そんな深刻にならなくていいのにどういうこと? もしかしてうちのパンってそんなにおいしかったのかなあ? などとアンゼリカは首をひねったがそれ以上は尋ねることができなかった。なぜなら、今度はロレンスが大きなあくびをしたからだ。


「もしかしてお腹いっぱいで眠くなった? そうだよね、朝から大変な目に遭ったしね」


「いや、大丈夫。まだ気を張ってるから。他人の家で寝るなんて……」


 言葉とは裏腹にロレンスのまぶたは次第に重くなっていった。話している側から睡魔と戦っているのがありありと分かる。


「無理しなくていいよ。今まで大変だったんでしょう? 一眠りしなよ、と言いたいところだけど生憎ベッドが……仕方ない。私のを使って」


 ロレンスは遠慮したが、アンゼリカは自分の部屋に彼を連れて行ってベッドに寝かせてやった。来客用のを整えているうちにテーブルに突っ伏してしまいそうな勢いだったから仕方がない。彼は最後まで渋っていたが、床に入ると数分のうちに寝息を立てるようになった。


(うふふ、かわいい)


 アンゼリカは彼の寝顔を見て、一人クスクスと笑った。最初見た時は大人びた表情をしていると思ったが、寝顔を見ればあどけなさが残る少年だ。一人っ子の彼女は、弟ができたみたいで楽しくなった。


***


 目が覚めたロレンスは、翌朝アンゼリカの家族の前で驚くべき提案をした。


「うちで働きたいって? どういうこと!?」


「ここに置かせてもらうからには少しでもお役に立ちたくて……パン屋の弟子にしてください!」


 ロレンスは体を折り畳むくらいの勢いでダンに頭を下げた。よほど疲れていたらしくほぼまる一日眠ってしまったが、今朝目が覚めた時アンゼリカが横で寝ているのを見て恥ずかしさのあまり身悶えしたのは秘密だ。裸を見られるわ、添い寝までするわ、一晩の間に大人の階段を一気に駆け上がった感じがする。


「別に人手が足りないわけではないから……いいのよゆっくりしてもらって」


「それでは気が済まないんです。お世話になっているんだから何かの役に立ちたくて……却って邪魔かもしれないけど」


 ロレンスの真剣な申し出に、ダンとケイトは困ったように顔を見合わせた。どうやら役に立たなければここに置いてもらう資格はないと考えているらしい。子供なんだからもっと無邪気でいいのにと説得しても、ロレンスの決意は変わらなかった。


「それなら私も手伝う! 二人一緒ならパパもやりやすいでしょ? 仕事の邪魔にならないようにするからさ」


「今まで仕事の手伝いをするなんて言った試しがないじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」


 ダンは目を細くしてアンゼリカをにらんだ。普段は家事の手伝いも嫌がるくせに何を言い出す? とでも言いたげな顔だ。


「ただ手伝うだけじゃつまらないけど、ロレンスと一緒なら楽しいかなと思って。新しくできた弟分だし」


 要は、家族が一人増えた気分になって浮き足立っているのだ。それを知ったダンは、深々とため息をついてから言った。


「分かった。その代わりアンゼリカは学校の勉強に邪魔にならないようにな。俺は厳しいぞ」


 こうして、ロレンスの居候生活が始まった。

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