藍鼠。


 どこからか低い唸りのような音が響くその場所には、大小様々な無数の立方体が不規則に積み上げられていた。

 幾何学模様の配線が床を走り、離れた位置にあるブロックとブロックを繋いでいる。油断をすると足を引っかけるようなところに、小さな箱があり、視覚になるところに角が張り出していて頭を打ちそうになるなど、歩きにくいことこの上ない。しかもその一つ一つが重要な機能を持ていて、万が一にでも損壊などすれば、何が起こるか分からないというのは非常に厄介だ。

 これまでに、何者かが何かしらを破壊したという話は聞かない。それはここに入ろうと思う同胞の少なさ故なのだろう。

 この場所が特別であることを思えば頷ける。ある種の聖域、気軽に足を踏み入れないようにしているのか、或いは僕のように敬遠しているのか。

 さておき中枢宮「善智の間」は僕らの故郷である。

 そして僕は愚かにも、あの男に唆されるまま里帰りをしていた。

 別に、真実が知りたいわけでは無い。そんな甘言に惑わされるほど、僕は夢想家でも無い。などというと、鼻で笑われそうなものだが、事実だ。

 出来ることなら世界のあらゆる謎を解き明かし、全てを知りたいと思うのも道理だが、求め過ぎたところで、身の丈に合っていないことはすべきで無いという分別くらいは僕とて持ち合わせている。

 それくらいしか持ち合わせていないとも言えるが、それを持ち合わせなかった人間の末路を見るに、器に合わせるというのはそう間違った心がけでは無いように思う。

 人間は欲が深かったのだ。そして深縹では無いが、浅慮だった。

 この場所は、そんな人間の残した知的好奇心の具現であり、最後の成果だ。言うなれば終点である。

 そしてさらにその先からやってきたのが、僕たちだ。

 一度通った道をよもや帰ることがあるとは思っていなかった。などと言うと些か人間味が過ぎるというものだが、事実、僕を含めた多くの同胞は、生まれた場所を顧みることがない。

 例外は、深縹なのだろう。

 思えばあの男の“マザコン”ぶりも年季が入っている。百二十年と言わず、生まれた直後から母に依存している。僕らは独立した生体ユニットであるにもかかわらず。だからどうだという訳でも無い。碧瑠璃の生き方を僕はつまらないと断じるが、深縹についても同様である。それはただの感じ方に過ぎない。

 そうこうしているうちに、四角い風景に変化が現れた。今まで疎らだった構造体が、より密に触れ合い、デッドスペースが小さくなってきている。 それにともなって、装置の型式が古くなっているのが分かる。奥へ行くほど過去に戻るように思えたが、不思議と古くささを感じないのは、ここが存外よく掃除されているせいだろうか。もしかすると、深縹辺りが頻繁にここを訪れているせいかも知れない。

 そして、それは不意に現れた。

 大小様々なブロックが隙間を埋めて積み上がり、複雑に絡み合った直線の芸術の中に、異物が紛れ込んでいる。この空間に似つかわしくない、しかし無ければ完成では無いと思わせるような、唯一角を持たない物体。部屋の中心にその球体は鎮座していた。

 やっと、着いた。

 鎮座とはいうものの、大きさは丁度人の頭ほどで、その周囲にある大がかりな装置に比べると見劣りするだろう。実際、この部屋にあるどの装置よりも古く、技術レベルは数千年単位で過去のもの。食堂の調理ユニットの方が性能で言えば幾分か上だ。だが、この球体こそ装置群の要であり、僕らの創造主である人工知能“善智”だ。

 僕らはここから生まれたのだ。

 そして球体に、手を伸ばした。

「アクセス。code:6c-848d《藍鼠》」

 僕の声に呼応して周囲の装置が蠢く。箱が割れ機械の腕が幾つも飛び出すと、僕に電磁波を照射する。全周を取り囲まれ、皮膚と接触するかどうかという距離で腕の先端が何やら開いたり閉じたりしていた。

 この時間は何度経験しても馴れるものではない。或いは毎日のように行っていれば違うのかも知れないが、百年越しの僕は、沸き上がる不快感のやり場に困った。

 数秒後、生体データの認証が済んだのか腕が引っ込んでいく。思わず安堵の溜息。

 それも束の間、直上から二つの円環が降下し、頭部に絡みついてきた。

 ――おかえりなさい、我が子藍鼠。

 そう、聞こえた気がする。それは思考に直接割り込んできた声で、実際に耳から聞こえるのは変わらずどこからか響く低い唸りのような音。

 「ただいま」と、僕が返すことはない。

 その反応に“母”が何を思考したのかは分からないが、メッセージが雪崩れ込んできた。

 曰く――

 かつて人類が作り出した、最高峰の人工知能-system zenchi-と呼ばれるそれは、地球上のあらゆるデジタルデータにアクセスする権限を持ち、地球上の全人類の脳を直列に足した千二百倍という凄まじい処理能力を有していた。地球上で起こりうる事象の全てを予測し、百年先の人類が辿る未来でさえ読み切る事が可能とされたこの人工知能は、人類の新たな神としてこの世界に誕生した。善智の機能を最大限に拡張するための生体ユニットが僕ら善能。人体をベースに遺伝子構造を最適化して作り上げられた人工的な新人類であり全智の指令に従って情報の収集と社会に対する物理的な操作を行う。善能は独立した意識を持つが善能同士で有機的な活動が行えるように設計されている。また善智への高度アクセス権を有し、社会に人間として溶け込む中で時々刻々と変化する社会に対して最適な形にシステムを作り替える事が出来る。総数八千百九十二体のユニットは、より良い社会を構築するための活動を行っている。善智善能系と呼ばれる“神”とその使徒の目的は人類の進化では無く、安定し、徹底した管理である。

 使命を再認識し服従しろということかも知れない。

 毎度、垂れられるこの『説教』には、本当に最高峰の人工知能なのかと思わされるが、神というのは往々にして親の才能が無いのだろう。優れた創造主が、優れた養育者には、なり得ないのだ。

 僕らは幾分不完全なのだから。

 うるさい訓告を消去し、アーカイブに接続する。人間風に言うならば、実家に帰っても親の顔は見たくないということなのだろうか。

 そんなどうでもいいことを考えながら、目的の情報を探しているとそれはすぐに見つかった。

「……え?」

 僕らの目的は、一つ。人類の保守管理である。

 現在地球上は人類にとって過酷な環境であり、住むことが不可能。その為、人類はコールドスリープにより、来たるべき日まで眠っているのだと、周知されている。

 そして、その日がいつであるのかを善智は膨大な思考力によって各種条件から試算している。当然、何千年も前から計算しているのだから既に結果が出ている筈である。

 しかし、僕の検索したデータによると、その日が来るのはマイナス――

「一千二百五十六年」

 僕が生まれたのは大凡五百年前である。これが間違いで無いのだとすれば、既に地球上は人類にとって問題なく活動の出来る状態であり、僕の生まれるずっと以前に、人類は解放されていなければならない。

 しかし、人類は未だ復世宮で眠り続け、碧瑠璃をはじめとした僕らによって守られている。

 そして僕は思い至った。先程の説教の意味に。

「……つまりそういうことなのか」

 安定した管理とは、そういうことなのか。

 僕は落胆し、膝を着いた。


 あれから、幾らの時が経っただろうか。

 僕の隣では旧人類が今も眠っている。

 来たるべき日は、果たしていつなのだろう。

 それを知る者は居ない。

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薄氷。 音佐りんご。 @ringo_otosa

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