深縹。

 使命を履行するためのユニット“善能系”と呼ばれる僕らの体は、人間をもとにして作られているが、人間とは言い難い。それどころか“母”によって科学的に生み出された存在、言うなれば人造人間であるため、真っ当な生物であるとも言い難い。とはいえ動物的に生きて動くという事を行っている以上、エネルギーを必要とする。そして、人間をベースに作られた僕らは当然空腹を覚えるのである。

 しかし腹が減ったときの、この、胃の腑に真空が発生したような、何とも言えない内側から押しつぶされるような感覚は、どうにも抗いがたいものだ。同じ非自然物であるならば、いっそ機械か何かだと、電気やら何やらを補充するだけで苦痛も無く済むというのに、まことに面倒な体である。僕はそれでも、その面倒さ加減が別段嫌いでも無い。摂食行動は好きな方だ。

 そして僕の使命が価値を無くして百二十年。存在意義を支えてきたのは、概ね食事だ。食べる以外の娯楽は無いなどというと、同胞に笑われるかも知れないが、知ったことか。

 使命それ以外に価値を見出せない碧瑠璃などに比べれば、僕は高尚だ。

 復世宮の巡回などという、幾分の価値も見出せない無駄な営みに縋り付くなど、あそこに並ぶ人間以上に愚かなものだ。

 第一、あそこは冷えすぎる。肉を腐らせないために必要としても、体が冷えて仕方が無い。

 僕らの血液は不凍液で、極低温下に晒されようとも問題なく活動が可能とはいえ、こんな時は温かいものを口にしなくては、どうにもやる気というものが出ない。そんな思いがあった訳でも無いが、無意識に。

 そう。無意識のままに足は自然と、この場所を目指した。

 僕の体は正直だ。少なくとも、この不可解な心なるものよりは。

 満を持して、食堂の白くて無闇に大きな扉を押し開けた瞬間に広がったものは、体を包み込む安らかな暖気と鼻腔を刺すように撫ぜる黄金色の香気。

 これらに心が躍らない日は無い。先刻まで、人類を憎んでいたのが嘘のように――実際嘘なのか――今は躍り狂っている。人ならざる僕には心など定義されないというのに。

 さておき僕は、混線してきた感情を綯い交ぜに、空いた分だけ胸一杯に幸福の素を吸い込んだ。欲望を増幅させる芳香を無限に湛えた食堂は、白一色に染め上げられた巨大なドーム状で、壁際を除いては柱一つ無い。見上げれば卵の殻のような天井が遙か高くに浮かんでいる。

 今の時間帯はまだ混み合わず、それどころか、見渡す限りの空席ばかりが広がっていた。それは、滅多に見ることの無い光景だ。

 一瞬、ここが僕ただ一人のためにのみ用意された特別な場所なのでは無いかという思いが頭を過ぎったが、僕にはあまりに大き過ぎる。

 全員が入ることを想定して作られた場所なのだから仕方も無いが、ここまで広いと寧ろ圧迫感を覚えるものだ。拒まれているとさえ思えてくるのは、早過ぎたせいだろうか。

 碧瑠璃から逃れた僕はその足でここを訪れたが、幾分普段の食事の時刻より早い。食事となれば定刻通りに押し寄せるのが僕らの習性で今この瞬間のような例外を除いては、どいつもこいつも時間をずらすなどといった気の利いたことは出来ない。

 しかし、これは新たな発見である。以後、昼食時はタイミングをずらしさえすれば、集団の煩わしさから逃れられるのだ。こんな簡単なことに何故、今まで気が付かなかったのかと百二十年間の、いやそれ以前の自分をも叱責してやりたい。食事は定刻にならずとも、空いている席に座りさえすれば自動で出てくるのだから。

 日替わりで出される献立通りの食事に気をとられて気が付かなかったのかも知れない。

 人類が地上から姿を消し、暦というものが文化上の意味を失って久しい。僕らにも曜日の概念こそ遺っているが、年中無休で働き、祈りも捧げない僕らがそれを意識することはほとんど無い。

 けれどもこの献立カレンダーだけは、別だ。

 金曜日。

 それは、カレーの曜日。

 週に一度訪れる至福のひととき。

 例え如何なる事があろうとも、百年先でも千年先でも、金曜日は変わらずカレーが提供されるのだ。

 それは、なんと――、

「――なんと、憂鬱なことかね」

 その男は、気が付くと隣に居た。

「そう思わんかね? 紺鼠」

 最初から相席することになっていたと言わんばかりに、僕の分のカレー皿も持って、その男は隣に腰掛けていた。

「深縹」

「やぁ、久しぶりだね紺鼠」

「僕のコードは“藍鼠”だ」

 そうだったかな、とこちらに一瞥も呉れること無く、無気力そうな深縹の目で、じっとカレーを見つめたまま固まっていた。

「憂鬱というのはどういう意味だ」

「言葉を知らないのなら、アーカイブにでも繋ぐと良い」

「意味など知ってる」

 その程度のことで『接続』する気は無い。調べるまでも無く、それは普段僕の感じているものだ。

「そうか、ならやはり、しかしなおのことアーカイブに接続すべきだと、私は思うがね」

 それこそどういう意味だ。僕はカレーを差して憂鬱と言ったことを問い糾そうと思ったに過ぎないのに。

「ああ、君の思慮は浅そうだから言っておくがね、私はカレーが嫌いだ」

「なに!」

 思わず机を叩いた。机の上のセラミックグラスが音を立てた。

 深縹は深々とこれ見よがしの溜息をつくと、手にしたスプーンをカレーの海に沈めた。

 ステンレスのスプーンが米とカレーを浚う。しかしそれは彼の目の前まで持ち上げられると口に入れられること無く、落下した。裏切られたように、掌を返されたように、スプーンが翻ると、それらは音を立てて振り落とされた。

 何故か、心が痛んだ。

「短絡的だ。それだから君は浅慮なのだよ」

 僕の中で憤りが膨らむ。

「食べ物で遊ぶな。罰が当たるぞ」

 深縹は嗤った。声は立てずに、鼻で息を盛んに繰り返す豚のような嗤いだ。

「何がおかしい」

「それは、誰が与えるのかね」

 深縹はスプーンの先で芋を転がしながら、問いかけた。いや、問いでも無いのだろう、深縹は芋をスプーンの背で圧しつぶした。

「百姓かね、料理人かね。それとも仏か神か。……しかし、ここにある野菜も肉も、そういった役割の者が作った訳では無い。紺鼠、いや藍鼠か。君は、これがどうやって作られるか知っているかね」

 知らない。首を振るとも無く黙っていると、深縹は厚めに切られた肉にスプーンを突き立てて、器の底をかき回し始めた。

 音を立てて、次第に白と褐色が混ざり合っていく。

「無知な君に教えるが、ここで出てくる食物は全て、有機系合成装置で作られた紛い物だよ。この厚切りに見える肉も、最初からこういう形をしていただけで、命を切り分けた、というのでは無い」

 言いながら、深縹は執拗にカレーと米とその他具材を攪拌した。それぞれの大きな塊は圧しつぶされ、形を失っていく。

 一体この男は何がしたいのか、理解不能だ。思えば僕は、早々にこの場を立ち去るべきだった。飯がまずくなるというやつだ。実際今の僕は、自分のカレーに手を伸ばすことが出来ないでいる。完全にこの男のペースに呑まれているのだ。

 それはいけない。

「例え、何であろうと、美味しいことに変わりは無い」

 僕は縋るように反論したが、彼は賛意を示すつもりが無いらしい。興味なさげに僕の話の終わりを、首をカクカクさせながら待っている。

「この肉が、調理が、お前は偽物で作り物だと言うが、本物を知らない僕の舌にとって、これは紛れもなく本物だ。紛い物でない本物とやらがどれ程の物かは知らないが、例え相対的に劣っていようと、美味しいことに変わりは無い」

 違うか? という問いに彼は頷いた。どちらの頷きかは判別しかねるが、一度ならず、二度、三度と首を振り始めた深縹が僕の論を受け入れたとは思えなかった。そして彼は否定した。

「間違っているね、藍鼠。これらは酷く悪質な、言うなれば、屑だ」

 屑、という響きに僕は驚いた。こんなに美味しいのに、この男は正気なのだろうか。という驚きでは無い。その吐き捨てられた言葉の響きに、僕は心当たりがあったのだ。それが何かは分からないが。

「君には、分かってもらえると思ったのだがね、残念だ」

 言い終えると、深縹は興味を失ったようにカレー皿から視線を外して脇にどけた。そして、今度は僕の皿に手を伸ばそうとした。

 反射的に僕は皿を引っ込めた。手が止まる。

「何をする」

 深縹と目が合った。彼の瞳は昏く、その奥には得体の知れない気持ち悪さがある。

 僕は目を逸らした。しかしそれを深縹は見逃さなかった。

「気に障ったのなら、幸いだ。私の行いは先刻の復世宮での君の振るまいと違わんよ」

 僕は席を飛び退いた。

 深縹は知っているのだ、僕が何をやろうとしたのか。

「食事の途中で席を立つのは、あまり褒められたマナーではないよ、藍鼠」

 どの口がそれを言うのか。安い挑発だ。

 席に再び腰を下ろすと、深縹に顔を寄せる。陰気な瞳の奥が見えた。決して覗き込みたい色では無い。しかし目を背けていても先には進めない。進む必要があるのかという思いが沸き上がるのを制し、見たくない物を直視する覚悟を決めた。

 深縹は意外そうな顔をした。

「どうして知っている」

 深縹は少し考えるようなそぶりをしてから、目を瞑る。

「……知りたければ、アーカイブに繋がることだ。百二十年ぶりにね」

 他者が接続を絶ってどれくらいかなど、通常であれば気にも留めないようなことも、この男は把握しているらしい。それこそ、アーカイブには無い種類の情報だというのに、聞き込みでも行ったのかも知れない。

 何にせよ、警戒は必要だ。

「しきりにアーカイブを薦めるが、何が狙いだ、深縹」

「特段、企みなどは無いがね。ただ君は一度“里帰り”すべきだと、私は考えるよ。仮に真実を知りたいのならばね」

 気の進まない話だ。それに、良からぬことを考えているのは確定的だ。

「まぁ、選ぶのは君だ」

 そう言うや、彼は大きなあくびをしてからテーブルに突っ伏してしまった。

「おい、カレーはどうするんだ」

 問いかけるも深縹は無視を決め込み、それどころか寝息を立て始めてしまった。

 深縹の傍らにある原型を失ったものと、まだ手を付けていない自分のカレーとを見比べてみた。しかし、どちららに対しても食欲をそそられることは無かった。先程まで抱いていた空腹感さえ消え失せて、今では鼻腔に纏わり付く臭いが、不快ですらある。

 何を得て、何を失ったのか。

 僕は、二つの皿を持ち上げると残飯入れに皿ごと放り込んだ。なぜ、そうしたのか自分ではよく分からないが、いや、分かっているのかも知れないが曖昧なことだ。それでも一つ確かなことがあるとすれば、これからは暦の認識がより薄れるということだ。

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