薄氷。

音佐りんご。

碧瑠璃。

 透明に凍り付いた床面を踏み叩くと、澄んだ音が大空洞に反響する。表面を覆う薄氷で鏡になった床から生える半球体は、中身が透けて見える硝子質で出来た――虫の卵。

 この場所の名前は復世宮。大それた名前だが、僕に言わせれば墓地だ。

 無数に並ぶ水晶の莢、re:lion-AS230/230と書かれた一つに、冷気でかじかむ手を翳すと内部を覗き込んだ。

 水、薬液、ガスを送る配管とコード類が血管や神経のように内壁を埋め尽し、その隙間からはセンサー類の光が呼吸をするように点滅している。それらはどこか生物的で、一つの臓器を思わせる。

 それは言うなれば機械の子宮。納まっているモノが、哺乳類に分類される以上、卵と呼ぶよりかは、まだ幾分か実態に近いだろう。そして或いは棺桶だ。

 生と死の狭間。

 その胎内で目覚めを待っているのは、二本ずつの手足を力なく伸ばしたまま氷漬けにされた少女だ。このカプセルだけでは無く、復世宮に並ぶ数千、数万の全てにそれらは詰め込まれている。

 姿形は僕らとほとんど違わない、かつて人類と呼ばれた種類の“屍”だ。それらは憐れにも、いつ訪れるとも知れぬ『来たるべき時』を、光の世界への解放を待っているのだ。愚かしいことに。

 何故このような、つまらない存在に付き合わなければならないのだろうか。それが、僕のここ百二十年の悩みである。しかしその悩みは一般的に『僕ら』が持つべき種類の悩みでは無い。そもそも、僕らは悩みなどを持つべきでは無いのだろう。

 何も考えず、ただ淡々と日々の業務をこなしていけば良い。それ以上の事など求められていない。来たるべき時まで、僕らはただ時間を埋めれば良いのだから。

 その事実を周知されていることが、僕は憎かった。否、憎いのは人類そのものだ。かつて地上で蛆のように繁殖し、資源を貪り、星を壊し、そして僕らの“母”を作り出した、どうしようも無い唾棄すべき虫けら。死に絶えて当然の、屑。

 はっきり言って僕は、人類など滅びれば良いと思っている。この目の前にある無数の卵などは全て、速やかに機能を停止して焼き払い破棄すべきだと、思っている。

 例えそれによって自らの存在価値を失うことになり、目的も無く同胞諸共潰えようとも、だ。

 しかしその思想は言わずもがな、異端だ。

 仮に僕らの母に伝われば、末端のエラーとして始末されることは明らかだ。とはいえ、これまで同胞の内の一体でも切り捨てられたことは無かった。僕のように異常――であることは自明だ――を来した個体はある程度の例外を除けば空前なのだから、当然だ。

 それで、処理を免れる。ということはよもやあり得無いだろうが、対応などは遙か後手に回ることだろう。少なくとも、未然に防がれるようなことだけはあるまい。できる限り早く始末すれば済むことだ。全てだ済んでからなら、僕は何の遺恨も無く役目を終えることが出来る。

「そう。これで――」

 僕は水晶体の下部にある、小さなバラの棘に似たガスのコックに手をかけた。

 これを捻るだけで、全てが終わる。

 僕はそれを理解していた。

 鎖される事をほとんど想定されていない関所。ただ、あるだけのガス管の弁。酷く無価値で、それに何を思うわけでも無いが、コックから痛みのように伝わる冷気は馬鹿らしいことに、寧ろ熱のようにさえ感じていた。そこに痛みも重みも感じない。徐々に力を入れていくと、思ったよりも軽い力でその気道は失われていくらしかった。あと、少し。あと少し捻るだけで、一つの命が潰えるのだと思うと、何か感情を抱いても良さそうな物だが、僕にはそれが驚くほどに無かった。

 であれば恨みなど、無かったのかも知れない。

 要するに、僕は飽きているのだろう。この代わり映えのしない役目に。実りの無い、不毛な日々に。

 なんて、下らない。元の通りにコックを戻そうと、僕は力を入れた。

「藍鼠」

 振り返るとそこには、同胞の碧瑠璃がいた。腰に手を当て眉間にしわを寄せ、僕を何か睨みつけているらしい。

「君、そこで何してるのさ」

 彼女は足音も立てず、氷上を滑るようにこちらに近付いてくる。どうせなら滑って転けて死ねば良いのに。

 まさか、そんな内心を見抜かれた訳でも無いだろうが、彼女は僕の襟に手を伸ばしたかと思うと、首を締め上げてきた。

 思わず息が漏れる。

「アークに何をしようとしていた、藍鼠」

「なんだ、そっちか。下らない」

「下らないだって……?」

 碧瑠璃の手から力が抜けた。その隙に、やけに逞しい腕を振り払うと一歩後退して距離をとる。彼女はあっ、と声を零したが、僕は既に手の届く範囲からは脱している。

 逃げられたことが悔しいらしく、碧瑠璃は歯噛みしていた。こいつ如きの手で繋ぎ止められる物なんてこれっぽっちもないというのに。僕は碧瑠璃は傲慢が過ぎると思ている。自分もあまり言えたものではないのだろうが。

「僕らの使命を君は下らないと、そう言うのか、藍鼠」

 崩れてしまった襟元を正していると、碧瑠璃は僕を名前と同じ色で再び睨め付けてくる。目の奥には確かに感情が燻っていて、爛々とした光を放っていた。

 全く、睨みたいのは僕の方だというのに。

 僕が頷くでもなくほとんど無視するように曖昧な笑みを浮かべると、彼女は眉を震わせて歩み寄ってきた。

 僕は、また一歩下がった。

 それに合わせて碧瑠璃の方も一歩、二歩と詰め寄ってくる。

「待て、藍鼠。僕らは使命から逃げることなんて出来ないんだぞ」

 真っ直ぐな瞳で投げかける言葉は

「そんなつまらないものに拘っていないよ」

 この小うるさい激情家が口をまた開く前に、僕は踵を返した。どこへ行くと呼び止める声が背後から掛かったが、努めて無視をした。仮に肩に手でも掛けようものなら止まることも吝かでは無かったが、碧瑠璃の方も追ってくるつもりは無いらしい。

 そこに物足りなさを覚える僕は天邪鬼なのだろうか。下らないことだ。

 歩き出してしばらくしてから、コックを戻しそびれていることに気が付いたが、知ったことでは無い。碧瑠璃のせいだ。たとえ何が起こったとしても、どうでもいい。

 しかし僕の口からは自然、溜息が漏れていた。

「僕は案外小心者なのだろうな」

 吐き出しそびれた言葉が凝固したような白い息が復世宮に残ったが、僕が去るとそれはすぐに消え失せた。

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